無価値化のひび
愛理は美しい女だった。性格もよく、話も面白かった。
体の相性もよかった。行為の最中は、互いに言葉をなくして、快楽の中に溶けあっていた。
僕らは、互いの境界がわからなくなるほどに愛し合った。そして、将来を誓い合った。
これ以上幸せなことはないと思えた。
それなのになぜだろう。この愛理という女性と、彼女がもたらしてくれたすべてのものに対する興味や関心が、完全に失せてしまっているのだ。
「ねぇ翔。あした一緒に映画見に行かない?」
愛理は行動が速い。少し強引なところもある。だからおそらく、もうすでにチケットは取っているのだろう。
僕は正直、家でのんびりしたかった。ひとりになりたかったのだ。
もっと言えば、僕は別の女と付き合いたくなっていた。そんな僕の表情を察して、愛理は次の日、ひとりで出ていった。おそらく、女友達か、あるいは別の男と映画を見に行ったのだろう。
そうであったとしても、咎める気にもなれなかった。
人間の恋愛感情や性欲というものに、僕はうんざりしていた。他の女と寝たいと僕自身が思っているのは事実だが、もしそうしたとしても、行為が終わった後に訪れる罪悪感と、何とも言えぬ空しさのことを考えると、積極的な行動を起こす気にはなれなかった。
子供のころ、僕には夢があった。音楽で成功することだ。
その夢はかなった。この国に住んでいる人なら誰もが知るほど有名になったわけではないし、紅白に出場したこともないけれど、二度週間ヒットチャートで一位をとれたし、ある有名な漫画作品の、七シーズン目のエンディングテーマを歌うこともできた。
努力が実った、ということなのだろう。確かに僕はここまでたくさんの努力をしてきた。音楽のことはもちろん、営業、コネ作り等、子供が夢見るのとは異なる、少し泥臭く、理想とはかけ離れた仕事だって、懸命にこなしてきた。
その価値はあっただろうか? わからない。正直、価値なんてものはどうでもいい。
僕は今の自分に満足しているだろうか? もっと上を目指さないといけないという衝動を持っていないことが、満足というのなら、僕はずっと前から満足している。
負け犬にはなりたくなかった。負け犬になりそうな時期もあったが、その時には必死になって踏ん張って、耐えた。そして今僕は、人生の勝者として生きている。
上には上がいるが、別に羨む必要はない。彼らだって、僕と同じかそれ以上に苦労しているものなのだから、安易に嫉妬するのは、ある意味ではとても失礼なことだ。リスペクトの欠如なのだ。
人生に退屈して、希望を見失っているような気がしている。周りの人間たちもそうだ。
もちろん、今でもエネルギッシュに新しいことに取り組んでいる者たちもいる。基本的に僕らはそういった人間に引きずられて、まるで自分もいまだに創造的で活動的な人間かのように生活している。
でも実際には、色々なことがどうでもよくなっている。今の僕を支えているのは、これまで培ってきた技術と、それに伴うプロ意識、あと、ちっぽけプライドくらいのものなのだ。
僕はこの年になって、少しわかったことがある。
人間の人生というものは、とびぬけて悲惨な状況にある人以外は、そう大して変わらないものなのだ。
今日の朝、缶コーヒーを買うために入ったコンビニの店員の女性は美人で、僕のことなど知りもしないだろうが、かわいらしい笑顔を向けてくれて、少し嬉しくなった。
彼女の人生が、僕の人生よりも喜びが少ないなんて、そんなことを言える道理はどこにもないのだ。
当然、彼女の隣で働いていた、背が高く肌の浅黒い外国人労働者の人生だって、そうだ。
人それぞれ何らかの喜びと空しさをもって生きていて、それらを他者と比較するなんて馬鹿げている。
人間に点数をつけるのも、優劣をつけるのも、くだらなくてやってられない。
人より上に立とうとすることも、勝ち負けを気にするのも。
人は欲しいものがあれば頑張るし、欲しいものがなくても、近くに頑張っている人がいれば、自分も頑張ろうと思うものだ。
欲しいものがなくて、周りに頑張っている人もいなければ、別に頑張る必要だってないのだから、そのままぼんやりと生きていけばいい。その生の苦しみは、それほど多くないだろうから。
「思想のない時代だ」
二十歳のころに歌った曲の中に、そんな歌詞があった。
僕らは何のために生きているだろう。何を模範にして生きているだろう。
何を目標にして。何を希望にして。
ただその日を、穏やかに浪費している。蛇口から水がぽたぽたと漏れるように、時間が少しずつ漏れ出して、最後にはきっと空っぽになってしまうのだろう。
老いからは逃れられないが、老いがやってくるまでの間にやっておきたいこともない。
やっておきたいことがあったとしても、それをやって、いったい何になるのだろうと考えてしまう。
そこにある、真っ暗な落とし穴のような空しさに対して、僕らはどういう答えを持っているのだろう。
もし神様がいれば、僕らはその神様に、僕らの空しさを埋めてくれるような永遠の光を求めることができただろう。
もし仏様がいれば、僕ら自身も仏様のように、空しさの存在しない存在になるたびに、厳しい修行に身を投じられたかもしれない。
でも、この時代、神も仏もないのだ。全ては、かつて、社会の都合と誰かの趣味によって成立したもので、その役割はもう終わりつつある、と考えられている。
少なくとも、僕や、僕の周囲の人間はみな、そういうふうに考えている。
何かに縋りたくなった時にだけ、現実から逃げ出したくなった時にだけ利用価値のある、悲しき幻想。それが僕らの宗教観だった。
私財を、国外のボランティア事業に投じた。何か、温かい感情が欲しかったけれど、関係者の人との会話で得られたのは、僕の低劣な自尊心へのくすぐったいような小さな快楽だけだった。
僕は褒められたり、尊敬されたり、感謝されたかったわけじゃない。ただ、誰かを助けることの喜びを感じたかった。
でも、誰かを助けたとしても、僕はそれ自体に価値が見出せる人間でもなければ、感動に打ち震えることのできる人間でもなかった。
人生というのはどこまでも空しく、意味のないものなのだと思う。
「どうやったら人間を、もっと見苦しくない存在にできるだろう」
たまたま喫煙所で出会った女性が、そうつぶやいた。彼女は煙草を持っていなかった。聞いてみると、煙草を吸いに来ているのではなくて、煙草を吸っている人と話すために来ているらしい。
「僕は見苦しい存在かい?」
「うん」
「そうか」
僕は煙草の火を消して、悩んだ。どうやったら自分は、見苦しくない存在になれるだろうか。
「君にとって、見苦しくない人間なんているのだろうか」
「いないよ。私自身だって、あまりに醜い」
「そうかな。君は美人だと思うけれど」
「この表面的な美しさのためにしている私の努力や苦労を見たら、私は自分を笑いたくなる」
「それはそうかもね」
「美しくないものが、美しくあろうとすることには、どこか滑稽なところがある。でも私たち人間にできることは、それだけみたい」
「なら、人間は生まれながらにしてどうしようもないほど見苦しい存在なんだね」
「それでいいと言えたらいいんだけど」
「僕はそれでいいと思っているよ」
「見るのをやめたから?」
「うん。目をつぶって生きていたっていいじゃないか」