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寂しさ  作者: 冷凍槍烏賊
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いたいいたいいたい!

 バイトを辞めてから半月が経った。辞めた理由は、新しく入った別のバイトの人のことが嫌いになったからだった。

 嫌がらせをしたり、露骨に避けたりするくらいなら、自分からその場を立ち去った方がいい。人と争うのは嫌いだし、これ以上多くの罪を抱えて生きるのにもうんざりだ。

 仲良くなっていた女の子に「大丈夫?」とか「相談に乗るよ?」とか、色々な連絡がきたが、それもめんどくさくて「またどこかで偶然会ったらそのとき話すよ」と返した。

 僕は遠回しに「二度と連絡してくるな」と言ったのだ。察しのいいその子は「ごめんなさい」とだけ返してきた。少しだけ申し訳ない気持ちになったが、忘れることにした。


 実家暮らしで、今年二十五になった。大学を卒業してから、定職につかず、基本的にバイトに行くとき以外は家にいる僕を、家族は「引きこもり」と呼ぶ。「家を出ろ」とは言わないが、だらしない体型をしているから「運動をしろ」とは言われる。

 僕はたまに散歩に行く。自分の容姿が見苦しいことは自覚している。風景に溶け込んで、目立たないようにしたいが、むしろそういった在り方が、人に不信感を抱かせるかもしれないので、道の中央と端のその間あたりを、しっかりした足取りで、前を向いて歩くことにしている。

 人とすれ違う時は、軽く会釈する。それが会釈だとぎりぎりわかる程度の、浅い会釈だ。相手が挨拶の言葉をかけてきたら、少しだけ歩を緩めて、相手より少しだけ小さい声で同じ言葉を返す。

 自分自身のそういう在り方に、僕は満足している。


 生きることは誰にとっても難しいし、人間はみんな苦しみながら生きている。だから、誰に対しても優しくしなくてはならない。

 傷ついている人間をさらに痛めつけていい道理なんてどこにもないのだから、もし自分が誰かから危害を加えられたとしても、その相手に仕返しはしてはいけないのだ。その相手も、ひどく苦しんでいるのだから、優しくするのが人間として生まれた者の義務である。

 五年前、ちょうど今の僕と同じ年の時に自殺した兄は、口癖のようにそう言っていた。

「だから、将悟。どんな人にも優しく接してくれ」

 兄が誰に対しても優しい人間だったかどうかはわからない。両親と口論しているところは何度見たし、兄がひとりで泣いているところも何度も見た。僕は何もできなかったし、何かをする必要があるとも思わなかった。

 兄が死んだとき、僕は泣かなかった。僕にできることは何もなかったし、そもそももっと前からこうなるような気がしていたからだ。

 二十歳になったばかりの僕は、経済的に追い詰められていたり、家族との関係の悪化から、住むところすらなくなりそうな友人などが何人もいて、人生というのはそう簡単なものではないし、ひどく厄介なものだと分かっていた。

 人間は傷つけあうし、奪い合う。そういう生き物だとずっと前からわかっていて、誰かと協力したり、互いに守り合ったりするのも、結局は他の人間から傷つけられないための防御策で、兄のように「誰に対しても」という責務をもって生きるのは、あまりに難しいし、他でもない自分自身を犠牲にしなくてはならなくもなる。


「兄さん。兄さんは、兄さん自身に対して優しく接することができたのかい?」

 兄が死んでから三年ほど経ったころに、ふと兄にそう聞いてみたくなった。正確には、そう聞いておけばよかったと後悔をした。

 もしかすると、その言葉によって兄はもう少し長生きできたかもしれない。

 でも、と思う。兄は、今の僕以上に人生のどん詰まりに行きあたっていた。「死ななければいいことがあるよ」なんて言うことはできないほど、色々な問題が彼の肩にのしかかっていた。

 ひとつ問題が解決される前に、ふたつ以上の新しい問題が彼のもとにやってきて、しかも周囲の人間は誰も彼を助けない。助けられない。

 僕はそういう兄の状況を知っていながら「どうでもいい」と思っていたし、今もそう思っている。だから詳しい実情は今も知らないし、当然両親も知らない。誰も知ろうとしないし、それでいいのだと分かっている。

 結局は、周囲の人間のそういう態度が兄を殺したわけだが、まぁ、人間の生というのはそういうものなのだ。


「よし、人生を破壊してやろう」

 来月で中学三年生になる男の子が、そう言って笑った。僕は彼と二年前公園で知り合った。彼はまだ小学生で、ひとりでサッカーボールを蹴っているところ、僕が通りかかった。彼はなぜか僕に向かってボールを蹴ってきて、僕はそれを蹴り返した。

 小学生の時、僕は兄の影響でスポーツ少年団に入っていた。しかし一度も試合に出してもらえず、中学生になってからは授業以外で一度もボールを蹴ることはなかった。

 彼は、公園で友達を待っている様子だった。だが、その友達は日が沈むまで来なかったので、僕は彼と二時間もずっとボールを蹴り合っていた。

「そろそろ帰れよ」

 と彼は言ったが、その声は涙ぐんでおり、背を向けて公園の段差になっている部分に、膝を立てて座って小さく丸くなったのを見て、僕はその隣に、同じようにして腰かけた。

 彼は静かに泣いたが、結局なぜ泣いているのかわからなかった。

 しばらくして彼は泣き止むと、黙って歩き去っていった。その足取りはしっかりしていた。だから僕も帰ることにした。

 次の日の夕方、また同じ時間に彼はひとりでボールを蹴っていて、僕を見つけたら勢いよくパスを出してきた。今度は、ただ僕と遊びたかったようだったから、そこでいろいろな話をした。学校のこと。先生のこと。はやっているゲームのこと。好きな漫画のこと。


 中学生になってから、彼はサッカーをやめたらしく、一緒にボールを蹴ることはなくなったが、妙に縁があって、自治会の祭りの手伝いをしているときに会って話をしたり、コンビニでバイトをしているときに客としてやってきたり、顔を合わせる機会が多くて、ある時彼から連絡先を交換しようと言われて、それ以来時々一緒に遊ぶようになっていた。

 彼は中学生にしては大人びており、人生に対して達観したようなことを言うことが多かった。

 「俺はガキだから」が彼の口癖だった。


「人生を破壊する?」

「そう。めちゃくちゃにしてやろうって思うんだ」

「誰の?」

「もちろん、俺の」

「どうして?」

「うざいから」

「うざい、か」

 僕は少し考えた。彼は何が言いたのだろうか。敷かれたレールの上を歩くのが嫌になったのだろうか。それとも、親の理不尽な要求にこたえるのが嫌になったのだろうか。

「どうやって破壊するの?」

「まずは、学校の窓ガラスを割る」

「ほう。けっこうありきたりだね」

「そう? じゃあ、理科室の顕微鏡でも壊そうかな」

「それはあんまり聞かないね」

「できるだけ、誰も傷つけないように、自分の人生を壊したいんだ。本当は迷惑もかけたくないけど、でもそれは難しいと思うから」

 彼は時々、自分の死んだ兄に似たことを言うときがある。彼自身の実際の行動や態度からは考えられないほど、極端で、善良な言葉を口にするのだ。

 しかも、いざというとき、何か決定的な選択があるときは、普段の彼ではなく、そういった雄弁な彼が出てきて、当然のように、難しくて立派な行いをする。しかもそれを誇ったりはせず、さも当然のことのような顔をする。そして、他の人間もそうすべきだと、無邪気に人に難しいことを要求する。

 他の人間が、彼の基準に満たしていないと、彼は残念そうな顔をする。決して怒ったりはしないが、その軽蔑のまなざしは、人の心を痛めつける。でも彼は、人を傷つけているという自覚はない。


 端的に言えば、彼も、死んだ兄も、青臭かったのだ。

「人生を破壊する、か」

 二人並んで公園のベンチに座り、遠くの空を眺めている。僕はただ、思いついた言葉を無責任に口に出す。

「でも人生に、破壊する価値なんてあるのかな」

「どういう意味?」

「君のは知らないけど、僕のに関しては、そうたいそうなものではないから、破壊したって、疲れるだけだろうなって思うんだ」

「大人ってのはそういうものかもな」

「他の大人は僕を半人前扱いするけどね。ちゃんとしたところで働いてないから」

「嫌だよな、そういう大人って。すぐ、自分の基準で人を判断しようとする」

「でも君だって、そうなんじゃないの?」

「ガキだからいいんだよ」

「大人になったら、大人だからいいんだよって言うの?」

「そういうことが言えなくなるように、今のうちに、人生を破壊して、立派な大人になれないようにしておくんだ」

「まるで他人事みたいだな」

「実際、未来の自分なんて他人事みたいに思えるんだ、俺。おかしいかな」

「ちょっとわかるよ。十年後の自分を想像しろって言われても、そいつはなんか、赤の他人みたいに思える。十年前の自分も、何も知らない世間知らずの痛々しいガキみたいに見える」

「俺みたいな?」

「僕は君ほど自分の人生を考えていなかったし、他人のことも見ていなかったよ」

「俺、賢いしな」

「君は賢いよ。勉強もよくできるんだろ?」

「前のテストで学年三位だった」

「それがどれくらいすごいのかは僕にはわからないよ」

「二百人程度の狭い井戸の中で争っているのに、俺より出来のいいやつが二人もいる。結局、俺はふんぞり返ることもできない醜く小さな蛙ってわけだ」

「せめて、それを自覚していることを誇ろうってわけだね」

「ふふふ。大人がみんなあんたみたいに面白いやつだったらいいのにな」

「僕なんて大人の中じゃ一番価値の少ない人間だよ」

「じゃあ人生と一緒に価値という価値を破壊してみようかな」

「どうやって?」

「うーん。県で一番いい高校に入って、入学式の次の日に辞めるとか?」

「それで価値を破壊できると本当に思う?」

「もったいないって言われておしまいだろうな」

「それに、学歴っていう価値を破壊したいなら、高校じゃなくて大学でやらないとね」

「もっと価値そのものを破壊できる方法はないのかな」

「……自殺とか?」

「それだ! ははは」

「確かに自殺は、生そのものの否定としての意味を持つから、常に生と結びついている価値を破壊する行為と言えなくもないね」

「自殺、か。なぁ将ちゃん。俺が死んだら、将ちゃんどう思う?」

「どうだろうなぁ。そうなってみないとわからないかも」

「でも、不思議だよな。多分俺が死んだら、俺のことをちゃんとわかってくれてる将ちゃんよりも、俺のことなんて知りもしないし、どうでもいいと思っている親や、友達、先生の方が悲しんで、泣くんだもんな。何かしてあげられたらよかったな、なんていうんだろうな。あいつら。今こうして、俺のために何かしてくれてるのは、悲しまない将ちゃんの方なのに」

「僕も多分少しは悲しむと思うよ」

「でも、あいつらほどは悲しまないと思う」

「だね」

「どうしてだと思う?」

 僕は黙って少し考えることにした。確かに言われてみれば不思議な話だ。苦しんでいる人に寄り添っていた人間よりも、寄り添っていなかった人間の方が、より悲しむなんて。

「結局は利己的であるっていうことなんじゃないかな」

「どういうこと?」

「多分、たいていの人は、他人を、自分の役に立っている間はあまり気にかけない。そして、できるだけ役に立ち続けてほしいと思っている。君が死んだら、君がしてくれると見込める行為のすべてが、他の人たちにとっての損失になる。逆に、僕のような人間は、君が僕にとって都合のいい人間でないことを知っているから、君が死んだことによる僕の損失は、ほとんどないことになる。だから悲しくない」

「人は損したときに悲しくなるのか」

「そうなんじゃないかなって」

「俺、そんなことないと思う」

「ほう」

「遺産が入ったって、肉親が死んだら悲しいと思うから」

「でも、悲しみをやわらげてはくれるんじゃないかな。得をしたという事実は」

「それはそうだと思う」

「逆に、損が大きければ悲しみは大きくなると思わないか」

「それもそうだと思う」

「なら、損得が人間の悲しみのメカニズムではなかったとしても、その大小にかかわっていることは否定できないね。だったら、さっきの僕の説明は正しいと言えるんじゃないかな?」

「論理的には、そうかもしれない。でも納得はできないな」

「なら、別の答えが必要だね」

「うん。ひとりでじっくり考えてみる」


 彼は三日後、ラインでこう書き送ってきた。

「自殺はやめとく。別の方法で、この世界の価値を破壊したいと思う」

 そんなの無理だ、と思う。子供っぽい妄想だ、と。

 でももし彼にそう言ったら、きっとこう返してくるだろう。

 「叶うわけのない夢を抱くのは子供の特権だ」と。


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