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習作

東の楽園

作者: 通木遼平

とある映画の雰囲気に影響されて書いたのでびっくりするくらい淡々としています。

ちょっとした習作です。


2022/3/13ジャンルを変更しました。







 引き出しの奥から出てきたのは数枚のブロマイドだった。軍服姿の華やかな顔立ちの女性が、シュッラのいう四弦の民族楽器を抱えて艶やかに笑っている。エステファニアは偶然見つけてしまった夫の秘密をただじっと見つめることしかできなかった。






***






 エステファニアが恋人関係にあったフェリクスと結婚するに至ったのは彼女の妊娠がきっかけだった。付き合っていた頃、二人は近くに住んではいなかったため普段は手紙や電話のやり取りしか叶わなかったが、それでも時折直接顔を合わせ、朝を共に迎えた。

 妊娠がわかった時一緒に暮らす母はあきれながらも喜んでくれ、仕事仲間からの祝福もうけたが肝心のフェリクスがどんな反応をするのか全く想像できなかった。もし拒絶されたら、一人で育てるしかない……母が自分を女手一つで育ててくれたように。


「結婚しよう」


 しかしその密かな決意に反して、エステファニアから妊娠を告げられたフェリクスは呆然としながらもそうこぼした。灰色の瞳に映る自分の間抜けな顔に我に返ったのか、フェリクスは頬を赤くしてひとしきり焦った後、改めて子どもができたことを喜び、エステファニアにプロポーズをした。




 これほど幸せを感じたことはなかっただろう。


 


 その幸せにほんの少し影ができたのはよりにもよってエステファニアがフェリクスと結婚式を挙げた美しい日のことだった。




「フェリクスには忘れられない恋人がいるのさ」


 その言葉を聞いたのはまだ内戦の跡が残る教会で結婚式を終えた後、近くのレストランで行われた披露パーティーでのことだった。新郎新婦の家族や友人が集められた楽しいひと時に、フェリクスがエステファニアの傍を少し離れた隙をついてそう言ってきたのは、フェリクスと兄弟のように育った男だった。


「君は身代わりなんだろうな。彼女ほど美しくはないが、輪郭や鼻の形はなんとなく似ているから」


 声には悪意が込められていた。彼女は敏感にそれを察し、男の言葉にひと言も返すまいと決めてぐっと硬く唇を結んだ。フェリクスが戻ってくるのを見ると、男は満足する反応が得られなかったことに不満を見せつつも引き下がった。

 美しい花嫁の顔を心配そうにのぞきこんだフェリクスに、エステファニアは強ばった表情をほっと緩めた。


「パブロに何か言われたのか?」


 そうたずねられても、どう返したらいいかわらかない。まさかフェリクスに「忘れられない恋人がいるの?」なんて聞くわけにはいかないのだから。


「あいつを招待しない方がよかったかな」

「そういうわけにもいかないわ」


 パブロはフェリクスの友人たちの中で一番付き合いが長く、パブロの両親は両親を早くに亡くしたフェリクスにとって育ての親と言える相手だった。パブロだけを無視するのは難しい。


「これからは距離を置こうと思っているよ。おじさんやおばさんもわかってくれる」


 エステファニアの腰を抱きながらフェリクスは耳元でささやいた。


 しかし実際、そううまくは行かなかった。フェリクスが友人たちと集まる時パブロも必ずその場にいたし、そういう時は大抵強引にフェリクスとエステファニアの家にやって来て、フェリクスのいない隙をついて同じ毒を打ち込むのだ。


 お腹の子が大きくなっていくにつれて、エステファニアの悩みも大きくなっていった。フェリクスはすぐにそれに気がつきどうしたのかとたずねてはくれたが、彼に悩みを打ち明けることはできない――そうしている内に、エステファニアは偶然、寝室のキャビネットの引き出しの奥に、数枚のブロマイドが大切に隠してあるのを見つけてしまったのだ。






***






 エステファニアがしないような笑顔をブロマイドの女性は浮かべている。少しこすれた白いインクで“エルスール”とサインがしてあった。彼女の芸名だ。パブロが毒のように打ち込んでいた“フェリクスの忘れられない恋人”という言葉が浮かび、エステファニアは眉を下げた。


 家の玄関から「ただいま」というフェリクスの声が聞こえ、エステファニアは咄嗟にブロマイドを元あったように隠した。それから何もなかったように表情を取り繕い「おかえりなさい」と愛する夫を出迎えたのだった。






 エステファニアはブロマイドのことを忘れることにした。フェリクスを問い詰めることもしなかった。フェリクスが隠したいと思っているものを無理に暴いて気まずい思いをするのも嫌だった。パブロは相変わらず顔を合わせるたびに同じ毒を打ち込んでくれるが、もう気にしないことにした。


「手紙が来たの」


 大きくなっていた悩みは嘘のように消え、エステファニアはやっと心からフェリクスとの結婚生活を楽しめるようになっていた。


「結婚と、子どもができたお祝いをしたいんですって」

「あの人、忙しいんだろう?」

「そうだと思うわ。やっぱり申し訳ないわよね」


 夕食後のひと時をソファに並んで座って、フェリクスにもたれかかるようにしながらエステファニアは届いたばかりの手紙を見せた。手紙の送り主はエステファニアの母の知り合いで、エステファニアを昔から実の娘のように気にかけてくれていた。結婚式には招待したが仕事があって出席が叶わず、結婚式の直後に謝罪とお祝いの手紙が届いたがまだ気になっているらしい。


「だけど断ったらますます気にしそうだな」


 手紙を読んで、フェリクスは苦笑いをした。


「とりあえず気持ちだけで充分だと返事を出して、子どもが生まれたら会いに行こうか?」

「そうね、わたしもそれがいいと思う」


 幸せな顔を見せれば送り主も落ち着くだろう。「そういえば」とフェリクスは口を開いた。


「結婚式に来れなかった友だちが、お祝いに来たいって言うんだ」

「家に? わたしはかまわないけれど……」

「軍にいた時、一緒の隊だったヤツらだよ」

「えっ、じゃあ、パブロも来るの……?」


 少し前までこのトラングホードは内戦が行われていた。フェリクスは従軍し、パブロも当然のように一緒だった――というよりも、パブロに誘われた強引に従軍することになったのだ。その軍での知り合いならば、当然パブロも知り合いだろう。


「パブロは誘わないつもりだけど……勝手に来るかもしれないから……すまない」

「そう……いいのよ、あなたが悪いわけじゃないもの」

「おじさんとおばさんにも一応話してあるんだけど、パブロは聞かないらしい……」


 パブロはどうして自分たちに関わってくるのだろうか? エステファニアには理解できなかった。フェリクスも同じなのだろう。その表情は暗く、申し訳なさそうにエステファニアの前髪に口づけを贈り、ふくらんできた腹をそっと撫でた。


「他のヤツらは話もわかるし気のいいヤツらだから……事情を話しておくよ」

「ありがとう、フェリクス」






 しかしその友人たちも、パブロを止められなかったようだ。結局、その日フェリクスとエステファニアの家を訪れたのはパブロを含めた四人だった。もっとも、他の三人が目を光らせてくれたおかげでいつものように隙をついてパブロがエステファニアに毒を打ち込もうとすることはなかったし、パブロも三人の視線が鋭いことに気づいたのかいつもよりは大人しい印象だった。

 エステファニアがフェリクスと作った料理を並べ、男たちは酒を飲み新婚夫婦にお祝いを言って、穏やかに思い出話に花を咲かせて時間は過ぎて行った。壁の時計が九時を告げる頃には作った料理はほとんど空になり、皆いい感じに酔いが回っていた。皿を片付けようとエステファニアが手を伸ばすと、男たちは慌てたようにそれを止めた。


「片づけなら俺たちがやるから」

「でも折角来てくれたのにそんな」

「いいっていいって。お腹に赤ちゃんがいるのにそんなことさせる方が悪いよ」

「お言葉に甘えればいいよ、エステファニア。こいつらだって皿洗いくらいできるから」

「言い方がよくないぞ、フェリクス」


 エステファニアは笑った。「それなら甘えようかしら」と言うと、赤い顔をした男たちはふらつくことなく立ち上がって皿をキッチンへ運んで行った。


「先に休む? 後はやっておくから」

「大丈夫よ」

「それなら座ってゆっくりしてて」


 フェリクスも立ち上がり片づけに加わった。「パブロは?」とスポンジに洗剤をつけながら一人がたずねた。


「そういえばさっきからいないな……トイレか? 吐いてなければいいけど」

「あいつ、吐くような酔い方するヤツだったか?」


 誰かが階段を下りる音がしてエステファニアは顔を上げた。二階には寝室とフェリクスの書斎、それから物置に使っている部屋しかない。まさか……と思って立ち上がったエステファニアに、フェリクスが心配そうに近づいてきた。


「どうした?」

「二階に……」


 足音と共に現われたのはその場にいなかったパブロだった。この場にいる誰よりも赤い顔をして、足元はふらついている。その手には何か小さな紙が握られていて、それが何か気づいたエステファニアは青ざめた。


「パブロ、勝手に二階に行ったのか?」


 さすがにフェリクスが表情を険しくした。悪びれも無くパブロは鼻を鳴らし、ふらつきながらエステファニアに近づこうとしたため、彼は咄嗟に妻を背中にかばった。


「よくやるな」


 パブロはますますバカにした様子でフェリクスに言った。


「なあ、そうだろ? こんないい夫のフリをしてこいつは恋人を忘れられないんだ。よく似た女と結婚するくらいに。エステファニア、どうしてこいつに聞かないんだ? ずっと教えてやってただろ、こいつに恋人がいるって」

「何の話だ?」

「エルスールのことだよ!」


 持っていた紙をパブロは投げつけた。舞い落ちたそれは少し前に、エステファニアが見つけてしまったあのブロマイドだった。






***   ***






 空気に染みこんでいくような弦楽器の音と艶やかな歌声が、美しい果樹園の若い恋人たちの戯れを歌っていた。その曲に惹かれたのか、その歌声に惹かれたのかフェリクスにはついぞわからなかった。

 しかしその当時の彼の憂鬱な気持ちに清涼感を与え、その心を幾分か救ってくれたのは間違いなくその歌声と、歌声の持ち主である彼女の存在だった。






 フェリクスの生まれ育ったトラングホードは自然豊かな美しい国だったが、彼の二十歳前後の十年ほどにわたって内戦状態に陥っていた。国の西部に多く暮らす、かつて貴族と呼ばれていた特権階級に対して開拓を終えたばかりで広い農地の多い東部の国民がその特権を手放すように訴えたのがはじまりだった。

 かつての貴族たちは一部の税金が免除され、年金も多く、それ以外にも様々な権利が法によって守られていた。一方で、かつてその貴族たちの民だった者たちは変わらず高い税金を払い国を支えつづけていて、不満が爆発するのは仕方のないことでもあった。

 最初は議会の言い争いだったはずがいつの間にか国民に火がつき、気づけば国は東西にわかれ戦争がはじまってしまった。戦いは長くつづき、国は疲弊していく一方だった。


 フェリクスは西部の生まれで特権階級の人間ではあったが、西部軍の考えに賛成していたわけではなく、従軍はただ悪戯に彼の心をすり減らしていった。




 埃と土のニオイが混ざった西部軍のキャンプは若い兵士たちで溢れかえっていた。彼らはそのほとんどが特権階級の生まれで、自らの権利を守るために従軍していた。特権階級ではない者も多少はいたが、彼らはたまたま西部で生まれ育ち、職が見つからず戦争に参加しているだけという者がほとんどだったため、特権階級の兵たちとは同年代でもさりげなく距離を取っていた。

 キャンプは当然雰囲気が悪く、戦況も悪くなればなおさらだった。閉塞感に包まれ、誰もが疲弊していた。休息日に近くの町に繰り出しても問題ばかり起こすので、若い兵たちが町へ行く日はほとんどの店が閉まるありさまだった。


 しかしその日、キャンプは珍しく活気にあふれていた。政府の高官が旅芸人の一座を連れて慰安にやって来たのだ。明るいショーや芝居、何より女芸人の姿に若い兵たちは生まれや階級に関わらず浮かれていた。ただ一人、フェリクスを除いて。


 こんなくだらないショーを見るより、この無意味な内戦が早く終わってくれた方がよほどなぐさめになる。


 フェリクスは元々西部と言っても北の山間の土地の生まれで、父親がそこの領主だった。フェリクスの家族は確かに特権階級と呼ばれる身分ではあったが領地が豊かとは言い難く、その恩恵も領地やそこに住む人たちのために活用しなければならないほどだった。

 そのことを、フェリクスは不満に思ったことはない。幼い頃の記憶だが確かに故郷で過ごした日々は温かく幸福だった。

 両親が早くに亡くなり、親戚付き合いなどもなかったため国から新しい領主が派遣されることになり――幸い、新しい領主も善人だった――身寄りのないフェリクスは両親の友人だった夫婦の元に預けられることになった。かつて貴族制度があった頃は公爵家にあたる家柄だったその一家は、典型的な特権階級だったが夫妻は善良で、フェリクスは快く迎え入れられた。


 二人はフェリクスが成人した後は好きな仕事ができるように支援をするからと言ってくれたがさすがにフェリクスは遠慮して自分の貯金や遺産から生活費を支払い、学校へは奨学金を得て通った。大学まで出ると学校の講師の仕事を得て独り立ちをしたが、夫妻の息子であるフェリクスと同い年のパブロによって、彼はこうして従軍する羽目になったのだ。


 そのパブロは率先して舞台の女芸人――この一座の花形らしい――に手を伸ばそうとしている。


 うんざりした気分でフェリクスはそれを遠巻きに見つめていた。従軍も、一人ですればよかったのだがパブロはそんな気概はないのだろう。舞台上の女は使い込まれた民族楽器を手に艶やかな声で歌っていた。それは兵を鼓舞する歌や、色っぽい恋の歌が主だったが、一曲だけ挟まれたその穏やかな恋の歌がフェリクスの耳に残った。




 ショーが終わるとブロマイドなどが売られた。一座はしばらくこのキャンプに近い町に滞在するらしい。休みでなければ町に近づけないが、フェリクスはどうしてもあの歌手が気になってキャンプから立ち去る準備をする一座にこっそりと近づいた。


 彼女に会えるのではという期待をしていなかったわけではないが、それは本当に偶然だった。


 そっと近づいた楽屋がわりのテントからくすんだ金髪が飛び出してきた。それは間違いなくあの歌を歌っていた女芸人で、フェリクスも彼女も、同時に目を丸くした。


「あら、ごめんなさい」


 ぶつかりそうになったのを、女は謝った。


「いや、こちらこそ……」

「トリニダードさんに用事?」


 トリニダードは一座を連れて来た政府の高官だ。知的な灰色の目をした五十代の男で、特権階級だがこの内戦には反対しているという噂だった。フェリクスは首を振り、何か理由を探したが思いつかず、結局正直に「君に会えるかと思って」と告げた。


「歌が素晴らしかったから、それを伝えたくて」

「ありがとう」

「果樹園の恋人たちの歌が特によかったよ。あれはどこかの民謡?」

「違うわ。楽器の音でそう聞こえるみたいだけれど。でもあなた、変わっているのね」

「えっ?」

「あの歌が、一番反応が悪かったのよ」


 女は笑った。テントから別の芸人が出てきたので、邪魔にならないように二人は脇に避けた。


「でもうれしいわ。わたしも今日の歌の中では、あの歌が一番好きなの」

「明日もあの歌を歌ってくれるかい?」

「そうね、あなたが聞きに来てくれるなら」


 いたずらっぽくそう言う女に、フェリクスは胸の奥がかゆくなるのを感じた。冗談だとわかっていても浮足立ってしまうのは仕方のないことだろう。


 その日から、フェリクスはたびたび彼女――エルスールと顔を合わせた。彼女の仲間は二人の仲をとやかく言わず、フェリクスは彼の仲間にその逢瀬のことを何も話さなかったので、一座がキャンプの近くに滞在している間、二人の仲が周囲に広まることはなかった。


 休みになると、フェリクスはエルスールと二人で出かけた。若い兵たちが赴く近くの町ではなく、キャンプからは離れた美しい林や、畑の広がる小さな村が主な行先だった。自然を楽しむようにのんびりと歩き、時に彼女が思いつくままにメロディーを口ずさむのを聞いたり、お互いのことを話したりした。


「わたしたちは元々、東部が主な活動拠点なの」


 どうして慰安に来ることになったのかたずねた時、エルスールは言った。


「わたしの母が――今はほとんど裏方をしてるんだけど、若い頃はうちの看板女優で、トリニダードさんは母のファンだったの。今でも交流があって……それで慰安に来てくれないかと話が来たみたい」

「あの方は戦争には反対みたいなのに、どうしてそんな気を遣ってくれたんだろう……それもこっちの軍に」

「内緒だけれど、東部軍にも行ったのよ」

「そうなのかい?」

「トリニダードさんは、戦争に参加している若者に同情しているの。若者の将来を考えているフリをする大人はいるけれど、結局は自分たちの訴えを通すために戦争に若者を送り込んでいるでしょう? 特にこの西部は……トリニダードさんは若者たちこそ特権がなくなっても人生がこれからなのだから問題なく過ごせるだろうと思っているみたい」

「どうだろうな……」

「でも実際に、偉そうな年よりは前線には立たないでしょう?」


 どちらにしろ命を懸けるのは未来ある若者で、戦争で心を傷つけているのもその若者だった。トリニダードはそれを憂いて、彼らの心が少しでも癒されるように気を配っているらしい。戦争が早く終わるよう尽力したり、この慰安だったり、あるいは軍を退いた時の療養先の充実だったりした。


「ここにはいつまでいるんだ?」

「トリニダードさんの仕事の都合に合わせての滞在だから……あと二日ほどかしら」


 エルスールたちはもう一週間はこの地に滞在していた。旅立てば、また東部へと戻るのだろう。


「その後は……もう君の歌は聞けない?」

「聞きたいの?」


 エルスールは目を丸くして自分の腰を抱いて歩く恋人を見上げた。


「そんなに驚くことか?」

「今までわたしの恋人役を務めた相手は、みんなわたしが旅立つ話なんて興味を持たなかったわ。名前も知らない女ですもの」

「僕は知っている」


 「そうね」とエルスールは笑った。その美しい灰色の瞳が愛おしくて、フェリクスはそっとまぶたに口づけを落とした。


 フェリクスとエルスールの関係は、エルスールが旅立った後はもちろん、戦争が終わった後もつづいた。軍をやめたフェリクスは以前住んでいた場所を引き払ってしまっていたのもあって育った土地から少し離れた場所に改めて家を借り、その町の学校で講師として働きはじめた。終戦の理由は内戦により疲弊したトラングホードの周囲の国がきな臭くなったからで、痛み分けのように取り繕ってはいるが実際のところ西部軍の敗北に近かった。今は特権階級の権利はく奪のために政府が動いているという。あのトリニダードもその一人だった。彼はもともと、特権階級の権利をなくすべきだという考えの派閥だったためだ。


 エルスールは東部にいる。旅芸人なので住所が定まらず、彼女からの手紙にはいつも滞在先が書かれ、そこの絵葉書が同封されていた。フェリクスはできるだけマメに彼女へと手紙を書いた。

 時折、二人のいる場所の中間地点で落ちあい、顔を合わせることもあった。その土地の食べ物を楽しみ、少しいいホテルに泊って朝までベッドの中で戯れた。腕にエルスールを抱きしめて眠ることは、彼にとって幸福を抱きしめて眠るのと等しいことだった。


 エルスールの色素の薄い髪が、カーテンの隙間から差し込む朝日を受けて金色に輝いて見える。このひと時を永遠のものにできたらと、その頃のフェリクスは願ってやまなかった。






***   ***






 背中を向けているフェリクスがどんな表情をしているのかエステファニアには見えない。けれどその背中からでも、彼が動揺したのがわかった。


「こいつは未だに大事に写真なんか持ってるんだ! 最低だろう!?」

「勝手に寝室に入るなんてその方が最低よ」


 フェリクスを押しのけるようにして前に出たエステファニアははっきりとそう言った。


「このことはわたしと彼とのことであって、あなたには関係ないわ、パブロ。どういうつもりなのか知らないけれどいい加減にして」


 パブロの顔が歪んだ。一瞬で頭に血が上ったのだと、誰の目から見ても明らかだった。勢い良くのばされた手を避ける間も無くドンっと衝撃が走り、エステファニアの短い悲鳴とフェリクスが彼女の名前を呼ぶ声が重なった。


「おい! 何をしてるんだ!!」


 キッチンから飛ぶように友人たちがやってきてパブロの体を抑えた。


「この女!! 俺が親切に教えてやったのにバカにしやがって!!」


 「エステファニア、大丈夫か?」と青ざめた顔でフェリクスが床に倒れたエステファニアを抱き起こした。幸い、友人たちが座っていたクッションがあったためそれほど衝撃はなかったが、机の角にぶつけた腕が少し痛む。


「パブロ、お前、酔ってるんだ! 送ってやるから帰るぞ!!」

「酔ってるもんか!! 離せ!!」


 引きずるようにして友人二人がパブロを外へと連れ出すのをエステファニアとフェリクスは黙って見つめていた。残った一人が夫婦の傍にしゃがみ込み、心配そうに二人を見た。


「大丈夫か? 悪かった。俺たちがパブロのこと追い返しておけば……」

「気にしないでくれ。僕らも同じだ……」


 残った一人は医者だった。エステファニアに大丈夫だったかたずね、何かあればいつでも電話をしてくれと二人に申し出てくれた。それからエステファニアが机にぶつけた腕もその場で診ると言って手を差し伸べた。


 フェリクスの視線が床に散らばったブロマイドを気まずそうに見たのに、エステファニアは気がついた。「お前がそのブロマイドを大切に持ってたなんてな」と医者の友人が苦笑いした。


「エルスールは人気だったし、俺もブロマイドを買ったけど……軍服としまってあるよ」

「そうか」


 フェリクスはブロマイドを拾って集め、机の上に置いた。それから気まずそうな視線のままエステファニアを見た。


「パブロは君に何か言っていたのか? いつから?」

「……あなたが昔の恋人を忘れられなくて、ちょっと似ているところがあるわたしと結婚したって……結婚式の時にはもう言われたわ」

「どうして話してくれなかったんだ?」

「聞けないわ、そんなこと……でもちょっと前に偶然そのブロマイドを見つけてしまって……エルスールのことだったのね」


 フェリクスは酒で赤くなった顔をさらに赤くした。


「パブロのこと、どうするんだ?」


 場の空気を換えるためにか友人が口をはさんだ。


「きっとまた絡んでくるぞ」

「どうしてあいつはこんなこと……」

「お前に嫉妬したんだろうな」

「嫉妬?」


 フェリクスとエステファニアは友人を見た。


「あいつはお前のいないところで俺たちやお前のことバカにしていたから……エルスールとつき合いはじめた時もかなり怒ってたんだ」

「知っていたのか?」

「あいつが偶然見かけたらしくて……隠してたんだろ? 言いふらしたりはしていないよ。あいつは俺の家が世話してやってる居候のくせにってぶつぶつ言っていたけど」

「世話って……確かにあいつの家で暮らしていたけど、生活費は親の遺産で家賃も払ってたのに……」

「あいつは知らなかったんじゃないか?」

「いや、あいつの前でもその話はしたことあるよ」

「じゃあ忘れてたんだな。都合よく――未だにフェリクスのこと怒ってるよ。俺たちへの態度も変わらないし」


 医者の友人は特権階級の家の出ではなく、西部出身だがごく一般の家庭に生まれた。西部軍に従軍することになったのは学校を出て就職がうまくいかず、軍医ならばすぐに就職できたためだった。

 パブロは彼を含めた西部軍のそういう特権階級ではない兵に対して随分と偉そうな態度を取っていたらしい。フェリクスの前では多少うんざりする態度を取ることもあったがまだマシだったそうだ。エステファニアはあきれたようにため息をついた。


「フェリクスは何も悪くないのに」

「そうだな。でもあいつはそう思えないタイプなんだよ」


 友人はもう一度パブロを連れてきてしまったことを謝り、片づけ途中であることをわびて帰っていった。楽しい時間はまるでなかったかのようだった。エステファニアは疲れ切ってソファに身を預け、フェリクスも同じような気分でそのとなりに座った。


「悪かった、エステファニア」

「フェリクスが謝ることなんてないのよ」

「だけど君に暴力を振るうなんて……近づくなと、もっと強く言っておくべきだった」

「……きっと言ってもわからないと思うわ」


 なぐさめるようにエステファニアはフェリクスの腕を撫でた。


「でも……わたしたちだけなら我慢できるけれど、この子が生まれた後が心配……」

「そうだな……」


 パブロはきっと同じことを繰り返すだろうと二人は感じていた。


 そしてそれは間違っていなかった。あれ以来、たびたびパブロは二人の家に押しかけて、それを無視すると家の前で大声で怒鳴り散らすこともあった。近所の人は同情してくれたのでよかったが、それでもいつまでも迷惑をかけるわけにはいかない。

 二人は話し合い、パブロの両親に密かに相談して次にパブロが騒ぎを起こした時は警察を呼んだ。事情を話してあったこともあり彼はすぐに連れていかれ、やっと静かになった家の中で二人はそっと額を寄せ合った。


 翌日、パブロの両親が謝罪に現れた。パブロと違って善良な二人は息子の所業に腹を立て、フェリクスとエステファニアに泣いて謝った。二人もこの善良な夫婦を責めるつもりはなく、ただパブロとはもう関わりたくないため夫妻にも会えなくなるだろうということだけは伝えた。






***






 パブロはかつてこの国の貴族制があった頃の公爵家の血を引く特権階級の家に生まれた。家は裕福で、彼はそれを当然のことだと受け入れていたし、同年代の誰よりも自分が偉いと信じて疑わなかった。

 そんな彼が唯一疎ましく思っていたのがある日突然パブロの家で暮らしはじめた同じ年のフェリクスだった。両親同士が親しく、親を亡くした彼を心配したパブロの両親が彼を屋敷に住まわせたのだ。フェリクスは控えめだが優秀でそんなところが目ざわりで、一方で使用人の手伝いをしていることを――フェリクスは生活費を払っていたがその上で気を遣って自ら手伝いを申し出ていたのだが――バカにしていた。

 やがてパブロは常にフェリクスを自分の下に置かなければ気が済まなくなり、親しい友人のようにふるまいながらも彼を連れまわしてどうにか彼をバカにしようとした。大学を出てフェリクスは講師の仕事に就いたがパブロは仕事が決まらず、それが彼の自尊心を傷つけ、ちょうど激化しつつあった内戦への参加を誘って彼は強引にフェリクスに仕事を辞めさせ共に軍に入った。


 元々の家柄のおかげでパブロは軍では一目置かれていた。西部軍が特権階級の権利を主張しており、良くも悪くもパブロの同類が多かったのも大きかった。フェリクスや彼と親しい一般家庭の出身者からは遠巻きにされていたがパブロは彼らをバカにしていたので気にもしなかった。フェリクスではない気の合う友人とつるむようになり、戦況は悪化していたがパブロは人生の最良の時を迎えていた。


 雲行きが怪しくなったのは内戦が終わりに近づいた頃、疲弊の色が強くなったキャンプ地に慰安のため旅芸人の一座がやって来た時のことだった。一座の花形であるエルスールは美しい歌手で、兵たちはほとんど皆、彼女に夢中になった。パブロも同じで何度も彼女を個人的にデートに誘おうとしたがエルスールに相手にもされない。

 いら立っていた彼は、ある休みの日に町へ出かけようとする途中で並んで歩くエルスールとフェリクスを見かけた。二人の雰囲気は遠巻きでもわかるほど親密で、誰の目から見ても恋人同士に見えただろう。パブロは頭に血が上るのを感じた。何故フェリクスなんかと!! しかし二人の邪魔をする前に一座は旅立ち、当然エルスールも去って行った。


 パブロはフェリクスをもはや憎む気持ちを持ちながらも上辺だけの関係をつづけ――その頃にはフェリクスもあからさまにパブロを避けようとしていたが――内戦が終わって日常に戻ると、パブロの夢の時間も終わりを告げた。フェリクスは再び講師の仕事に就き、パブロはまた無職となった。退役軍人として年金はあったが微々たるものだ。両親は未だに職を探そうともしない息子に苦言を呈するようになり、それがフェリクスと比べられているように感じてまた腹が立った。

 そうしている間に、フェリクスはパブロの両親に結婚すると報告をしに来た。いつの間にいたのか恋人が妊娠したのだという。ついでのように招待された結婚式ではじめて会ったフェリクスの恋人――エステファニアは、輪郭や鼻の形がエルスールに似ているような気がして、あの日見かけた親密な雰囲気のフェリクスとエルスールを思い出し、パブロはフェリクスへの憎しみを大きくし、必ず二人の仲を引き裂いてやろうと決意した。




 しかし何もかもうまくいかない。




 エステファニアという女はパブロが親切にエルスールを未練たらしく想っているフェリクスのことを教えてやったのに、関係ないと突っぱねてきた。腹が立ち今度は近所中に知らせるつもりで二人の家に押しかけていたらとうとう警察を呼ばれ、パブロはあっけなく連行された。

 両親が迎えに来ることもなく、数日後、パブロは追い出されるように留置所から放り出された。冷めた目の警察官にいらいらとしながらも帰宅すると、同じような目をした両親がパブロを迎えた。


「お前は自分の立場がわかっているのか?」

「は?」

「特権階級と呼ばれているが権利などないものと思って堅実に生きろと、子どもの頃から何度言っても理解しなかったな……まさにそれが現実になっているのにどうしてそうなんだ」


 父親の言葉をパブロは少しも理解できなかった。






***






「おじさんとおばさんから手紙が来たよ」


 腕の中ですやすやと眠る赤ん坊をやさしく見つめていたエステファニアは顔を上げた。がらんとした部屋の窓から差し込む日の光が、エステファニアと赤ん坊の色素の薄い髪を金色に輝かせていた。


「ここを出る前でよかったわ。おじさまたちはなんて?」

「屋敷を引き払って、小さな家を買ったみたいだ。二人でそこで暮らしはじめたって――落ち着いたら手紙を欲しいと。それから……」


 フェリクスは少し言いよどんだ。「パブロのこと?」とエステファニアがたずねると、フェリクスは小さくうなずいた。


「結局生活も態度も改めなくて、おじさんたちも見限ったみたいだ。屋敷を出た後は連絡も取っていないらしい……ろくなことになっていないだろうって書いてあるけど、たぶん……」

「もうわたしたちには関係ないことよ……」

「そうだな」


 フェリクスは手紙を封筒に戻し、ポケットに入れた。


「そろそろ行こうか? 忘れ物はない?」

「大丈夫よ」

「よく寝ているな」


 赤ん坊の頬をつつくと、「起きちゃうわ」とエステファニアがやさしくたしなめた。


「トリニダードさんが用意してくれた家はどんな家だろう」


 車に乗り込みながらフェリクスは言った。


「近くに病院や学校もあるし、自然が多くて子どもを育てるのにいいところだって言っていたけれど」

「トリニダードさんも会いに来やすい距離なんだろうな」

「そうね」


 赤ん坊を起こさないように二人は笑った。車のエンジンがかかるとさすがにむずかったが、エステファニアの手がやさしく背中をたたくと、また穏やかな寝顔に戻って行った。


 車は東へと走り出す。木々の間を抜けるように作られた道路には、昇ったばかりの朝日が光の道を作っていた。少し開けた窓からさわやかな風が吹き込み、子どもに聞かせるようにやさしく口ずさむエステファニアの歌声が風の音に混じってフェリクスの鼓膜を揺らしていた。


 美しい果樹園で過ごす、若い恋人たちの歌だった。




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