ぺちゃぱい山(三十と一夜の短篇第53回)
「ぺちゃぱい山」と呼ばれる場所がある。そこは山とも呼べない丘のような低い頂がふたつ仲良くならんでいた。なだらかな双丘にびっしりと木が生え、それぞれの頂上には一本ずつ突起した木が飛び出している。とある場所から見るその姿は、まさに「ぺちゃぱい」。本当はきちんとした名前があるのかもしれない。
しかし、誰が呼びはじめたのかぺちゃぱい山。
その存在はしだいにクチコミで広がり、一部の乏しい乳を持つ女性たちがその山を訪ね、崇め、すがった。貧乳コンプレックスの苦しみをやわらげ、豊乳祈願を受け入れるその山は、彼女らのメッカとなっていたのだった。
特に神社のようなものもなく、ただその山の形を神聖視している彼女ら。山のまわりには崇めスポットなるものが数カ所存在し、そのポイントで彼女たちは手を合わせる。
「胸が大きくなりますように」
「貧乳をバカにされてくやしいです」
「豊胸サプリメント、また効きませんでした。高かったのに」
「まっ平らな私でもいいと言ってくれる人に出会えますように」
「ぺちゃぱい山、いつも見守ってくれてありがとう」
「俺は貧乳派です」
このような願いや嘆き、あるいは感謝が日々寄せられる。ぺちゃぱい山はそれらを優しく受け入れる。すべての貧乳の味方なのだ。不思議なことに、手を合わせ思いを告げるとフッと心が軽くなるような気がするらしい。それが彼女たちがこの山を慕う理由のひとつでもあった。
◇
一人の女性がこのぺちゃぱい山のうわさを聞き、現地へ訪れた。平野ネム、Aカップ。二年付き合った彼と別れ、ふさぐ気持ちを抱えてぺちゃぱい山へやって来た。JRからオモチャのような私鉄に乗り換えて数駅。趣のある木造の古い無人駅で降りると、周りには田畑や民家が立ち並んでいた。間近にせまる山々は緑ゆたかで、百点満点の田舎の景色だ。
(浮気したあげく、開き直りやがった。ほんと最低な男)
ネムは少しイラついた足取りで道をすすんだ。ナビによると十分くらい歩かないといけないらしい。
(……「やっぱ胸ちっちゃいね」って、誰と比べてんだよ)
ネムは思う。胸が小さいのは学生時代からのコンプレックスだ。もう少し大きくなれるんだったらそれがいい。しかしある程度は自分の中で折り合いもついている。できるだけの努力はした。それで無いものをねだっても仕方がない。あるものをきれいに見せるしかないのだ。
胸が無いなりにきれいに見えるシルエットの服を研究した。オードリー・ヘップバーンだってあらゆるコンプレックスを持っていて、貧乳もそのひとつだった。しかし彼女はコンプレックスをうまく隠すすべを自分なりに研究したのだ。大きい鼻から視線をそらすための、印象的な瞳作り。細いウエストを意識させるワンピース。
しかしふとした瞬間、この小さい胸を憎らしく思うのだ。小さい。控えめすぎる。もう少し大きかったら魅力的になるんじゃなかろうか。いいオンナ、になれるんじゃなかろうか。
(……バカみたい)
平たい自分の胸に手をやる。最近は下着売り場にAカップのブラも少なくなってきた。みんなネムを一人を置いてサイズアップしているのだろうか。ただでさえせつない胸元にさらなる悲しみがつのる。
(ううん、胸が小さいからなんだよ。浮気を謝りもしないで余計なひと言を放つデリカシーゼロ野郎に比べればはるかにマシでしょ)
歩きながら小石をコツンと蹴った。道はアスファルトで舗装されてはいるものの、その両脇には短い雑草がしげっている。地図通りに歩いてるつもりでも、初めての場所は緊張するものだ。九月とはいえまだまだ日差しは強く、全身にじっとりとした汗をかいていた。
もうそろそろ崇めスポットだ。ネムは足を止め、その山を仰ぎ見た。
「うわぁー……」
思わず感嘆の声がこぼれる。視線の先には平たい胸部のような山が慎ましげにその姿を見せていた。
「ほんとに、ぺちゃぱいだ。……あたしみたい」
少しだけおかしくなってくすりと笑った。ネムは手を合わせて目をつぶる。特に願いごとはない。別れた彼氏とヨリを戻したいわけでもなく、「浮気相手の乳萎め」など恨めしく思う気持ちもない。あえて言うなら「元彼毛根死滅しろ」だが、ネムは静かに手を合わせて、ぺちゃぱい山に礼拝した。
ぺちゃぱい山は控えめなそのふたつの頂を構え、ゆったりとたたずむ。ネムは大きく息を吸い込んだ。澄んだ空気が四肢にいきわたり、内側から浄化されていくような気持ちよさがあった。
『だいじょうぶ。そんな男はクソよ。いえ、クソのほうがよっぽど立派よ』
そんな言葉が聞こえた気がした。
クソってすごいな。幻聴だとしてもそう言ってくれると必要以上に自分を貶めずにすむ。自分もかわいくない女だったのはわかっている。ネムは心がきゅっと苦しくなった。
あの時ああしていればよかった?
それともあれがいけなかった?
過去のいろんなシーンが頭をよぎる。そしてひとつひとつの行動にため息をつきたくなった。最低な男だとは思ったけれど、選んで一緒にいることを決めたのは自分だ。ネム自身も人にとやかく言えるほど立派な人間でもない。そうやって考えているうちに、別れてから初めての涙をこぼした。悲しみの涙ではないのだが、ネム自身もなぜ泣いているかわかっていなかった。だけどもスッキリする。不要な感情や捨てるべき想いが涙となって排出されるようだった。
『泣きたい時は泣いていいの。あとでまた前を向けるから』
しばらくの間、ネムは静かに泣いた。そして濡れたハンカチを握りしめ顔をあげる。鼻やまぶたは赤く腫れているけれど、その瞳には明るい光がさしていた。踵を返し、来た道を帰っていく。
ぺちゃぱい山はそれをやさしく見守っていた。なだらかな二つの頂点が、今日もささやかにその存在を主張する。