01 トキトメ
スラム街に住む少年、ツァイト。
彼はいつも、心までもを覆い隠すような、大きなボロ布のポンチョを羽織っていた。
性格は斜に構えていて、ぶっきらぼう。
しかしながら、そのお人好しっぷりは有名であった。
「どうした、こんな所で座り込んで泣いたりして。おいおい、スカートがこんなにめくれあがってるじゃないか。……なに、家がわからない? お前、迷子なのか。しょうがないな、俺が一緒に家を探してやるよ。だから……なれよ、笑顔に」
「どうしたんだ、こんな所で倒れて。足を怪我して動けないって、マヌケだな。……なに? スカートをめくりあげて、怪我を見てほしい? いや、俺は医者じゃない。かわりに、医者まで連れて行ってやるよ。だから……なれよ、元気に」
「今度はバーサンか。お前はどうしたんだ? なに、もう何日も食べてなくて、腹が減って死にそう? そんなにヨボヨボで、まだ生きてたいってのかよ。しょうがないな、このパン全部をやるよ。だから……なれよ、満腹に。なに? お礼に好きなことをしていい? いや、だからスカートをめくり上げようとするなって」
彼が食いぶちを稼ぐためにやっている、ゴミ拾い。
セレブ街から出されるゴミは競争なのだが、いいゴミを誰かに取られそうでも、困った人が目の前にいた場合は、ほおっておけないタチである。
しかし、今日はいつにも増して妙だった。
仕事の最中、幼女、若い女、老女の3人を助けたのだが……。
なぜか揃いも揃って、自分のスカートをめくりあげようとしてきたのだ。
ツァイトは妙な気分で今日の仕事を終えると、夕暮れのなか、寝ぐらに戻ろうとする。
しかしその途中、街でも有名なチンピラ3人組に絡まれてしまった。
「ツァイトく~ん! 今日も一日、ごくろうさ~ん!」
「じゃあ、今日の稼ぎをちょうだいしちゃおっかなぁ~!」
「もしかして、もう食い物にしちゃった? 俺たちは別に、食い物でもぜんぜんいいからさぁ!」
しかし今日のツァイトは、彼らを喜ばせるような物は、なにも持っていなかった。
ゴミを売った金は、若い女の怪我の治療費にくれてやったし、残った金で買ったパンも、老女にくれてやった。
それを伝えると、チンピラたちは激昂した。
「ウソつけっ! いくらテメーが底抜けのお人好しでも、そこまでするバカがいるかよっ!」
「おとぎ話に出てくる聖者かよ! さては俺たちをナメてんな!?」
「二度とそんなウソがつけねぇように、ギタギタにしてやらぁ!」
チンピラのなかでいちばんガタイのいい男が前に出ると、粗暴な拳を振り上げた。
ツァイトはまだ、14歳の少年である。
彼はよくガラの悪い大人たちに絡まれ、殴られ、蹴られ、罵られ、唾を吐きかけられ……すべてを奪われていた。
しかし、どうしようもなかった。
ツァイトは身長こそ年相応だが、身体はひ弱で、力はまるでない。
暴漢を納得させる上手な話術も、この窮地を切り抜けるだけの知恵もない。
そして、この場から逃げ出せるほどのすばしっこさも持ち合わせていない。
しかし、ひとつだけ、彼が決して失わないものがあった。
それは、悪には屈しない、強き心……!
……グオッ!
迫り来る拳を、瞬きひとつせずに睨みつけるツァイト。
それが今の少年にできる、精一杯の抵抗であった。
そして、奇跡はおこる。
……ピタッ!
いつもであれば、容赦なくツァイトの顔面にめり込んでいた、毛むくじゃらの拳が……。
なんと目の前で、瞬間氷結したように、止まってしまったのだ……!
「……!?」
一瞬、なにが起ったのかわからず、ツァイトまで固まってしまう。
何事かとあたりを見回すと、すべてが停止していた。
チンピラのパンチはもちろん、仲間たちの下卑た笑い顔。
遠巻きに見ているヤジ馬の同情的な表情も、道行く野良犬も。
窓から身を乗り出して洗濯物を干している、ふとったおかみさんも、その前を飛んでいる鳥も。
その下のゴミだめで、ゴミを投げ合って喧嘩している、ホームレスたちも……。
みんなみんな、その場で微動だにしていない……!?
ひとりの少年だけを残して、この街のすべてが停止していた。
「な……なんだ、これっ……!?」
ただオロオロするばかりの少年の背後で、声がする。
「それが、あなたの『新しい力』です」
振り返ると、そこには……ひとりの少女が立っていた。
歳の頃は、ツァイトよりも少し上くらい。
清水のような、長く美しき髪をなびかせ、その顔は菩薩のように穏やかながらも、目が覚めるほど美しかった。
服装は白と青を基調にした豪奢なドレスで、しかも全身からぼんやりとした後光を放っている。
まるで高嶺に咲いた花のような、高貴さどころか神々しさすら感じさせる、その少女……。
ツァイトはひと目で、彼女がこの薄汚れた街の人間でないことがわかった。
きっと、どこかの国のお姫様なのだろうと確信する。
「お前は、いったい……!?」
「あなたに、その力……『トキトメ』を授けた者です」
その声は、神秘なる森に吹く風のように穏やかで、森の主の息吹きのように、荘厳であった。
「と……『トキトメ』?」
「そう。時を自在に止めることができ、自分だけは自由に動ける、神技です」
『神技』。
神の力を具現化した、超常的な技能のことだ。
その威力は計り知れず、神に選ばれし王や勇者などにのみ与えられるという。
ツァイトはそのことを知っていたので、少女の言葉を鵜呑みにはしなかった。
なぜならば、ツァイトは王でも勇者でもない。
神に選ばれるどころか、親からも捨てられ、ペットのカラスだけが唯一の家族。
この世界ではどこにでもいる、スラム街で暮らす孤児だからだ。
「……この俺に、神技だと? 与える相手を間違ってるんじゃないか?」
「いいえ。あなたにはそれだけの資格があると、わたくしは判断しました。この希望のない、生き地獄のような地においても、あなたは正しき心を持ち続けています。……足元を見てください」
言われるがままに視線を落とすと、ツァイトの両足の間に、数字のようなものが浮かび上がっていた。
01分 32秒 28
とあり、下二桁はめまぐるしく動き、おそらく1秒ごとに、真ん中の2桁が加算されている。
「それは、あなたがどれだけ『トキトメ』の空間にいるかを表したものです。しかし、その数値がいくら加算されても、現実の時間は、1秒たりとも動きません。あなたがこの『トキトメ』の空間にいる間は、世界は止まったままになります。たとえあなたが1ヶ月をここで過ごそうとも、この空間を出れば、元の世界の時間に戻るのです」
「……どうやったら、この空間から出られるんだ?」
「『トキトメ』の空間を出入りするには、いくつかの方法があります。いちばん簡単なのは、あなた自信がそう願うことです」
少女は、ツァイトの考えを見透かしているかのように、すかさず続ける。
「でも、この『トキトメ』はわたくしが創り出したものなので、あなたの意思では出ることができません。わたしがここを去るときに、あなたの空間へと委譲しましょう。そのときにあなたが願えば、時はふたたび動きだすことでしょう」
「……だから、話を最後まで聞け、と言いたいんだな? で、俺にこんな力を与えて、なにをさせたいんだ?」
「それは、あなた自身が決めることです。わたくしは、あなたが正しい心の持ち主だと判断したので、この力を与えた。ただそれだけなのですから」
「そうか。だが、ムダだったな。こんな凄い力を俺に与えたところで、世界はたいして変わらないさ」
「なぜ、そう思うのですか?」
「俺は、『小器晩成』とみなされて、捨てられたんだ。俺は人の千倍がんばっても、ようやく人並みだって。だから、この力もたいして活かせないだろうな。……残念だったな、アテが外れて」
ツァイトは、シニカルな笑みを少女に向ける。
「あんた、女神サマにしちゃ、随分マヌケみたいだな。……なれよ、インテリジェンスに」
しかし、それが心からの言葉ではないことは、少年の態度からも明らかであった。
「さて、この神技とやらを、さっさと俺から引き揚げてくれ。この事は、誰にも言わないから安心しな。……俺を選んでくれて、ありがとうな」
すると、少女も笑みを返してきた。
我が子を慈しむ母のように、どこまでもやさしく。
そして泣く子を寝かしつけるような、安らぎの言葉を紡いだ。
……千倍の努力で人並みなら、その万倍努力すればよいだけではありませんか。
『小器晩成』……わたくしは、いいと思います。
小さなくて頼りない器でも、たくさん集めれば、多くのものを溜められます。
逆に、どんなに大きなくて立派な器でも、穴が開いていてはなにも溜められません。
小くてもいいから、漏れない器をたくさん作ってみてはいかがですか。
ゆっくりでいい、決して手を抜かず、ひとつずつ、しっかりと。
わたくしの授けた、『トキトメ』の力があれば……。
あなたは、それができるでしょう。
では、わたくしはこれで失礼します。
わたくしはいつでも、あなたを見守っていますよ。
ツァイトがハッと我に返ると、少女はすでに背を向けており……。
路地裏の向こうの夕闇に、まぎれつつあった。
「お、おい! 女神サマ! 最後に聞かせてくれ! お前、名前はなんていうんだ!?」
すると、少女は一瞬だけ立ち止まる。
まるで蜃気楼のように、現世から消えつつある彼女が、名乗ったのは……。
きっと想像を絶するような、立派な名前であろうと、少年は思った。
「……わたくしは、時の女神『ヘルパンティー』……」
そして世界に、動く者は誰もいなくなる。
ひとり佇む少年は、つい、本音を口にしてしまった。
「へ……へんな名前……」