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黒い花  作者: 島倉大大主
第三章:歩き種
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『あなた、誰?』

 あたし? あたしは――名前言っちゃってもいいのかな?

「ダメだ! 京さん、絶対に言っちゃいかん!」

 真木の怒鳴り声が耳のすぐ近くで聞こえる。どこか遠くの方から婆ちゃんが何かぶつぶつと低く呟いているのも聞こえ始めた。

 少女はじりじりとこちらに近づいてくる。

『騙されないわ。あなた、あの化け物の変身した姿なんでしょう。あたしとママをどこまでいじめれば気がすむのよ! もう放っておいてよ! どっか行ってよ!』

 いや、あ、あたしは、あなたが助けてって言うから見に来ただけで――あの化け物?

 化け物? と真木の呟きが聞こえる。

 それって、もしかして――御霊桃子? それとも、黒い虫みたいな奴?

 女の子の疲れた顔に、怪訝な表情が浮かんだ。

『……みたま、なんとかなんて知らない。あ、あいつは、うちの二軒隣の変な女の人よ。真っ黒く溶けて、化け物みたくなって……ネット番組をやってるとかなんとか――』

 御霊桃子だ! 見つけた! おい、さっきの住所にアパート借りてるぞ!

 真木が立ち上がる気配がした。公安の人に連絡をしに行くのだろう。

 あたしは寝ている女の人を指差した。

 その人は、誰? 一体、どうしたの?

『……あ、あたしのママ。あの、化け物が、化け物女が』

 これをやったの? 病気にしたの? 何だそりゃ……病気を消し飛ばす目的の奴が、病気を振り撒いてるって?

「やはりか」

 真木の声が復活した。

 やはりってのは、どういうことだ?

「いつもの推測と妄想だ。

 多分、拾ってきたんだよ。向こうの――『黒の世界』からね」

 黒の世界ぃ!? んだよ、その中二病臭い名詞は!

「仮称だよ。深くツッコまないでくれたまえ。ともかくだ、僕はさっきの不完全体を見て考えを進めたのだ。え~……捕食、いや、ここは転移と言っておこう。

 つまり『神虫の開花による物質の消失』の真相は『黒の世界への転移』なんだろう。この転移は、僕らの住んでいる世界と、それが影響を与えあっている並列する世界にも及ぶ。文字通り、影も形も、跡形もなく、何もかも送り来んでしまうわけだ。だが、消滅したわけじゃない! 消えたわけじゃないんだよ、京さん! だから、連中は、切り離された『黒の世界の欠片』の中から『見ていた』んだよ!」

 お、落ち着けって! 全然わからん!

「これが、落ち着いていられるか!」

 じゃあ、なにか? 先輩の父ちゃんも生きてるってのか?

「いや、転移したものは、僕らから見ると、多分『生きている』とは言えない存在になっているはずだ。理由は――ええい、今はダメだな。急いでそこを離れるんだ!」

 あたしは再び、寝ている女性に目を戻す。

 ……なんで、こんなことを。

 あたしが思わず口をついて出した疑問に、女の子はポツリと答えた。

『あたしが誰かに似てるんだって。だから、あたしが苦しむのを見ると――た、楽しいって、そ、そんなのって……そんなの……』

 体は今ここにない。だけど、今、あたしの体に汗が浮きだすのを感じる。食いしばった歯がぎりぎりと音を立てている。こめかみの血管がどくどくと音を立てている。

 あたしは怒りを押し殺し、笑顔を女の子に向けた。

 ねえ、あなたのお名前は? あたしの名前は――

「京さん!」

 真木の言葉を無視し、あたしは名乗った。

『田沢京子……さん。あ、あたしは――朝霧……未海です』

 そう。未海ちゃん、よく頑張ったね。でも、もう安心して。今警察がそっちに向かってる。あたしも必ず行くから。あなたをきっと、助けてあげるから――

 未海ちゃんの顔が一瞬明るくなった。と、その目が再び大きく見開かれる。

『危ない!』

 居間の隅から真っ黒な物が湧きだすと、凄い勢いでそれがぶつかってきた。

 あたしはこの状態になってから初めて臭いを感じた。

 酷い臭いだった。大学横の側溝がこんな匂いだ。緑と白の入り混じるヘドロの臭い。それは凄まじい力で顔に巻きついてくると、あたしを押し倒す。

 背中に床の感触。これはあたしの肉体の感覚なのか? それとも、今、押し倒されてる床の感覚なのか?

 焼けるような熱さ。そして息苦しさ。

 視界を塞がれ、首を締め上げられ、悲鳴を上げようにも、口から漏れるのは、細く長い鳥のような声。

『おやおやおや』

 ……この声は!

 あたしは顔に纏わりつく黒い物に爪を立て、必死に暴れた。

 ヘドロの隙間から自分を見下ろしている顔が見える!

 御霊桃子!

「何!?」

 真木の驚いた声。

『あのオカ研の失礼な女じゃないの。なに? 今更あたしと組みたいってこと? 良いわよ! 特別にあなたも、招待してあげる。腕によりをかけて磨り潰してあげ――』

「離さんか、裕子ぉっ!」

 まるで雷が落ちたみたいに婆ちゃんの叫びが轟いた。あたしだけでなく御霊桃子の顔にも驚きの表情が浮かぶ。と、その時、目の端で小さな影がさっと動いた。

 ちゃりん、と涼やかな音が耳を打つ。

『その人を離して!』

 未海ちゃんの叫びに、御霊桃子が後ろを振り返る。と、鈍い音と共にその顔に何か大きな物がぶつかった。あたしを抑えつけていたヘドロが、ぼはっと汚い音を立てて緩んだ。

 御霊桃子の頭が『ばかうけ』みたく、べっこりと縦に歪んでいた。ガラスの破片がゆっくりと顔に降ってくる。

 ああ、あの水差し……。

 悲鳴と怒号の入り混じったような、ぐちゃぐちゃな唸り声、そして甲高い絶叫が上がった。御霊桃子の変形した顔から煙が上がっている。

 と、あたしの手に、ぽとりと何かが落ちてきた。

 え? 蛙? 石でできた蛙?

 ああ、じゃあ、さっきのちゃりんって音は、水差しにこの蛙を入れて――その時、視界が急速に暗くなり始めた。ついで、室内から外へ、そして空へと風景がとろけるように流れて遠くなっていく。

 未海ちゃん……。

 意識までが遠くなっていく。幽体離脱が終わり体に戻るんだろうか?

 あれ?

 あたしは頭に何かが絡みついているのを感じた。まるで蜘蛛の巣に突っ込んだ時みたいな、軽いウザさ。だが、手で払っても何も触れない。いや、幽体離脱中に蜘蛛の巣が絡みつくなんて話、聞いたことが無い。しかもあたしの体は、もはや見えていないのだ。

 あたしは何もない。

 そんな状態で風景がどんどん加速しながらとろけて流れて、そして、何かが頭の中に流れ込んでてくるような――


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