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……
母が来なくなってからも、俺は病院に居続けた。
体調は全く良くなっていない。
看護師とはコミュニケーションが取れなかった。声が出ないせいだ。
この状態を脱しなければならない、と考えていた。
ただひたすらベッドの上で寝ている状態。口も腕もろくに動かせず、食事ではなく点滴ばかり。
筋肉は弱って動かなくなるし、このままだと老衰してしまう。
上体を起こし、ベットから滑り降りるようにして立ち上がり、点滴台を杖のようにしてしがみつくようにして歩き始めた。
声がでないなら、スマフォでもパソコンで書けばいい。なんなら紙と鉛筆でも。
このままでは死んでしまう。
とにかく俺の状況を知って、俺の今後の治療プランを知らないと。
俺は病室の扉を出ようとしたところで大きな音がした。
以前、這って出た時は、こんな音、鳴らなかったはずだ。
繰り返しなる警報音のようなものを無視して、俺は廊下に出た。
「困ります。安静にしてください」
看護師が二人出てきて俺を押し返す。
「トイレですか?」
俺は声を出そうとした。
体が思うように動かない。
俺は首を振った。
「じゃあ、トイレの時は、ベッドからボタンを押してくださいね。勝手に外に出ないでください」
もう一度声を出そうとした。
「ううぅぅ……」(このままでは死んでしまう)
言おうとした言葉がしゃべれない。口もろくに開けず、喉がなったような音しかでなかった。
「ほら、お部屋に戻ってください」
看護師に俺の意思は伝わらない。
「ううぅぅぅ……」(なにか書くもの)
俺は手を動かす。
「?」
「ううぅぅぅ……」(なにか書くもの)
看護師はなにか気づいたように言った。
「なんだろう、この人?」
「えっなに?」
「ほら」
俺の仕草でなにかを思ったのだろうか。
「スマフォ? 病室でスマフォは……」
「ううぅぅぅ……」(なにか書くもの)
「違うのかしら」
「紙と鉛筆?」
「うぅ……」(そう)
俺はうなずいた。何度も首を縦にふった。そう見えるほどに動けていればよいのだが。
「じゃあ、ミキ持ってきて」
「うん」
「紙と鉛筆は用意しますから、お部屋に戻ってください」
看護師に引っ張られながら、病室に戻る。手伝ってもらいながら、ベッドで横になる」
「もってきました」
ミキと呼ばれた看護師がもうひとりの看護師に渡すと、ベッドが動いて上体が起きた。
「はい。これで良かったですか?」
俺はうなずいた。
「体を横にする時は、このスイッチを押してください。それでは」
看護師は軽く会釈をして去ろうとする。
「うううぅぅ……」(ちょっと待って)
声を出そうとして、痰が絡まって息が詰まりそうになる。
あからさまに嫌そうな表情を見せ、看護師が俺の横に戻ってくる。
俺は必死に紙に字を書こうとするが、そもそも筆圧が出せない。
かすれたような線。字にはならない鉛筆の跡……
強く力を入れようとしても震えてしまう。
「?」
「先輩、どうしたんですか?」
「……わかんない」
わかんないじゃない! 助けてくれ! 俺を助けて…… まだ死にたくない……
俺は、看護師に倒れかかるようにして頭をぶつけた。
「痛いっ」
体をくねらせながら、看護師に向かって何度も頭を打ち付けた。
「痛いっ、ミキ、みんなを呼んで」
頼む、俺を助けてくれ。俺はここに居たくない。ここに居たくない。
看護師が出ていくと、間もなく数人の看護師が病室に入ってくる。
俺は紙と鉛筆を拾い上げて、今の俺の気持ちを伝えようとする。
しかし、手も体もうまく動かない。
「うううぅぅぅ……」
「鎮静剤を」
何も書けないまま、俺は掴んでいた紙と鉛筆を落としてしまった。
おそらくその打たれた薬で、頭がぼーっとしてくる。
ゆっくりとベットに引き上げられると、拘束ベルトがかけられた。
「おとなしくしてくださいね」
「先輩大丈夫ですか」「うん……」「けど、血が出てます」
遠のく意識の中で、看護師同士の声が聞こえてくる。
「……本病院は、家族の依頼で、患者の最期を安らかに過ごしてもらうことが目的なのよ」
「わかってますが、患者さん本人があの調子で……」
「また勝手にベッドを離れるようならすぐに鎮静剤をつかなさい」
「……」
「……残念だけど、そんなに時間は残ってないわ」
目は閉じていたが、聞こえていた。
もう…… 時間が…… ないのか……
力尽きたように、眠りについた。
……
全身を襲う痛みで目が冷めた。
「ううぅぅ……」
一切の感覚が遮断された水のなかにいたのに、いつの間にか水を抜かれ、全身にバーナーの炎を浴びせられているようだった。
「まさお!」
白んでいる世界の端に、母の顔が見えた。
「良かった。間に合った……」
何に間に合った?
言ってみろ、何に間に合ったんだ。俺はどうなっているんだ。
視界には医師と看護師がいた。
「では、我々は少し席をはずします」
「ありがとうございます」
母が言うと、医師と看護師が去っていく。
まさか、もう、ダメなのか。
死ぬ、のか。
「まさお…… 私はようやく手にいれたのよ」
なんの事だ……
「家族に縛られ家族のための人生だったけど。ようやく手に入れた二度目の人生を大切に生きるわ。さようなら、まさお」
なんだよ、どういうことだよ。笑わないでくれよ……
「まさお」
体がさらに重くなったように感じ、全身の痛みが強くなった。
母が握ってくれている手だけが、温かく、痛みがなかった。
「先生!」
無理やり下り坂を駆け下りているように、息が苦しくなってきた。
一旦外に出ていた、医師と看護師が入ってくる。
「まさお!」
息すらできない…… 母の手が離れた。
「まさ……」
耳鳴りに邪魔され、母の声は最後まで聞き取れない。
目を閉じてやさしい世界に入っていた。
おだやかで、何もおこらない、静かなやすらぎだけがそこにある。
ふわふわとした、言葉も考えもない世界だった。
おわり