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看護師が箸を取って、白米を少しとって、俺の口に近づけた。
震えながら口が開く。
唇にあたるのに、熱いのか、冷めているのか、それすら分からない。
だいたいにおいて、口が十分に開けているのかわからない。
「よく噛んでください。ご飯が飲み込めたら、里芋をすこしだけ食べましょうか」
顎を動かして、ご飯を咀嚼しているつもりなのだが、その音が聞こえない。
骨を通じて何か耳に入ってくるはずなのに。
看護師は、箸をもちながら、何度か時計を確認した。
俺が噛み終えないから、困っているのだろう。
看護師は小さいスプーンで、味噌汁をすくって口に運んでくれた。
水気で、ようやくご飯を飲み込むことが出来た。
「……」
里芋は、思いっきり小さかった。
ご飯の様子をみて、のどに詰まらせると思われたに違いない。
また、味噌汁を小さいスプーンで一口、口に入れた。
体全体の衰えを何度も認識させられたが、久しぶりの食事であり、一生の中で若い女性に食べさせてもらう体験はこれが初めてで、それは至福の時間だった。
その後、食事は片付けられた。
食事が終わって、ベッドが水平になると、意識を失うように俺は寝てしまった。
……
何時間寝ていたのか、分からないが、目が覚めた。
眼球は動くので、横に母がいることが分かった。
「起きたのね……」
母は立ち上がって、俺に見えるように前のめりな姿勢をとった。
「食事は駄目だけど、擦ったリンゴならいいって言われたわ。まさお、食べたい?」
俺は首を横に振った。だが、どれくらい動かせたか分からない。横に振ったように見えただろうか。
「大丈夫、もう食事に薬とか混ぜないわよ、フフフ」
それを聞いた途端、体も動かなかったが、思考も停止した。
食べ物に薬を混ぜていた……
母が……
俺を、殺そうとしている……
まさか。
なんの為に殺そうとしている?
なんで食事に薬を混ぜる?
母、が?
すべての恐怖の根源だった。
いままで恐怖していたのは、この母の行動から感じていたものなのに。
なぜ今になって母がやったと分かって、それを疑う。
本当に自分の気持ちが理解できなくなっていた。
俺は殺されようとしている。
母に。
けど、なんのために。
激しい寒気を感じていた。
感覚もほとんどなく、ろく動かないが、寒気を感じることは出来た。
寒気とともに漠然とした恐怖を感じている。
「……」
母が、誰かが入ってい来るのを感じ取って、その方向を見た。
移動するままに、目線が追っている。
やっと俺が見えるあたりにやってきた。
先頭にいるのはスーツを着た男で、他にも何人か似たような人影が見えた。
「あなたが林さん?」
「はい」
「林亮子さんで間違いないね?」
「はい」
「林誠司、および林春美殺害の容疑で、ご同行願いたい」
父と妹の殺害容疑。母には父と妹を殺した容疑が掛かっている。
母は、俺の顔の方に完全に向き直り、スーツを着た男たちに自身の顔が見えない状態をつくると、ニヤリと笑った。
そして口もとが動いた。何かを俺にささやきかけているようだった。
言い終わると、母は俺の胸に突っ伏して泣き叫んだ。
「まさお…… まさお…… 母さんは何もしていないよ。信じておくれ、まさお」
「任意同行となりますが……」
「ご同行いただけますね」
別の男が後ろからそう言った。
「……はい」
母はしぶしぶその同行要請に同意した。
男たちが母の周りを取り囲むように連れて行ってしまう。
俺の視野からは早々と消えてしまったが、母の声だけが聞こえてくる。
「看護師さん、まさおを頼みます」「はい」「先生、まさおを……」「わかりました」
俺の心のおくで、すべてが芝居が掛かって見えていた。
警察がやってきて母が捕まるということから始まって、母が俺を頼むと看護師と医者に言うところまでの、すべてが何もかもが。
本当に父と妹は殺されたのだろうか。
父の書斎、妹の部屋、どちらもシーツは乱れなく掛かっていて、人が寝起きしたり生活をしているとはとても思えなかった。かといって、それが父や妹の殺害のあかしとは言えなかった。ただしばらく書斎に、部屋に帰っていないだけ、とも言えた。
母がうつ病なのが本当だとして、うつ病の人間が夫や自分の娘を殺すだろうか。しかも周到に計画し、自分が捕まらないようにして。いや、いま捕まったのだから、周到な計画の上での犯行、という訳ではないかもしれない。どちらにせよ、うつ病の人間のやることではない。
うつ病が嘘だとして、それが俺に薬を飲ませ、病院にいれるための薬だったと仮定して、それなら辻褄はあう。
俺を殺害する為に芝居をうって、病院に入れ、最終的に俺も殺そうとしている。
では、父と妹はどうやって殺された?
同じ薬で?
そんな馬鹿な…… いくらなんでも同じことを繰り返したら怪しまれるだろう。
それに、俺が父や妹がいなくなったのに気付くまでの間……
まて。俺はいつから父や妹とあっていなかったのだ。
思い出せない。
俺がこうやって殺される日数や時間ぐらい、十分にあったように思う。
俺が自宅で食事以外は部屋にこもっていた間に、母は父も妹も亡き者してしまったのか。
声が聞こえてくる。
「林さんでしょ」
「なんでわかったの?」
「からさまに怪しいじゃん。旦那さんの時から思ってたわよ。あの歳であの衰弱の仕方なんて考えられない」
「娘さんも酷かったわね」
「若い娘は逆にありがちなのよ、けど考えればちょっと異常。そして息子さんでしょ」
「引きこもりだったらしいから、体力は有り余っていたのかもね」
腕が上がれば……
手が思うように動けば……
耳をふさぐことが出来たのに。そうすれば俺は看護師の言葉を聞かずに済んだ。
なまじ体が動かないせいで、看護師たちの噂話が聞こえてしまった。
母が…… 父を、妹を殺した? そして、俺も…… 俺も死ぬのか……
肌を涙が伝う感覚はほとんどなかったが、俺は自分が泣いていることが分かった。
そして、泣き疲れて寝てしまった。