5
それどころじゃない。
母に殺される。
理由は分からない。何をされたのかも明確ではない。
けれど、母に殺される。
それは間違いないように感じられた。
この病院にいたら、殺られてしまう……
ベッドから足を落とすようにしておりる。
何か月も歩いていない人のように、足に力が入らない。必死にベッドを手で押さえるが、その手にも力が入らない。
とにかく、ベッドからは下りれた。
俺は四つん這いになって、ゆっくりと病室の床を進んだ。
他のベッドは、カーテンが閉まっていて、いるのかいないのか分からなかった。
病室のそとまでくると、看護師に見つけられた。
「林さん!」
看護師の肩を借りて立ち上がる。
「寝てないとダメじゃないですか」
『助けてください!』
俺はそう言うつもりだった。
「……」
口が開かない。
のどが振るえていない。
……声が出ない。
俺は、必死に病室の外に進もうとするのに、看護師は病室に戻そうとする。
どうやらそのちぐはぐさに気付いたのか、看護師が言った。
「おトイレですか?」
『違う!』
やっぱりそんな言葉も出せない。
このままでは…… 何も伝えられない。
そうだスマフォがあれば……
俺は必死でジェスチャーする。
のどを指さしてから、バツつを描き、四角を示して、フリックするような指マネをする。
いや、したつもりだった……
「ゴメン、島崎さん手伝って!」
「どうしたんですか?」
「病室から抜け出ようとしてて」
「はい、わかりました」
看護師には一つも伝わっていなかった。
俺は、指すらまともに動いていなかった。
体が不自由になってきた老人のそれと同じだった。
指や腕、体が震えていて、何をしているのか理解されないのだ。
俺は運ばれるように歩きながら、涙が出てきた。
これだけはまともに出来るのか、とも思ったが、頬を伝う涙の感覚が鈍ったままだった。
母は、俺にこの感覚を遮断するような薬を服用させたということなのだろうか。
おそらく、あの、ピンクの錠剤……
俺は、再びベッドに横たわった。看護師に下腹部をさらし、用をたした。
ベルトのようなもので拘束された。
「症状が落ち着くまで、寝てください」
俺は目を閉じた。
病室を出たあたりで看護師が言う。
「もうダメだわ。病院移ってもらうようにしないと」
「えっ、もうあの患者さん……」
「さっきも声すら出なかったもの」
「そうですか……」
その言葉の意味を考えようとしたが、スッと力が抜けていくと、眠りに落ちていた。
……
俺は、別の病室で目が覚めた。
体が相変わらず重く、生きている意味があるのかは分からなかった。
首すらも傾けられず、眼球のみ動かしてあたりをみる。
母…… 母はいない。
もしかして、ここは病室ですらないのか、と思った。
「目が覚めましたか」
少し開けたところから看護師が覗き込んでいる。俺は答えられない。
看護師がゆっくりとカーテンを開けて入ってくる。
長い髪を纏めて帽子に押し込んでいるようだった。若い女性の看護師だった。
こっちの様子を見ながら、紙を挟んだボードの上にペンを走らせ、何か書き込んでいる。
俺は必死に声を出そうとした。
身をよじりながら、頭を浮かせてみたり、バタバタと暴れるが、声は出なかった。
「声が出ないのは分かっていますから、無理に話さなくてもいいんですよ」
看護師の表情は、優しいというより諦めているように思えた。それは俺がそう思っていたからかもしれない。端から理解していますという、冷静な態度だったということか。
俺の目にライトを当て、瞳孔の動きを確認する。
そして、手首をつかみ、脈を測ろうとして、やめた。
その時の看護師の手の感触が、俺には全くなかった。肩につながっている砂の重りを持ち上げられた、そんな状態だった。
「……」
脈を測るのをやめたのは、俺についている機械の方で表示されているようだった。
それを転記して、看護師は言った。
「食事、食べれそうですか」
俺は頑張って首を縦に動かした。
「……」
もう一度、首を前に倒した。
「わかりました。準備します。お待ちください」
看護師は出て行き、カーテンを閉めた。
もしかして、周りにも食事が配られていて、匂いがしているのだろうか。
俺の鼻には管が通っている訳でもないのに、匂いを感じていない。
もしかしたら、周りは食事をしていないかもしれないし、もし食事をしていたとしても病院の食事にそんなに匂いの強いものは作れないだろう。目の前に食事が来た時にも匂いがしなかったら、本当に鼻がおかしくなっているのだ、と思おう。
看護師がやってきて、ベッド変形させた。
俺壁に寄り掛かっているように上体を起こした。それから、持ってきた食事をテーブルに乗せた。
匂い…… 匂いがしない。
確かに、もう湯気が立っている状態ではない。
すべては冷えてしまっているのだろう。
味噌汁、ご飯、煮物、漬物……
冷めていれば匂いはしないものかもしれない。けれど、何も感じないことはないだろう。
「……」
箸を取ろうとした手が、動かない。
動いてはいるが、箸を手に取るところまで上がらない。
看護師も気づいたようだった。
「えっと…… 規則では自分で食事を取れない場合は、点滴に切り替えることになっているんですが」
俺は看護師の目を見ていた。
「少しだけ、です」