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「かならず、飲むのよ」
俺は鼓動が早くなるのを感じた。
頭をテーブルに何度も打ちつけたくなる衝動にかられた。
母に怒られた、母に怒られた、母に怒られた……
俺は泣いていた。
けれど、涙が頬を伝っている感覚はなかった。
なぜなら、夏のゲリラ豪雨の中、傘もささずに外に立っているからだ。
俺は叫んでいた。たぶん、ごめんなさい、という言葉と、もうしません、という言葉、そして家に入れてください、という言葉を繰り返していた。けれど、声はアスファルトを打ちつける雨粒の音、時折響く雷の音で打ち消されていた。
お母さん、お願いです、俺を助けてください。お母さん、俺を助けてください……
「ああ…… 眠くなっちゃった。私は昼寝をするわ、まさお」
声が聞こえて、思い出の中の母親の姿が、現在の母の姿と重なり合って消えていった。
あの頃の母より、皺が増え、髪も白くなり、幾分か減ったように思える。
俺はトーストを食べ終わり、ベーコンをくちゃくちゃと噛みながら、テーブルの真ん中に置かれた薬を見つめていた。
母がいなくなり、頭をテーブルに打ちつけたい気分が、次第に収まっていた。
しかし、目の前には問題が残されていた。
ピンクの錠剤。
うつ病の薬、ということだが……
「……」
俺は薬を手に取り、裏に書いてある単語を読み取った。
エキノパフィアン、だろうか、斜めに何度も何度も書かれている。これを調べればいい。これが何の薬か。
俺は持っていたタブレットのカメラでそれを撮影した。
ふと視線を感じ、俺はその方向に顔を向けた。
ふすまの隙間から、母がこっちを見ている。
……目線が合ってしまった。
鼓動が聞こえてくるかのように早くなり、手が震え始めた。
「まさお?」
唇に力が入らない。歯が震えて、カチカチなってしまう。
「まさお」
母がふすまを開けて、こちらにやってくる。
「なんで片付けできないの」
「宿題やりなさい」
「勉強しなさい」
「掃除しなさい」
「残さず食べなさい」
「塾にいきなさい」
「学校にいきなさい」
「なんで喧嘩したの」
「なんでこんな点数とってくるの?」
「ゲームばっかりしないの」
「勉強しなさい」
「片付けしなさい」
「勉強しなさい」
「ご飯食べなさい」
「勉強しなさい」
「片付けしなさい」
「勉強しなさい」
「ご飯食べなさい」
……いつも、いつも母に叱られていた。
気が付くと、母が目の前に立っていた。
テーブルの錠剤を手に取り、俺の手を開いて、そこに握らせた。
「うつ病の薬よ。のみなさい」
身体が、痙攣したかのように、ぶるっと震えている。
母はじっと見つめたまま動かない。俺は握らされた手を開き、薬を見つめた。
この薬は、大丈夫なのだろうか。
漠然とした不安がのしかかる。なぜこんな不安があるのかがわからない。病気の対象でない人間が飲んでも、効果がないだけで平気かもしれない。なぜ根拠もなく不安になるのだろうか。
母が『うつ病』だからだろうか。
うつ病なのに、うつ病ではない俺に同じ薬を飲ませようとしているからだろうか。
母が、目の前からいなくなっていた。
俺は逃げるように二階にもどろうとした。しかし、母はコップに水をいれて階段のところに立っていた。
「どこいくの? ほら、水」
上で飲むよ、と言えば良かったのだが、呼吸をするのが精いっぱいで、言葉が出てこない。
上で飲むよ、と言って上がるんだ、俺は何度も自分自身に命令する。
「ほら、まさお」
俺の手にコップを握らせてきた。
母が俺の薬を取り上げ、一つ取り出し、二つ取り出した。
俺の手を広げさせ、薬をそこに置く。
「……」
「どうしたの、まさお」
自分で持っているコップの水が波打っていた。
同じように、手のひらで薬が跳ねるように動き回っている。
もう…… ダメだ…… これを飲むしか……
「ほら、手が震えてる」
母が俺の手を押さえた。このまま飲むまで手を離さない。母の意志が伝わってくる。
「ゆるさない! なんであんたはいつもいつも」
「まさお!」
「こら、まさお!」
「なにしたの、まさお!」
「やめなさい、まさお!」
「勉強しないさい、まさお!」
「まさお!」
「まさお!」
「まさおっ!」
……母が、母が怒っている。
俺は震えながら、手を口に運び、カチカチいう口を無理やり開けて薬を口に入れた。
「ほら、飲み込んで」
コップの方の手を口に近づけてくる。
俺は水を口に含み、錠剤をのみ込んだ。
「ほら。飲めるじゃない。えらいわ、まさお」
母が、俺を抱きしめてくる。肩ぐらいまでしかない母が、俺の胸に顔をうずめる。
「えらいわ、まさお。やればできるじゃない」
しあわせそうな、優しい言葉。
温かい母の体。
頭を撫でられていた。
薬を飲まされる恐怖や、飲んでしまった恐怖は消え去っていた。
目を閉じてやさしい世界に入っていた。
おだやかで、何もおこらない、静かなやすらぎだけがそこにある。
ふわふわとした、言葉も考えもない世界。