◆剣豪、異世界の娘を手玉にとる。
景久は足を止めると、逃走する盗賊達を油断なく眺める。戦場では最後の最後までどう転ぶかは分からない。だから姿が完全に見えなくなるまで見守り、その後も隠れている者がいないか気配まで探る。
それと同時に、辺りを見渡した。
遠くに見える山並みに後少しで陽も沈む夕暮れ時、草花や樹木が橙色に染まり吹き抜ける風に揺れていた。
「む、見たこともない草花……」
傍らの樹木に至っては、両手を広げても届かない巨大な葉が繁っていた。
それに匂いも。
風に運ばれてくる匂いには、辺りに立ち込める血臭に混じって微かに甘い匂いがある。
草花の匂いなのだろうが、景久には今まで嗅いだこともない匂い
それら以外にも、辺りに転がる盗賊達の見知らぬ衣服。何か動物の革をなめして編んだ奇妙な着物なのであるが、景久にはその生き物の見当もつかない。
そこから導き出される考えはひとつである。
「ふむ、どうも某は、異国にでも連れて来られたかに思われるが――」
これが話に聞く神隠しと言われるものであろうかと、景久は考えていた。
「――古来より、我が国には天狗の国に行っただの、海の底にある城に行っただとか、枚挙に遑がないほど話はあるが、我が身に降りかかろうとは」
嘆息と共に呟かれた言葉であったが、景久の顔には悲観した色はない。摩訶不思議な現象によって、今は見知らぬ場所にいるというのにだ。
己れの生涯をかけて編んだ刀術。だが、老いた体では、それを満足に振るう事は出来なくなっていた。流儀の道統を弟子に譲った後は、人にも会わぬ山奥にでも隠棲でもしようかとも考えていた。
刀術とは階段を駆け上がるが如く、長い年月をかけ一段また一段と高みへと昇るが、逆に体力自体は年齢を重ねて衰えていく。
――追い求めていた最強の剣とは、最初から夢幻の如きものであったのではないのか。
近頃ではそんな考えすら浮かび、我が剣一筋の生涯は如何なものであったのかと、景久は少々空しささえ覚えていたのだ。それが、望外にも生涯を掛けて編んだ刀術を、力強く若い活力にあふれた体で思う存分に振るえたのである。
この後、鬼神に命を差し出せと要求されたとしても、十分に満足を覚えていた景久であった。
周囲を一頻り感慨深く眺め、ゆっくりと南蛮の箱車に向かって歩み始めた景久。その表情には晴々としたものさえ浮かんでいた。
歩みながら、しかしと景久は考える。
それは、先ほどの頭に響く声であった。この若返った我が身と腰に差す太刀もなのだが、景久にとっては神隠し云々より此方の方が驚きなのである。
武芸者の心構えは常在戦場。つい今しがた斬り捨てた盗賊がそうであるように、己れにもいつ死が訪れてもおかしくは無い。他者の命を奪おうとする者は、己れもまた奪われる覚悟が必要なのである。
それは盗賊であろうと、武芸者であろうとも同じ。刀争の場に身を置く者は、常に死を覚悟するものなのである。だから景久も、如何なる場所に来ようとも動じない心胆を練っていた。
それでも、若返った体や頭に響く声には驚嘆をしたのである。
――全くもって怪しげじゃて。
日ノ本の国でも民草の多くは天神地祇を信じ、長い年月を経た道具などには魂が宿るとも言われていた。意外と、身近にあやかしは存在すると認識されてきたのである。景久も深山の奥へと踏み入り修業を行った際には、怪し気な気配を感じた事も一度や二度ではきかない。
他にも修験道や心法を修めた者は、不思議な術を操るとの話も聞く。実際に景久も、心法を極めたと放言する武芸者と立ち合った事もあった。その者は手のひらを前に突き出し、気を飛ばして相手を金縛りにしたのである。倒すのに、大層苦労した覚えがあるのだ。
だが、今回のような事はさすがに初めて。
世の中の広さを、知らぬ事の多さを改めて思い知らされて、まだまだ修行が足りぬと痛感していたのである。
――それにしても、あの南蛮の娘は見目麗しい姿をしておったが……。
景久は、エリと名乗った娘の事を考えていた。
その面影には幼さを残し、娘というより、まだ少女のようにも感じられたのだ。とても怪しげな術を操るとは思えなかったのである。
――あの時たしか、ハーフと言ったか。
言葉の意味は分からなかったが、同時に伝わってきた寂しげな悲しき思いや、話の流れからも容易に想像はついた。
景久も武者修行と称して、諸国を巡っていたこともあった。その時には、上方や長崎辺りにいた唐人や南蛮人の血が混じった者を幾人か見かけたことがあったのだ。しかもそれらの者は、押し並べて迫害に遇っていた。あの南蛮娘も、その類いであろうと考えたのである。
人は、髪や瞳の色などの些細な違いで、容易に差別を行う。それを景久は諸国を巡った折に、つぶさに見てきたのである。
――まだ年若い娘ごであったが、人の醜い姿をその瞳に映してきたのかも知れぬ……おっと、いかんいかん。
わき上がる憐憫の情を、景久は慌てて打ち消した。
武芸者たる者が女子に気を許してはならぬと、己れを戒めたのだ。
景久にはかつて、若かりし日に苦い思いをした事があった。
心より好いた女性がいたのである。だが、その女性は金のため、景久を裏切り売ったのだ。
その当時、景久には敵対する者がいた。武芸の上での諍いであったが、その者は刺客を雇い入れ景久を襲わせた。その際に寝所へと招き入れたのが、その好いた女性であったのだ。その挙げ句、臥所を共にしていた女性が景久にしがみつき、その隙に四人の刺客が襲い掛かってきたのである。
どうにか女性を振りほどき、とっさに吊るされていた蚊帳を切って落とし難を逃れ、その虚に四人の刺客を斬って捨てたのだった。
その時に編み出したのが、秘太刀“払捨刀”でもあった。
そして愛する女性も、その時に己れの持つ太刀で――。
「何故あの時……」
ちらりと浮かんだ苦い思いを頭の片隅に追いやると、景久は苦笑いを浮かべた。
それ以来、己れの側には女子をあまり近付けぬようにしていた景久であったのだ。
昔の事を思い出したのも、体が若返ったためかも知れぬなどと考えている間に、目の前に南蛮の娘たちの姿が見えた。
そこに立つのは二人の南蛮娘。ひとりはエリと名乗った赤い髪をした娘である。もうひとりは金色の髪を血に染め、勇ましい武者振りを見せてた娘であった。
その髪が金色の南蛮娘はエリと名乗った娘を庇うように前に出ると、油断のない警戒の目を景久へと向けてきた。
だが、景久の受けた印象は、最初に見た時と変わらぬものだった。
――ふむ……そこそこには使えそうだが、何とも隙だらけじゃな。
景久が構わず近寄ると、エリはその表情を強張らせる。しかも金髪の娘は、威嚇するように剣を抜くと切っ先を此方へと向けたのである。
それは武芸者である景久に対して、あまりにも礼を欠いた態度。確かに景久の姿は、返り血を浴びて警戒されても不思議ではない酷い有り様だった。が、盗賊の襲撃から娘たちを助けたのである。その景久に剣を向けるのは、あまりな話だった。
景久の眉がぴくりと動く。
と、次の瞬間には、すっと金髪の娘に近寄り手首を掴んでいた。完全に拍子を盗んだのである。そのまま小手返しに捻ると、あっさりと剣を奪い取り投げ捨てた。
金髪の娘は何をされたのかも分からなかったのだろう。驚愕の表情を浮かべ、何か叫びながら今度は拳と蹴りを繰り出し、景久へと襲い掛かる。しかもそれは、目で追えないほどの恐るべき速さであった。
だが――。
――これは、何とも凄まじき速さ……然れど、甘いのぉ。
景久は掌剣術の達者とも立ち合ったことがあるのだ。その者が放つ手裏剣に比べれば、さほどでもないと感じるのである。むしろこの娘の攻撃は、単調なだけに読みやすく楽なのだ。
突き出される拳をあっさりと躱し、逆に金髪娘の懐に飛び込み腰に乗せて投げを打つ。
途端に、金髪娘はわめき声を上げながら宙を舞った。
『ちょっ、ちょっと何をやってるのよ二人共! 先輩も、カ、カゲヒサさんも何をいきなり争いになってるのよ!』
エリと名乗った娘が慌てた様子で、金髪の娘との間に割って入ったのだ。
『某は剣の道を極めんとする者なり。某に剣を向ける者は、己れもまた命を賭すと心得るべし。命があっただけでも有り難いと思いなされ』
景久にすれば少し懲らしめた積もり。諭すように言うも、エリは口を尖らせ文句で返す。
『そんな難しいこと言われても分からないわよ。取り敢えず、ケンカは止めて下さい。それにあなたは魔物でしょう。剣を向けられても仕方ないわ』
エリと申した娘が両手を広げて、力一杯振り回している。それがなんとも幼く大袈裟な身振りで、景久は思わず苦笑いする。
『魔物と申されたか。某は見ての通り人のつもりなのでござるが』
失礼なと思う反面、何故に己れを魔物扱いするのか不思議に思う景久。もしや、南蛮人は異国の者を魔物とでも思っておるのかと、訝しげに感じていた。
それには少し思い当たる節もあるのだ。日ノ本の国でも、南蛮人を赤鬼と混同する者が大勢いた。故に、有り得るかも知れぬ、そうに違いないと思い至る。
『えぇと……人なの? ドワーフにも見えないし、エルフってわけ……ないわね。やっぱり先輩と同じヒューマン?』
『某はヒューマンではござらぬ。景久と申す』
またしてもヒューマンと言われ、何の事やら分からず困惑する景久。
『……人というのはエルフやドワーフ、あとヒューマンなど全ての種族を指す言葉なのだけど……カゲヒサさんはどこから来たのよ』
また妙な事をと、景久は更に困惑の度合いが増す。それに、連れてきたのはそちらではないのかとの思いもあるのだ。
『某は日ノ本の国にいたのでござるが、おエリさんの秘術で連れてこられたのではないのか。と、その前に、某も尋ねたい。ここはいったい何処なのじゃ』
『うぅん……ヒノモトねぇ。そういう名前の国は聞いたことないわね。ここはイスタリア連邦とアレス王国の国境近くよ』
景久も聞いた覚えのない国名。だが、いずれにしろ南蛮には違いあるまいと考えた。
『それと、言っておくけど、私の名前はオエリじゃないから。オはいらないし、最後はエリーと伸ばすのよ』
またしてもエリが口を尖らせ、幼子のように言ってくる。
この娘は一体幾つなのだと、呆れる景久だった。が、武家の慣習として、親しき間柄でもないのに呼び捨てにするのは如何なものかと、少し躊躇する。
しかし、郷に入っては郷に従えとの諺もある。
横目に眺めれば、未だにエリは口を尖らせたままだ。景久は苦笑をしつつ、仕方あるまいと一応の納得をした。
『むむむ、エ、エリリィ……さんで良いでござるかな』
『ちがぁう、エリーよ。リーって伸ばすのよ』
はてさて異国の言葉というのは難しいものよと、景久は顔をしかめるも、エリィは納得しない。
困り果てていると、少し気を失っていたのか、先ほどの金色の髪をした娘が起き上がってくるのが、景久には見えた。
そして此方を指差し、エリィと何やら激しく言い合いを始めたのである。
――やはりエリィさんの言葉は分かるが、金髪の娘の言葉はわからぬ……不思議なものよ。
そんな事を景久が考えながら、ふと周りを見渡す。
周囲では他の南蛮人達が、不安そうな様子で遠巻きに此方を窺っているのが見えた。
「……妙な事になったものよ」
呟きと共に、景久の眉間にしわが刻まれるのであった。