◆ 剣豪、異世界の都市に到着する(2)
実際は、都市を囲む防護外壁は橋のたもとで都市側へと入り込み、幾らか進んだ正面に本来の正門があったのである。そこには両開きの木製の門扉があり、今はその片側だけが開かれていた。もっとも、その片側だけでも馬車が潜るには十分な幅を備えてはいたが。
景久たちは、橋を渡った所でまた足留めされていた。傍らではエリィが『早く入れてよ』と、頬を膨らませて不満を言い募らせてはいるが、景久はむべなるかなとの思いの方が強い。
町に着くまでの道行きがてら、箱車の中でエリィから聞いた話では、マリアンヌはどこぞの領主の娘であるとのことであった。
領主一族の権威を振りかざせば、この地を治める者たちも無下にはできず、時間外に門扉を開かせる事も可能。緊急時であれば尚更である。
しかし――景久が正面の門楼の上部や両側の石壁の上部に目を向けると、そこは通路にでもなっているのか射手がずらりと並んでいた。構えこそ取ってはいないが、油断のない警戒の眼差しを景久たちへと向け、そこには並々ならぬ修練のあとさえ窺えた。
兵法者の目で眺めれば、いま景久たちが立つ場所は、戦時においては死の狭間とも言うべき場所。寄せ手の勢いを橋でもって殺ぎ、門前で完全に足留めした所を正面と両側から、飛び道具を用いて敵を殲滅する恐るべき死の狭間でもあるのだ。
――ふむ、異国の武人もまた、侮れぬものよのぉ。
と、まだ見ぬ強敵との邂逅に、景久は胸の内で期待を膨らませる。
『マリアンヌどののご実家は、この地を治める方とご関係があるのでござろうか』
と、景久が尋ねたのは、子供っぽい苛立ちを見せるエリィを宥めるのが半分、残りはマリアンヌを介してこの地の武芸者なりに出会えないかとの思いもあったからである。
『え、先輩ですかぁ。確か、アレクサンドリは王家の直轄地だから……どうだろう……たぶん、直接関係ある人は少ないか、いないと思いますよ』
と、エリィは少し小首を傾げて答えた。
箱車の中で幾つか聞き齧った所によれば、王家とは日ノ本での朝廷に近い支配層だと景久は認識していた。マリアンヌの実家がどれ程の権力を有しているのかは分からぬが、その一族とて知り人のいないこの地で、あっさりと通してもらえるはずなど無いと景久は考える。
『ふむ……で、あれば、この詮議は今しばらく掛かりそうじゃのぉ』
『えぇー!』
『無理もなかろう。聞けばエリィさんやマリアンヌどのは、今運んでいる荷を護衛する武人との話。まずは良からぬ物を持ち込んだり不審な人物がおらぬか、荷改めや我らの人となりを詮議してからでござろうな』
町と言っても、戦乱の世を生きていた景久にすれば、門の向こうは城郭内の感覚に近い。しかも、王家の直轄地との話であるなら、益々もって時間外に訪れた胡乱な者を、詮議もなしに引き入れるはずなど無いのだ。
そんな思いを浮かべ景久が門扉の方に目を向けると、責任者らしき兵との話し合いも一段落ついたのか、マリアンヌが南蛮人に合図を送る所であった。
『どうやら荷改めが先のようじゃな』
そう呟く景久の横を、何台もの箱車や荷車が連なり通り過ぎ、門内へと消えていく。その間、エリィを始めとする護衛の武人と幾人かの南蛮商人は、この場に留め置かれたままだった。
傍らでは「むむむ」と更に子供っぽく頬を膨らませるエリィであったが、一応は納得したのか今度は、
『それで、カゲヒサさんはこれからどうするつもりなの』
と、エリィの方から景久に話し掛けた。
『ふむ、どうしたものかな』
景久にすればどうするも何も、この地がどこなのかも分からず、帰るにしても、どちらを向けば日ノ本の方角かも分からないのだ。それに、エリィ以外では会話すらままならないのである。
『先程の話では、何やら手違いで某は呼ばれたと言っておったが……であれば、送り返すことは可能であろうか』
『んーと、それが何度か試したけど駄目なのよ』
困惑した表情で、エリィが答えた。
確かに、秘術の失敗で景久が神隠しにあったとの話を信じるのであれば、余りと言えば余りな話でもある。こちらの都合も関係なく家族から引き離されて、遠い異国の地へと飛ばされているのだ。本来ならば激怒しても良いのだろうが、望外にも景久は若い体へと戻れた。老いが進み、山奥にでも隠棲しようかとすら考えていた景久からすれば、逆にエリィに感謝したいほどなのである。
そこでまた、エリィが申し訳なさそうに話しかける。
『えーと、それとね。今も私とカゲヒサさんとは魔力で繋がっているのよ。だから、はっきりとは分からないけれど、私から離れると悪影響が出るかも……』
『……悪影響と申されるか。それはどのような』
『だから、それが分からないのよ。これまで人が召喚されたなんて話は聞いたことがないから……あ、そうだ。アレクサンドリは大都市だから、召喚魔法に詳しい人もいるかも知れないわね』
ぽんと手を打ち鳴らし『そうだ、そうだ』と、大袈裟に喜ぶ仕草が如何にも幼く感じられ、景久もまた苦笑いを浮かべるしかない。だが、一抹の不安が脳裏に残る。魔力云々の話は景久にもよく分からぬが、悪影響との言葉が引っ掛かるのだ。
――悪影響とはもしやすると、この若返った体が元に戻る事かも知れぬ、と。
盗賊を斬り伏せた際に感じた、ズレ。それは考えると自明の理でもある。若い体と言っても、感覚は老いたままなのだ。
だから今一度、我が剣を練り直す必要があると、景久は思い定めていた。それが、ここにきて老いた体に戻されたのでは堪らない。
一度でも若さという甘い果実を味わうと、景久といえど、いや武芸者たる景久だからこそ忘れられず、最後まで味わい尽くさねば気が済まないのである。もはや年老いた姿に戻ると考えるだけで、身を切られる想いなのであった。
――ならば、いっその事エリィさんを脅してでも。
との考えが、景久の脳裏に一瞬だけ過ぎる。が、直ぐにはっと我に返り首を振る。何故なら、それこそ己れが今まで唾棄し嫌悪してきた、欲に塗れた人の醜い姿そのものであったからだ。さすがに景久も、そこまで堕ちる積もりはもうとうなかったのである。
そんな一瞬の感情の変化に気付いたのか、エリィの表情は真面目なものへと変わり、景久のことを見つめていた。
『ん、どうしたのカゲヒサさん』
『いや、なに……某もまだまだ修行が足りぬというだけじゃ』
慌ててなんでもないと言う景久であったが、
――某と、何やら術で繋がっているとの話。その関係かも知れぬが、エリィさんも油断はできぬのぉ。
と、内心の気持ちを引き締めるのであった。
『では、今しばらくは某もエリィさんに同行いたそう』
『え……そうね、その方が良いわよ。って、わたしが間違えたんだから、もっとそのぅ……恩返しじゃないわね。えっと……この場合は、なんて言えば良いのかしら……』
『詫びの積もりであるなら無用でござる』
『あ、そうそれ、わたしが十分な謝罪をするまでは一緒に……だから、もっとずっとそばにいても……ひゃぁ、わたしったら出会って直ぐのカゲヒサさんに何を言ってるのかしら』
真っ赤になって体をくねらせるエリィに、景久も呆れるしかない。何故に、これほど懐かれているのかも見当もつかないのである。
――しかしながら、エリィさんもそれほど悪い娘には見えぬ。
と、若さの秘密もあるが、一緒にいてもそれほど問題はなかろうと判断したのだ。
しかし、エリィの幼い言動や仕草に少々閉口させられているのも、また事実でもあるのだが。景久のいた日ノ本では、例え女子といえど歳が十を越える頃には、親の手伝いや奉公に出るなど何がしかの仕事をしている。十四、五には他家に嫁ぐ者もいるのである。それら日ノ本の女子衆に比べれば、エリィはあまりにも幼い言動に思え、それが景久の困惑の元ともなっていたのだ。
景久の浮かべる苦笑いに、エリィは不思議そうな顔をして眺める。
『どうかした、カゲヒサさん』
『い、いや何もござらぬよ』
すでに何度目かになる同じような問答。これがこれからも続くのであろうなと、景久には漠然とだが想像できた。
そして、それもまた悪くないかと思い直すのであった。
今まで殺伐とした道を歩いてきた景久にとって、兵法者としての困惑とは違う意味でのエリィからもたらされる戸惑いは、ある種の清涼感さえ伴うものだった。
『何よぉ、カゲヒサさん。変な笑いを浮かべちゃって』
『いや、だから何もござらぬと申しているであろうに』
今度は苦笑いではなく、自然と笑みがこぼれる景久であった。