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第27話 テノチティトランの日本屏風

みんな大好き戦国時代。

特に合戦絵巻や屏風を眺めるのがお好きな方は多いのではないでしょうか。


主だった屏風は以下の通り。


江戸時代前期に書かれた大阪夏の陣図屏風(筑前福岡藩黒田家伝来)。

江戸時代後期に描かれた関ケ原合戦屏風(複数現存。主に江戸時代後期に模写)。

尾張徳川家に伝わる長篠の合戦絵巻(尾張藩家老成瀬氏に伝承)。


いずれも色彩鮮やかで、当時のいくさが生き生きと、そして生々しく描かれています。


特に合戦屏風は権力の象徴として、または戦勝の証しとして描かれました。

それは大きな屏風に描かれ、自らの力を誇示するように展覧されました。



それは日本に限りません。

外国でもそうでした。


意外に知られていないのが、スペインがアステカ王国の首都を攻撃して占領した際の様子を描いた「テノチティトラン合戦屏風」です。


「なぜ日本でそんな絵が描かれたのか?」と思われそうですが、日本で作られたものではありません。


おそらくフィリピンか、メキシコで書かれた作品でしょう。


16世紀の日本は非常に貧しく、輸出品と言えば、銀と螺鈿らでん細工と奴隷くらいしかありませんでした。


しかし、日本からの輸出物で数少ない贅沢品が日本屏風です。


フィリピンやメキシコの大金持ちたちは東洋風の屏風を来客用の部屋に置いて自分の豊かさを誇りました。


今でも客間に高級品を飾って自らの富を顕示している人はいますね。

それと同じです。


さらにその屏風に自分たちが勝った戦争の様子を描きました。


メキシコならアステカ王国征服戦争です。


テノチティトランを攻撃する様子、それが陥落する様子。

そしてその後に、新たにメキシコシティが建造される様子です。


どうやって日本屏風がメキシコまで渡ったかというと、日本から輸出された屏風が、フィリピンに渡り、それがマニラ・ガレオン(フィリピンとメキシコの間を1~2年かけてガレオン船で渡る航路)で運ばれました。


日本が朱印船貿易を廃止し、フィリピン経由の流通経路が途絶えると、今度は現地の絵師たちが模造品を作りました。


今でもテノチティトラン合戦屏風は残っています。

ググっても出てきません。多分。


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