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第25話 ミイラになったコンキスタドール、フランシスコ・ピサロ

フランシスコ・ピサロは1470年頃にスペインのトゥルヒーリョで生まれました。

コルテスの生まれたメデジンのすぐ近くです。

この土地もやはり貧しい土地でした。

しかし、ピサロの父親はイダルゴ(郷士)でかつ、街の名士でした。

彼の父親は(・・・)豊かだったのです。


ただし、ピサロの母親はピサロ家に奉公に上がっていた農家の娘でした。ピサロの父親にはすでに妻も子供もいました。

フランシスコ・ピサロは結婚していない両親の間に生まれたのです。

いわゆる『庶子』という存在です。


この庶子は、法的な立場が弱く、様々な点でさげすみを受けることが多かったのです。

事実、フランシスコ・ピサロの父親が書いた遺言書には、嫡出の子供の名前しか出てきません。愛人の子であるフランシスコ・ピサロの名前はないのです。


おそらくこの事実はフランシスコ・ピサロの人格形成に大きな影響を与えたと思われます


フランシスコ・ピサロが幼年時代に何をしていたのかはほとんど判っていません。

豚の世話をする仕事をしていたという言い伝えが残るくらいでしょうか。


彼の父親は、彼以外の子供たちに対してしっかりとした教育を受けさせていますし、戦場にも子供たちを伴って出陣しています。


フランシスコ・ピサロを除いてです。


フランシスコ・ピサロは読み書きができない上に、寡黙な人物だったようです。



そんなフランシスコ・ピサロは1502年にカリブ海のエスパニョーラ島に渡りました。

おそらく30歳前後のころでしょう。


そしてアメリカ大陸遠征の部隊に加わります。

その後、アメリカ大陸におけるスペイン勢力の中を巧みに泳ぎ回り、パナマ市参事会の有力者にまでなりました。


やがてスペイン人たちはより広い領土を求めて、南アメリカ大陸への遠征を計画します。


そのためにはスペイン本国の後ろ盾が必要です。

フランシスコ・ピサロは一度帰郷し、カール5世(神聖ローマ皇帝兼けんスペイン国王。スペイン国王としての名はカルロス1世)とその王妃イザベルに謁見。

ペルーの総督・総司令官・首席裁判官の地位を約束されます。


そして故郷のトゥルヒーリョに帰り、遠征に参加する兵士たちを募りました。


そこでフランシスコ・ピサロは、自分の兄弟たち、父の嫡子や庶子たち、父親違いの兄弟たちを集めました。


父の嫡男エルナンド、庶子のフアンとゴンサーロ、そして異父弟のアルカンタラです。


当時のスペインでは嫡出と庶出ははっきりと分けて考えられました。嫡出は重んじられ、庶出は軽んぜられました。


この差が5人の兄弟たちの未来に暗い影を落としたのです。



この頃すでに南米大陸の太平洋側には、インカ帝国があると知られていました。


インカ帝国はケチュア族が作り上げた比較的新しい帝国でした。

ペルーのクスコ盆地に住んでいたケチュア族は、北のチムー王国、南のマプチェ王国を征服すると、現在のエクアドルを中心にペルー・チリ・ボリビアにまたがる大帝国を作り上げました。


ところがコンキスタドール来襲時には、北部のキトに駐在するアタワルパと南部のクスコに君臨するワスカルの二つの派閥に分かれてにらみあいをしていました。



フランシスコ・ピサロは、この分裂に乗じてアタワルパを捕縛し、莫大な金・銀・財宝そして女性たちを貢物として要求しました。


そしてアタワルパを処刑すると、トゥパック・ワルパを傀儡の皇帝として即位させました。

そしてアタワルパと対立していた人々を利用しながらクスコを占領。

大規模な掠奪を行いました。


トゥパック・ワルパは天然痘で死に、その後、マンコ・インカ・ユパンキがピサロの後ろ盾で即位。

彼はすぐにピサロを裏切ると、クスコを脱出して10万の兵を集め、クスコ奪還のためのいくさを起こします。

しかし、フランシスコ・ピサロに敗北し、逃亡します。


その後は、ピサロ一族と彼らに立てられた傀儡の皇帝たち、そしてスペイン本国から送り込まれてきた監察官や軍隊、そしてフランシスコ・ピサロの兄弟たちが入り乱れての勢力争いが行われました。

彼の最大の敵はかつての仲間だった同じコンキスタドールのディエゴ・デ・アルマグロでした。


その中で、フランシスコ・ピサロは1541年、リマの自宅で暗殺されます。


その後の混乱ぶりには特に注目すべきことはありません。

世界中で《《のべつ》》繰り返された、権力と富をめぐる醜い争いです。


コルテスに続いてピサロの生涯を追ってみましたが、コルテス同様、戦争と掠奪に生きたコンキスタドールたちはあまり魅力的な要素がありません。


フランシスコ・ピサロがなぜ富と権力争いに夢中になったのか、それは彼の出自のせいかもしれません。


彼は庶子として他の兄弟たちとは格差をつけて育てられました。

正式に婚姻した夫婦の間に生まれた子供ではなかったため、様々な権利を制限されたのです。


平成25年まであった日本の非嫡出子の相続制度と似ています。


兄弟との間に権力闘争が起こったのも、それが原因かもしれません。


フランシスコ・ピサロの死体は埋葬されず、ミイラとしてリマのカテドラルに展示してあります。

もっとも本人のものかはっきりしないないそうですが。

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