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大蜘蛛と化したワンコの自我はすでに失われていた。彼女を突き動かすのは凄まじい飢えとターゲットした獲物への捕食衝動だけだ。晴彦に惹かれていた故に他の人間ではなく彼を狙ったのは皮肉なことだった。すでに自身の放った糸により身動きができなくなったことを確認すると糸で獲物を手繰り寄せた。そして鋭い牙が生えた口を大きく開けた。牙と牙の間には粘液がしたたっており、牙の先端には麻痺性の毒液が分泌され始めていた。彼女自身にとっては無毒であるが、他の生き物にとっては極めて有害。そんな毒物を使用することに対しても一切迷いはなく本能的に当然の行動と言えた。糸でぐるぐる巻きにされて繭のようになっている晴彦に対して彼女はその牙を容赦なく突き立てた。だが、その牙は晴彦と体には届かなかった。牙が届く瞬間に晴彦の周囲に彼を守る防御魔法が発動したからだ。牙が届かなかったことに疑問を感じた大蜘蛛は噛みつきを繰り返したが、結果は変わらなかった。
ふいに繭の内側がかすかに明滅した。同時に繭が凄まじい勢いで燃え上がる。それは晴彦の魔法によって作成された熱によるものだった。燃え盛った炎は蛇のようにうねりながら大蜘蛛の身体全体に絡みついていく。あっという間に蜘蛛の身体を縛るように巻き付いた炎が蜘蛛の身体の自由を奪う。炎によって繭からの拘束から解き放たれた晴彦は精神集中によって炎蛇による束縛をさらに強めた。蜘蛛は束縛に必死で抵抗しようとするものの力及ばずに全身を燃え盛る炎によってがんじがらめにされた。化け蜘蛛の力は人並み外れていたが、晴彦の魔力はそれ以上に化け物じみていたのである。
クリスはそれを見つめながら晴彦に対する認識を改めていた。すぐやられるかと思ったが、なかなかやるものだ。蜘蛛となったワンコにも晴彦にも別段の思い入れのないクリスにとってはどちらが勝とうと興味は薄かった。片方に肩入れすることもないから手助けもせずに傍観する。
かつて自分が怪物達と命がけの戦いをしていた時に戦いを傍観していた人間達もそうだったのだろうか。くだらないことを考えてしまったものだ。そう思いながらクリスは苦笑いした。
◆◇◆◇◆◇
大蜘蛛となったワンコさんの殺意が高すぎてやばい。あれか、元が生真面目だから大蜘蛛となった後も仕事に対してひたむきという事か。…全く笑えねえ。
蜘蛛の糸によってぐるぐる巻きにされた時は本当に焦った。もう終わるかと何度も思った。幸いにして俺の【魔法障壁:絶】が自動発動したことで助かったが、あの牙は殺意が強すぎた。毒を流し込むつもりとかインフィニティは言っていたが、あれは絶対に噛み千切る勢いのやつだろう。防御魔法が発動してなかったら間違いなく肉を貪られていた。
今、俺が放っているのはインフィニティに命じて即興で作らせた炎の魔法である。敵を拘束すると同時に燃え盛るダメージを永続的に与えるためのものだ。【炎の蛇】とでも名付けようか。拘束力もイメージ通りに発動したようだが、油断は全くできない。敵の力がこちらを凌駕しているのは明らかだからだ。早急に次の手を打つ必要がある。だが、ワンコさんを殺すわけにもいかない。これから魔法を作成している間に拘束を打ち破りそうだし、何か手はないものか。思案する俺に万能スキルが提案してくる。
『初期に習得していながらこれまで全く使用されていなかったスキルが有効と思われます』
初期に発動していたスキル?そんなものあったっけ。疑問符が頭の上に三つくらい浮かんでいく。そんな俺にインフィニティはステータス画面を開いて自動的にカーソルを動かしていった。停止したカーソルに表示されたスキルを見て俺は唖然となった。そこには【金切声】と書かれたスキル名が表示されていたからだ。
金切声。PCが保存前にフリーズした時や、HDがクラッシュした時によく上げていた悲鳴の気がする。だが、そんなものがこの場で本当に役に立つのだろうか。だいたい蜘蛛に鼓膜があるなんて聞いたことがないぞ。
『蜘蛛には鼓膜がありませんが足によって振動を感じ取る機能は供えています。なお、今回のスキルの対象者は蜘蛛ではなく、核となっているワンコに使用するためのものです』
インフィニティさんの補足説明に納得した俺はとりあえず言われるままにスキルを発動することにした。
『「金切声!!」』
瞬間、人間の可聴域を超えた超音波のような振動が波のように周囲一帯に木霊した。建物のガラスが一斉に割れていく。これはやばい。なぜならば発動した俺の耳もどうにかなりそうだったからだ。三半規管を直接揺さぶられそうな凄まじい感覚を味わいながら俺は殺虫剤をかけられたハエのように地面に落下した。惨めに地面で身悶える俺の前で同じく大蜘蛛が痙攣しているのが分かった。上空にいたはずのクリスさんまで巻き添えで泡を吹きながら地面に落ちている。それを確認した俺は薄れゆく意識の中で思った。これあかん奴だ。インフィニティさんの馬鹿野郎。そう思いながら俺たちは仲良く意識を失った。