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その日の深夜。繁華街の片隅の雑居ビルの影によろめきながら歩く人影があった。ワンコである。彼女は虚ろな目をしながら建物の壁にぶつかった後にもたれかかる。顔面蒼白であった。彼女はもたれかかった建物の壁に力なく寄りかかると、そのままへたりこんだ。
そんな彼女の近くに通りかかったのは二人のサラリーマンであった。かなり酒を飲んできたのだろう。互いに肩を組みながら歩くものの足取りもおぼつかない。そんな酔っ払いの片割れが建物の影でへたり込んでいるワンコの姿を見つけた。朦朧とする頭で考えたのはすぐ近くに酔いつぶれているであろう女がいることだった。持ち前の親切心というよりは助平心から男たちはワンコの元へ近づいていった。
「おっねえさーん、こんな所でどうしたのかな。」
「酔いつぶれちゃったのかなあ、おじさんたちが介抱してあげようか。」
そう言いながら男の一人がワンコの背中をさする。ワンコはそれにされるがままだった。そんな男の姿に苦笑していた同僚は小便がしたくなって男とワンコから背を向けるとズボンのチャックを開けて立小便をし出した。酔った勢いもあって勢いよく出ていく。そんな男の背後で異変が起きたのはそのすぐ後だった。
「ぎゃああああっ!!!」
ふいにあがった同僚の叫びに男は振り返った。そして青ざめた。介抱していた女の背中から昆虫の足を思わせる不気味な足が生え始めていたからだ。女の背中がごきりごきりと凄まじい音を上げながら異形へと変貌していく。変形しながらも一回も二回りもその体が膨張していく。その怪異的な光景は一般人ごときに耐えきれるものではなかった。気づけば完全に小便は止まっていた。出尽くしたというよりは目の前で見た恐怖によるものだった。
男たちはその場から我先に競うようにして逃げ出した。残されたワンコは時折身悶えながら異形への変形を続けた。夜の闇の中に骨と筋の擦れ合う不気味な音が木霊する。
ごきり。ぼきり。べきごきゃ。ぼきぼきぼき。ばきゃっ。
あっという間に見上げるようになった異形の影は月夜の街の中で大きく跳ねて空に舞った。満月の影に映し出されたのは変わり果てた巨大な蜘蛛の影であった。
◆◇◆◇◆◇
爆睡していた俺は突然に何者かに揺り起こされた。寝ぼけた目をこすって見てみるとそこにはクリスさんがいた。珍しく真面目な顔をしているな。どうしたというんだろう。
「お客さんが来るようだよ。」
「客、ですか。」
「こないだの蜘蛛子さんがこっちに向かっているみたいだね。」
その言葉に俺は跳ね起きた。ワンコさんがまた蜘蛛になってこちらに向かっているだというのか。まさかと思って周辺の魔力感知を行った俺は青ざめた。確かにこちらに向かっている巨大な魔力の反応を確認できたからだ。この速度だとこちらに来るまで数分もないだろう。
クリスさんは俺の反応に面白そうな表情をした。気のせいかな。ワクワクしてないか、この人。
「ああ、久しぶりに戦場の空気を味わえるなんて思っても見なかった。晴彦君といると本当に退屈しないなあ。」
「…こちらとしては平穏無事に生きていたいだけなんですがね。」
「与えられた職業が悪かったと諦めたまえ。平穏無事に生きられる勇者なんて聞いたことがないよ。」
「うう、とにかく準備をします。」
俺はそう返事をしながらも、起き上がって上着だけ羽織った。そして玄関先に走るようにして向かった後に靴を履いて部屋の外に出た。その間もワンコさんがこちらに近づいてくる反応を感じるのだが、視認することはできない。このままでは不意打ちを喰らう危険性がある。
「上空から物見をしてみてはどうかな。」
クリスさんのアドバイスに俺は頷くと魔剣を召喚することにした。
「こい、ティルヴィング!」
叫んだ瞬間に一陣の風が駆け抜けていく。いつの間にか手の中に納まった一振りの剣を握りしめながら、俺は夜の闇の空へと飛翔した。その姿が月明かりに照らされていく。痩せていればそれなりに幻想的な光景なのだろうが、太っていることで色々と台無しの光景であった。そんなことを若干気にしながら街の景色を眺めると確かに近づいてくる大蜘蛛の姿を確認することができた。
「おおー、こうして実際に見ると大きいねえ。」
いきなり隣で言われて仰天した。俺のすぐ隣にクリスさんがいたからだ。いや、待ってくれ。ここは空の上だぞ。魔剣も持っていないのに何で浮いてられるんだ。
「今の僕は君の眷属みたいなものだからね。飛翔能力とかその他の能力もいくつかは使用できるみたいだよ。」
何という事だ。全く知らなかったよ。体重を増やしたり我儘いうだけではなかったのか。予想外の頼もしい応援が増えたことに安堵しながら俺たちは蜘蛛となったワンコさんを迎え撃つことにした。