9-3(P90)
ワンコさん達が帰った後にシェーラに事情を話したらいつものことだと苦笑いされた。どうも彼女も俺がそういう損な性分だという事を理解し始めたらしい。そんなつもりはないのだがなあ。
というわけで例によってゼロスペースでの修行を開始することになった。本当はワンコさんと一緒に修行をした方がいいのだろうかとも思ったが、司馬さんに言わせると危険だからやめた方がいいと諫められた。呪いを受けた当事者が近くにいれば自我を失った蜘蛛となって襲い掛かる確率も跳ね上がるらしい。そんなわけで俺は一人でゼロスペースに入って修行を開始した。
色々と準備は必要だが、第一に試したいことがあった。インフィニティに相談して開発してもらった新しいスキルを使う事である。これまでの戦闘訓練の中で俺は自分に欠けているものを自覚していた。それは武器に対する防御、特に切り払いなどの技術の欠落である。司馬さんのような凄腕の剣士との戦いの場合は攻防一体の小刀だけでは手数が足りなくなる。かといってそこまで卓越した剣技など一長一短で身につくわけがない。ならばどうするか。単純なことだ。手を増やしてやればいいのだ。
俺のイメージにあるのは仏像の千手観音である。あれだけの数の手で攻撃や防御を行うことができれば敵の攻撃にも十分に耐えることができるはずだ。そう考えた俺はインフィニティにスキルの開発を急がせていたのである。
本当は先日のワンコさんとの訓練で披露するつもりだったのだが、それは叶わなかったためにここで試すことにした。
「準備はいいか、インフィニティ」
『いつでもいけます』
『「千手観音っ!!」』
俺とインフィニティの叫びが重複する。その瞬間、体の内側から凄まじい熱と力が湧き上がってくる。沸きあがった力はその発露を求めて体の外側、特に背中に向かって放たれていった。内側から凄まじい勢いで何かが生えていくのが分かる。それは恐らく腕だ。千手観音のイメージそのままに俺の身体に魔法で構成された実体を持った腕が生えていく。それは背中に、脇に、そして腹や耳に…え、ちょっと待て!!
俺が気づいた時にはもう手遅れだった。俺の視界を埋め尽くすかのような勢いで凄まじい数の腕が俺の体内からにょろにょろと生えていく。うわわわ、止まれ、止まれよ!くそ、全く止まる気配すらない。
またやりやがった!インフィニティめ、勘違いからとんでもない真似を仕出かしやがった。
後悔した時には時すでに遅く、腕が生え終えた頃には俺は人間の手の集合体としか形容できない悍ましい姿に変貌していた。目の前に夥しい数の腕があるせいでうまく見ることができない。というか自重を支えるのも困難な有様である。自分の意志に反してうねうねと動く凄まじい数の腕がこんなに恐ろしいとは思わなかった。今の俺はおそらく肌色のイソギンチャクに足が生えているようにしか見えないはずだ。
『…マスターの要望通り、千手観音とやらのように千本の腕を生やしましたが本当にこれでよかったのですか』
「いいわけがないだろう」
『…日本の仏像というものは恐ろしい姿をしているんですね』
「…お前は一度仏像の本を読み直してこい」
物知りの癖になんで千手観音を知らないんだよ。あの仏像は千本も手があるわけではないんだぞ。二本の腕の後ろに生えている40本の腕が一本につき25本の世界を救うと言われている。それ故に千手観音という名なのだ。中には本当に千手ある観音像もあるらしいが、このようなクリーチャーの姿で作っている仏師など見たこともないわ。
「インフィニティさん。ちょっと洗面台の鏡の前で反省しようか」
俺は溜息をつきながらゼロスペースを出て現実世界の洗面台の前に戻った。鏡の前には数えきれないほどの腕を生やした化け物の姿があった。正直いって怖い。夜道で会ったら確実にトラウマになる奴だ。万が一、写真撮影でもされようものならば『お分かりいただけただろうか』と心霊番組に投稿されるほどのクオリティである。一刻も早く元の姿に戻る必要がある。
そういう時に限って間の悪いことは起こるものだ。ふいに何者かの気配を感じて俺は洗面台の扉を見た。そこには顔面蒼白にしてこちらを見ているシェーラの姿があった。やばい、これは違うんだ。俺がそう弁解する暇もなくシェーラは無言のままで卒倒するような形で気絶した。恐らくは恐怖判定に失敗したとしか思えない。俺は頭を抱えようとした。本来の腕ではなく、千本の副腕達が代わりに頭を抱えてくれた。他人に頭をもみくちゃにされているようで凄まじく気色の悪い感触だった。
こうして期待して開発した千手観音は一日と経たずに封印スキルの一つとして処理されたのだった。