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危うくパニックになりかけたシェーラはワサビを口から出した後も顔を真っ赤にして耐えていた。俺はそれを生暖かい目で見守りながら彼女が落ち着くのを待った。生まれて初めての寿司屋は随分とハードルの高いところから攻めていったものだ。トラウマにならなければいいのだが。そう心配していた俺の前にいた大将がそっと卵焼きを載せた皿をシェーラに出してくれた。何だろう、頼んでないけど。
「サービスです。そちらのお嬢さんはお寿司が初めてみたいですからね。」
優しい大将だ。礼を言ってシェーラにそれを伝えるとまだ言葉を発せないのか顔を真っ赤にしながらも会釈していた。うーむ、落ち着いてからの方がいいな。そう思いながら傍らのワンコさんを見ると実に旨そうにボタンエビを頬張っていた。美味しそうに顔を紅潮させている。むう、旨そうだなあ。そう思いながら物欲しそうに見ていると俺の視線に気づいたようだった。途端に気まずそうにしながら口を押えて咀嚼し続けた後にお茶を飲んで一気に流し込んだ。
「なんだろう。ハル君の視線が獲物を狙う獣のようだったんだが。」
「そんなことないですよ。ですが、残された一個をもらえればこんな餓えた視線もしなくてすむのです。」
「無理だ。こればかりはハル君のお願いでも聞き入れられない。」
そう言ってワンコさんは無情にも最後の一個を口の中に放り込んだ。ああー、思わず溜息が出てしまう。ちきしょう、目の前でそんなものを見せつけられたら頼むしかないじゃないか。
「すいません、俺とシェーラにもボタンエビ一つずつ!あ、この子の分はサビ抜きでお願いします。」
「おい、晴彦。炭水化物抜きダイエットはいいのかよ。」
司馬さんが冷やかす様に言ってくるが、俺の口の中はどうしようもなく刺身だけではなくシャリを求めている。後で運動する量を増やせばたいした問題にはならないはずだ。自分の中で言い訳をしているのはどうしようもなく分かっていたが、我慢がしきれないのは自分でも分かっていた。そんな俺に司馬さんは苦笑いしながら大将の方に頷いた。そのやり取りを見て無言で頷いた大将は慣れた手つきでネタを準備するとシャリを取り出して握った。手に添えたシャリとネタを数回触った後に裏返して形を整える。たったそれだけの動作であっという間に寿司が完成していた。あの握り方は一体なんだ。疑問に思った俺の脳裏に今までにない情報が照らし出される。
小手返し。握りの中でも高等テクニックと呼ばれる握り方の一つ。スピーディな動作が可能である。握り方にはこの他にも手返し、本手返し、たて返し、裏手返し、親指握りなどがある。
なるほど、小手返しか。待て待て待て。なんで俺はそんなことを知っているんだ。てっきりインフィニティさんの情報かと思ったらどうやらそうではなく、俺の得た美食家のスキルから得た情報らしい。意外と役に立つな、美食家。
そんなことを考えていると大将はあっという間に四貫のボタンエビを握り終えると俺とシェーラの寿司下駄にそっと置いてくれた。旨そう!我慢しきれなくなって俺は素手で取って口に入れようとした。今にも口に入るかという瞬間にようやくワサビのダメージから回復したシェーラが戸惑っていることに気づいた。素手で食べていいのだと教えてあげると彼女は戸惑いながら俺に習ってボタンエビに醤油をつけると口の中に放り込んだ。余程美味しかったのだろう。目を丸くして口元を押さえている。それを見てしまうと期待に胸が膨らむではないか。
いただきます。そう心の中で呟いた後にボタンエビを口にした。口の中に入れた瞬間にシャリがふわりと口の中で溶ける。それがぷりぷりとしたエビの触感と混ざり合って口の中を楽しませる。同時に新鮮なエビの風味が口いっぱいに広がった。なんぞこれ。これが本当の寿司だというならば俺はこれまで本当の寿司を知らなかったことになる。
幸せだ、幸せの連続だよう!!あっという間に一個目を食べ終えた俺とシェーラは競うように二個目を頬張った。駄目です、敵はすぐに口の中から消滅しました。あっという間に食べ終えて余韻に浸りながらももう一貫食べたいと思ってしまう。
「あのう、ボタンエビもう一貫ずついいですか。」
「お前なあ、エビで胎膨らませてどうすんだよ。他の寿司だって旨いんだぞ。」
「ははは、いいですよ。お客さんに喜んでもらえるなら順番や作法なんて二の次でいいんです。食事はね、お客様が楽しむことが一番なんです。」
そう言って大将は気前よく二貫目を握り始めてくれた。なんていい人なんだ。そこらの頑固な店主に聞かせてやりたいぞ。大将への感謝の気持ちで一杯になりながら隣を見てみるとエンガワを幸せそうに頬張っているワンコさんの姿が見えた。その時、俺はある違和感を覚えた。なんだかワンコさんの姿がいつもと違うような。
よくよく眺めた後に仰天した。何故ならばワンコさんの頭の上に二つの犬のような耳が生えていたからだ。ビックリしているとワンコさんは俺の視線に気が付いたようだった。頭の上を触った後で、しまったという様子で慌て始める。慌てて耳を抑えるといつもの耳が隠れた姿に戻った。
「…もしかしなくても見たよね?」
「あはは、残念ながら。」
「またやらかしやがったか。人前では気をつけろと前にも言ってるだろう。」
「すいません、つい美味しくて…」
司馬さんの指摘にワンコさんはすまなそうに頭を掻いた。確かにワンコさんは孤狼族という獣人のクォーターだから先祖返りが出たというやつなのだろう。俺はそのやり取りよりも周囲の反応の方に驚いた。大将も女将も奥の方にいる老夫婦でさえもワンコさんの耳に慌てるどころか落ち着いた様子を見せていたからだ。どういうことだ。俺がそう思っていると察した大将がそっと教えてくれた。
「この店は異世界から来るお客さんも多いんですよ。なんでもこの店の入り口が異次元と繋がっているらしくって。向こうのお客さんも実は異世界の方なんです。」
大将のあっけらかんとした態度に仰天した。俺が引きこもっていた間に恐るべき国際社会になっていたものである。ワンコさんや司馬さんが落ち着いているのが分かった。納得した俺たちはその日の寿司を堪能したのだった。