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司馬さんが連れて行ってくれたのは繁華街の中央からは外れた閑静な区画であった。どちらかと言えばこの辺りは高級店が多かったような記憶がある。期待に胸を膨らませてついていくと一軒の店の前に着いた。店の名は匠。寿司屋というよりはどこか洒落た外装がこれから出される料理を期待させられる素敵な店だった。ただ、高そうだよな。そう思いながらも司馬さんは構わずに引き戸を引いて中に入っていく。若干腰が引けながらもついていくと中は非常に落ち着いた内装の店だった。ざっと見てカウンターが十卓程度でテーブル席がないが、丁寧に手入れされているのが印象的な店だった。ぱっと見た感じ、店主と女将の二人で切り盛りしている店なのだろうか。そこまで流行っている様子はなかったが、店の奥の方では一組の老夫婦がうまそうに寿司を食べているのが目についた。
「…いらっしゃい。」
カウンター越しに少し寡黙そうだが、優しそうな店主が挨拶してきた。司馬さんはその言葉ににこやかに返答する。
「すまねえな、大将。騒がしくしちまって。」
「何、忙しくしてもらえるのはありがたいことですよ。」
「いらっしゃい、司馬さん。」
司馬さんの言葉に大将と女将がにこやかに笑う。三人の関係が少し気になったが、勧められるままに席に着いた。落ち着きすぎて逆にそわそわしてくる雰囲気だ。しかしこの席順はどうなのだろう。司馬さんの隣にワンコさんが座るのは分かる。だが、なぜシェーラもワンコさんも俺を挟んで座っているのか。逆にこのポジションは怖くて仕方ない。緊張のせいか胃の奥の方がキリキリ痛むのが分かった。気にし過ぎなのだろうか。そんなことを思っていると女将がおしぼりとお茶を出してくれた。ありがとうございますと礼を言って受け取ると丁度良く暖かかった。思わず顔を拭く様に司馬さんが苦笑する。
「俺と同じようなことしてるんじゃねえよ。王女さんが真似しようとしてるだろうが。」
そう指摘されて横を見るとシェーラが見よう見まねで顔を拭こうとしていた為、苦笑いしながらやめさせた。止められたシェーラは俺達のやっていることが普通は女の子はやらないことだと知ると残念そうにおしぼりを置いた。
「気持ち良さそうだったんですが残念です。」
うーん、気持ちは分かるが、流石に女の子はそれをしては駄目だからね。お化粧とか色々落ちてしまうよ。よくよくそう考えてシェーラの顔を見てみるとうっすらと化粧をしていることに気づいた。しまった。全然気づかなかった。今更言ったら怒るかな。そう思っているとワンコさんが肘で俺を突いた後に小声で言った。
(ちゃんとシェーラのお化粧を褒めてあげたか。)
(あ、いや、その。今まで気づいてませんでした。ていうかどうして気づいたんですか。)
(なんとなくだ。というよりは女の勘かな。気を付けないといけないよ。私が言うのもなんだが、どうも君はそういう機微に疎いみたいだね。)
ワンコさんは溜息をついた後に俺に化粧を褒めるように促した。うーん、つくづくこの人は人間ができている。シェーラは俺達が何を話しているかは聞こえなかったようで、こちらを向いて小首を傾げていた。うむ、仕草がすでに可愛いな。
「あのさ、シェーラ。」
「はい、なんでしょう。」
「今日は本当にいつもより可愛いね。お化粧してきたんだ。」
「ハルが喜ぶだろうって壱美が教えてくれました。」
シェーラがそう言って照れ笑いを浮かべる。なにこの可愛い生物は。持って帰りたい。というか一緒に暮らしているか。それにしてもワンコさんの要所要所のフォローが的確過ぎるだろう。なんていいお姉さんなんだ。俺たちの初々しい様子をニヤニヤしながら眺めていた司馬さんは旨そうに茶を啜った後にこちらに呼びかけてきた。
「そろそろいいか。さっきも言ったが、今日は俺のおごりだ。大将に言ってなんでも握ってもらってくれ。」
司馬さんの言葉に俺たちはあらためて歓声を挙げた。まともな寿司、しかもカウンターが回らない寿司なんて最後に食べたのはいつだっただろう。引きこもっていた時期に出前の寿司を頼んだことは何回かあったが、たいていはコンビニのサラダ巻やパックの握り寿司だっただけに期待感が半端ない。シェーラは生まれて初めての寿司に戸惑っていたのでどれがいいかを聞くことにした。
「シェーラの故郷では魚は食べるのか。」
「はい、港で取れた魚やイカを調理して食べますが。その、お寿司って確か生魚なんですよね。」
そう言うとシェーラは若干顔を青くさせた。そうか。今まで生の魚を食べることはなかったのだろう。そのことをすっかり失念していたな。
「無理そうならやめとくか。」
「いえ、何事も挑戦です!日本文化に触れる貴重な機会ですからこちらからお願いします。」
そう言ってシェーラは気丈にも笑顔を浮かべた。多分いきなりワサビ入りの寿司とかはやばいな。サビ抜きから始めたほうがいいかもしれない。そう思って思案していると司馬さんが助け舟を出してくれた。
「まずは刺身から始めてみたらどうだ。」
「そう…ですね。お願いします。」
「大将、刺身の盛り合わせ二つ頼む。ワンコはどうする。」
「私は、エンガワとボタンエビをお願いします。」
「わかった。俺もそれ貰おうか。」
大将は快く頷くと作業を開始し始めた。カウンター越しにしか見えないが流れるような包丁さばきだな。というかあの包丁、手入れが良く行き届いている。よく切れそうだ。そんなことを思っているとインフィニティが声をかけてきた。
『マスターが羨ましいです。私も寿司というものを味わってみたい。』
珍しいことをいうものだな。インフィニティ。味覚など持たないスキルが料理を食べたいというのもおかしな話だ。段々と人間に近づいているような気がする。そんなことを思っていると刺身の盛り合わせがやってきた。ハマチにマグロ、甘エビ、そして鯛だろうか。なんとも旨そうだ。目の前に出されて戸惑っているシェーラにレクチャーすることにした。
「これをつけて食べるんだよ。」
そう言って刺身に醤油をつけるのを見せると彼女は神妙に頷いた。そして箸を持つと何を思ったのか、あるものを持ち上げて醤油につけた後に口の中に放り込んだ。俺は唖然となった。何故ならばそれはワサビの塊だったからだ。あまりにも躊躇いがなかったために止める暇さえなかったではないか。案の定、シェーラは目を白黒させ始めた。
「〇×△□っ!!!?」
苦笑いした俺がすぐにおしぼりとお茶をシェーラに差し出したのは言うまでもない。