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ネットには座禅のほかにも瞑想、ひたすら読経、禊などの宗教儀式などといったものが書かれていた。珍しいものだと滝に打たれて精神集中や焼けた石の上を走るなどといった凄まじいものもあった。石はやりたくないし、春先とはいえまだ寒い水に打たれるほど自分は人間ができていないように思える。
さて、どうするものかと考慮しているとインフィニティさんが声をかけてきた。
『マスター。樹に吊るされて魔力回路を再開発するというのはいかがでしょうか。』
「え、何なの、その怪しい修行は。」
例によって随分と物騒な話を持ってきたぞ。そう思った俺は警戒しながらインフィニティさんの話を聞いてみた。話を聞いてみるどうやらこういう話らしかった。
かの北欧神話に登場する大神オーディンは自らの槍で体を貫いた状態で樹に吊るしあげられたことで魔術の真理に到達して彼の使用する魔術の基礎となるルーン文字を習得したという。それにあやかった修行を行えば失われた魔術回路を再度開発することも可能ではないか。そういう過程に基づく話であった。
なんとも眉唾な話であったが、インフィニティさんが言うにはイギリスで主流となるウェイト版タロットに登場する吊るされた男のモチーフになったのがこの時のオーディンであるという説もあるらしい。そう言われると何やら由緒正しい修行法ではないかと思えてくるから不思議である。
どうせこのままでは魔法が使えないし。ダメもとで試してみるか。インフィニティさんに修行を試すことを告げるといきなりゼロスペースに強制転移させられた。過程をすっ飛ばす手際に仰天である。
しかもそこはいつもの見慣れたゼロスペースではなかった。目まぐるしく雲が流れゆく真っ赤な夕焼けのような背景が印象的な空の下で崖に向かう小高い丘の上に一本の朽ちかけた樹が生えていた。何やら不穏なものを感じて俺が思わず後ずさろうとするとインフィニティさんが声をかけてきた。
『今回の修行用に特別な空間を用意しました。あそこにある樹に吊るされながら修行を行ってもらいます。』
「…お、おう。」
そう言われてもドン引きである。いきなりゼロスペースに連れてこられたのもびっくりだが、なんというかこの空間、悪意にも似た作為しか感じない。だいたいなんだ、あの崖の先にあるような樹は。悪魔の手のような不気味なシルエットしかしていないじゃないか。
怯える俺をせかす様にインフィニティさんは崖に向かうように俺に指示を出した。樹の近くには木でできた箱が足場のように置かれていた。そしてその先の木の枝には縄で括られた円を描くロープが吊るされていた。
まるでこれから処刑されるようだな。逃げたくなった俺にインフィニティがせかす様に声をかける。
『さあ、早く靴を脱いで吊るされる準備をしてください。』
「いや、なんで靴を脱ぐ必要があるんだ…」
『深い意味などありません。マスター、私を信じて早く!』
「こういう時のお前は信用できねーんだよ!」
まるで熱湯に入れられるのを拒むお笑い芸人のやり取りである。嫌がる俺に脳内でインフィニティは催促する。やいのやいの言われて嫌がりながらも俺は靴を脱いで木箱の上に立った。直後、ロープに意思があるかのように俺の足をからめとる。俺が悲鳴をあげる前にロープは俺の右足首を持ち上げて樹に吊るしあげた。逆さまになった光景に俺は恐怖した。
同時に体の中から力が抜けていくような不気味な疲労感に襲われる。何かを吸われている。どういうことだ、これは。
『魔力を練って脱出しないと生気を吸われますよ。』
「今回は説明不足なことが多すぎないか。」
『言ったらマスターは恐らくこの手段を選ばないと思いまして。』
「そうだな、事前にこうなることが分かっていたら、絶対に選ばなかったよ!」
俺は内心で苛立ちを隠しながらも修行を開始した。
◆◇◆◇◆◇
修行を開始して思い知ったのが人間は脳に血液が行き過ぎると精神衛生上よろしくないという結論だった。最初の方こそ抵抗する気力もあってなんとか腹筋を使って頭を持ち上げようとしたのだが、何回か試して無理そうだったので諦めた。かろうじて俺が無事でいられたのはやばいなと思った時はインフィニティさんがある程度の血流操作をしてくれたからに他ならない。普通の人間がやったら間違いなく体に重要な支障をきたす恐れがある。やるような人間はいないだろうが、くれぐれもよいこは真似をしないようにしていただきたい。
頭に血が昇ると安眠もできない。その上、食事ができないことが大きなストレスとなった。その時に分かったことは一つ。飢餓は人間から冷静な判断力を失わせるが、極限の飢餓は人間から思考能力そのものを奪い去る。というか空腹のあまりに考える力すら沸いてこないのである。そんな状態になった俺にインフィニティさんは餌を与えるなどの一切の手心を加えなかった。
最初の数十時間こそ冷静に瞑想こそしていたものの極限まで生気を吸われて空腹となったことで意識が朦朧としてきた。いやらしいのは樹が俺の死なないギリギリのところで生気を吸うのをやめている点である。生かさず殺さずギリギリの負荷をかけ続ける。こいつ、インフィニティそっくりじゃないか。
体幹時間にして三日目以降になると唇もかさかさになり、自分が現実の中にいるのか夢の中にいるのかも曖昧になっていた。時折、亡くなったおばあちゃんが川の向こうから手招きしている景色がちらついた。あそこに行くのも悪くないかもしれないと思いながらも慌てて我に帰った。
五日目になってから変化が起きてきた。目を閉じると明滅する光や体を流れる何かを明確に感じられるようになってきた。冷静にこれが何なのかを考えた後におそらくはこれが自らの身体に流れる魔力の流れであることを自覚した。ならば、これを集中させればここからの脱出も可能になる。そう思った俺は目を閉じて意識を集中させた。高まり続ける何かが空間を支配していく。
『この力は…いけません、マスター。この空間を吹き飛ばすつもりですか!』
インフィニティの焦った声を聞きながら俺は思った。それも構わないか。だってそうだろう。ここまでされたら後は死ぬしかないじゃないか。そう思った瞬間に俺の足を掴んでいたロープが緩み、俺は自由の身となった。そして魔力を再び制御できるようになっていた。そんな俺の中でインフィニティさんのどこか嬉しそうなアナウンスが響き渡った。
『魔力回路喪失を克服しました!克服報酬として魔力感知、ルーン魔術作成、グングニル召喚、空間魔力制御、快適空間作成を習得しました。』




