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晴彦は目を覚ました瞬間に仰天した。自分の顔を見るなり、潤んだ瞳をしたワンコが抱きついてきたからだ。抱きつかれるまでは寝ぼけまなこであったが、慣れないことをされたせいで一気にいろんなものが覚醒した。甘い吐息が自分の耳に触れたと同時にスレンダーながら張りのある胸の柔らかさと温もりを意識してしまった。これまで女性にほとんど耐性の無い晴彦が顔を真っ赤にさせるのも無理からぬことであった。
「わ、ワンコさん!どうしたんですか!?」
晴彦の問いかけに対してワンコは声を発しない。返答代わりに晴彦を抱きしめる力を強めるだけだ。どうしていいのか分からずに晴彦は背中に手を回すべきか迷いに迷った。調子に乗ってひっぱたかれるのを恐れたからだ。だが、ワンコの次の行動は晴彦の予想を遥かに超えるものだった。
「…ハル君」
「へ!?ワンコさん、どうしたんですか」
「ハル君って呼んじゃダメかな」
「だ、駄目ではないんですが。いや、落ち着いてください!」
恥ずかしさに限界が来た晴彦は嫌がるワンコを無理やり引き剥がした。ワンコは名残惜しそうな顔をしたが、晴彦が戸惑っているのに気づいて自重した。ただし、ニコニコしながら晴彦の顔を眺めている。
ヤバイ、原因は分からないが、ツンデレの人がデレた。その破壊力に晴彦はノックアウト寸前だった。
「ハル君、もう一度抱きついては駄目かな」
「だ、駄目です!もう駄目ですよ!!」
これ以上されたらどうにかなってしまう。晴彦はかろうじて残る理性をフル動員させてワンコの誘惑に抵抗した。ワンコが若干寂しそうな顔をしたので心がズキンと痛んだが、これ以上は理性が吹っ飛ぶと確実に理解している。ワンコは晴彦の顔をまじまじと見た後に悪戯っぽい笑みを浮かべた。
「じゃあ頭を撫でてくれたら抱きつくのやめるね」
「どうなってるんだ、これは———!!!」
ワンコは期待しながらこちらを見ている。頭を撫でますか?
➡はい
いいえ
恋愛ゲームであればおそらくはこのような選択肢が出ているのではないだろうか。だが、これは現実であり、ゲームではない。晴彦は事態に脳みそがついていけずにパニックに陥った。ゆえに現状から逃げるように「うあああああ!!!」と叫びながら病室から飛び出していった。
◇◆◇◆◇◆
ワンコさんが壊れた。間違いない。あれはまともな状態ではない。モテ期が来たとか寝ぼけるつもりは毛頭ない。学生時代にすでにそういうトラップは経験済みなのである。
あの時は酷かった。高校時代に今のワンコさんのような状態になった女の子のことを好きになり、その気になって告白したら嘲笑と共に振られたのだ。モテそうにない俺に優しくしてその気になったら振って笑いものにする苛めだったらしい。あれをやられた時は人間不信になった。以来、女性の仕掛けるトラップには引っかからないことにしている。だってそうだろう。俺のような豚男に惚れるような奇特な女の子なんて世の中にいないはずなのだからな。
ワンコさんは奇麗な人だし、誠実な女性だ。人を騙すような人ではないと思いたい。だが、もしものことを考えると怖くて本心を問いただすことなどできない。
「インフィニティ、ワンコさんが何者かに操られていないか鑑定してくれ」
『鑑定するまでもありません。彼女は正気ですよ』
「本当か。悪いが信じられないぞ」
『マスターは本当に難儀な性格をしていますね。ワンコもシェーラも可哀そうに』
ワンコさんはともかく、どうしてシェーラの名前も出てくるのか意味が分からない。
そんなことを考えながら自分の病室に戻ると暫くしてから俺の見舞いにシェーラがやってきた。その手にはリンゴといくつかの果物の入ったバスケットを持っている。どうやら差し入れを持ってきてくれたようだ。ベッドの横のパイプ椅子に座った彼女は不慣れながらも一所懸命に彼女はリンゴの皮を剥いてくれた。
「ハル、リンゴが剥けましたよ」
「ああ、ありがとう」
わざわざ剥いてくれた心遣いは非常に有難い。だが、相変わらず味はしなかった。シェーラに察知されないように我慢して咀嚼する。シャリシャリとした感触だけはあるものの甘みも何もない。俺の味覚は本当にどうにかなっているようだ。
インフィニティが言うには味覚喪失はマイナススキルの克服でどうにかなるらしい。何の行動で経験値が上がるのかというと基本的には咀嚼回数らしいのだが、例外として魂が震えるほどの美味しい物を食べた時に急に元に戻ることもあるらしい。どこかのグルメ漫画か。
そんなことを考えていると病室にワンコさんがやってきた。俺のことを追ってきたのだろうか。何故か彼女が入ってくるのをシェーラは警戒しているようだった。ワンコさんから守るように俺の服の袖をぎゅっと握っている様子を見てワンコさんが苦笑する。
「ごめん、お邪魔だったよね。また来るよ」
そう言って俺が何か言う前にワンコさんは寂しそうに去っていった。気まずくなった俺はシェーラに声をかけた。
「シェーラ、気のせいかな。ワンコさんに冷たくないか」
「ハルはあの人みたいに奇麗な人の方が好きですよね」
笑顔なんだが、なんだか怒っているのではないかと思った。ワンコさんもシェーラもどうしたというのだろう。一体何が二人の仲を悪くしているのかがさっぱり分からない。答えが見つからず、シェーラを宥めることのできなかった俺は数少ない相談者である司馬さんに相談することにした。