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目を覚ますと目の前に無表情な司馬さんの顔があった。笑うでもなくこちらを見ている瞳は俺ではなく虚空を見ているような視線のままだ。その真っ黒な瞳孔の奥には深い闇が漂っていた。
恐怖を感じた俺は飛び起きるように司馬さんから飛び退いた。冷たい汗を感じた。背中だけでなく全身だ。何かがカチカチと鳴っている。それが自分の奥歯が震えている音だと理解した。恐怖を感じているせいなのか幾ら止めようとしても体の震えを止めることができなかった。司馬さんはそんな俺の様子に苦笑した。
「兄ちゃん、戦場で真っ先に死んじまうのはどんなやつだと思う」
「……?」
「それはな、自分の能力を過信して前に出過ぎる奴だ」
自分のことを言われているのだと気づいた後に理解した。確かに司馬さんのいう通りだ。俺は神速という能力を過信するあまりにレベル差が52もある司馬さんに戦いを挑んであっさりと負けた。いくら模擬戦と言っても最初に鑑定スキル:∞で司馬さんのステータスを測れば先ほどのような無様な戦いはせずに戦わない方法を模索しただろう。
俺は傲慢になっていたのだ。そして司馬さんはそんな世間知らずの天狗の鼻をへし折ってくれたのだ。
「…俺、調子に乗りすぎてました」
「いいさ、俺もお前のことは全然笑えないからな」
そう言って司馬さんは自身の服の袖をまくって腕を見せてくれた。凄まじい数の古傷だった。幾ら無茶な戦いをすればこれほどの傷になるというのか。驚く俺に司馬さんは教えてくれた。
「体中がこんな傷ばかりだ。若い時は命を惜しまない真似ばかりしてきた。今でこそ生き延びているが、いつ死んでもおかしくない傷を負って生死の境を何十日も彷徨ったことも一度や二度じゃない」
司馬さんと俺の決定的な差を理解した。潜り抜けた修羅場の数が違うのだ。お遊び感覚でステータスを上げていた俺とは違う。この人は幾度の死線を潜り抜けてきた歴戦の勇士なのだ。何も言えなくなった俺に司馬さんは忠告する。
「お前さんが幸運だったのは最初に戦った強敵が俺だったことだ。怖さを感じただろう」
「はい、正直な所、今も怖いです」
「正直な奴だな。だが、それでいい。恐怖を知っている奴は踏みとどまる理性を知っている。だが、強敵と戦ったことがない奴はそこで踏みとどまることができない。自分が死ぬかもしれないという恐怖を知らないからな」
司馬さんの言いたいことが分かった。司馬さんは俺に戦うことの危険さと恐怖を教えてくれたのだ。無謀な戦いを挑むのではなく、彼我の実力差を考慮して生き残るための戦術を練りあげる。大事なのはそれなのだ。そんな俺に司馬さんは手を差し伸べてくれた。俺は一瞬、躊躇した後に司馬さんの手を握り返した。司馬さんはそんな俺の手を力強く握り返したまま起き上がらせてくれた。どこまでも熱く力強い手だった。
「まずは恐怖を知ったな。ならばお前のやることはなんだ」
「…スキルに頼るのでなく基礎体力を身に着けた戦い方を身につけることです」
「正解だ」
そう言って司馬さんは悪戯っぽい表情で笑みを浮かべた。どれだけ厳しい訓練であろうとこの人についていこう。俺は心の中でそう決意した。
◆◇◆◇◆◇
前言撤回。今すぐにこの訓練をやめてくれ。俺は先ほどの誓いを心から後悔していた。それほどまでに司馬さんが組んだトレーニングメニューは恐ろしいものだったからだ。
言ってしまえば地獄すら生ぬるい。腕立てから始まって腹筋、背筋、スクワットと休む暇もなく筋肉トレーニングをするように命令された。それだけならば普通だろうと思うかもしれないが、恐ろしいのは回数の上限設定がされていないという事だった。全く体が動かなくなるまで、いや、体が動かなくなっても一連の動作を繰り返される。幾ら無理だと訴えても司馬さんは全く手心を加えなかった。
筋肉痛で本当に動けないから無理だというと司馬さんはインフィニティに俺をすぐに眠らせるように指示した。【瞬眠スキル】によって筋肉痛を回復させるためだ。司馬さんも鬼だったが、インフィニティも容赦がなかった。俺を眠らせるために強力な電流を俺の体に流し込んだのだ。眠るというよりは気絶に近い。強制的に意識を消失させられた後で再度覚醒のための電気が流される。
その時になってはじめて俺は鑑定スキルの辞書に『容赦』という言葉が存在していないことを知った。
消耗した体力と疲労は【瞬眠】スキルの回復効果によって回復する。だがその後に待っているのは更なる筋肉トレーニングの無限地獄だ。司馬さんは怒ることも怒鳴ることもなかった。ただ淡々と筋トレを続けるように命令するだけだ。
幾ら泣き言を言っても聞いてもらえないことを悟った俺は次第に機械の如く文句を言うことなく淡々と訓練を続けるようになった。その方が体力の消費が少ないからだ。司馬さんの瞳の奥には真っ暗な闇が広がっているようにしか見えなかった。
結局その日の深夜まで行われたトレーニングの後遺症によって俺は暫く不眠症に悩まされることになった。




