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走り出した車に普通の人間が追いつけるはずがない。ましてや100kgを超えた肥満男が追いかけられるようなスピードではない。だが、俺は汗だくになりながらも走り続けた。理由は簡単だ。人払いの結界の魔力の影響を受けなかった唯一の目撃者である俺が見て見ぬふりをすれば彼女を見捨てることになるからだ。そんな俺にインフィニティが語り掛けてくる。
「何故あの車を追いかけるのですか」
「決まってるだろう!あの子を助けるためだ。当たり前のことを聞くんじゃない」
インフィニティの口調は俺の行動を咎めるようなものであった。悪いが、この非常時に構っている余裕はない。苛立ちを露わにする俺に鑑定スキルは明確な口調で問いかけてきた。
『理解できません。先ほどの少女はマスターに失礼な態度を取りました。客観的な視点で見ても到底許容できるものではありませんでした。そんな相手でも貴方は助けるのですか』
インフィニティの問いかけは熱くなった俺の感情に水を差すものだった。何故あの車を追いかけるのか。確かにあの女はいけ好かないと思ったし、今でもムカついていることは確かだ。だが、だからといって彼女を助けない理由には繋がらない。そう思った俺は走りながら叫んだ。
「それとこれとは話が別だ!」
車と俺の距離が離されていく。到底追いつけるものではなかった。仕方がない。俺は走りながら掌に魔力を集中させた。集中した魔力が火球へと変化すると同時に俺はそれを放った。だが、直撃した瞬間にかき消される。どういうことだ。
『ターゲットの車には何らかの魔法防御が施されているようです』
「インフィニティ、お前は万能だろ、何でもいいからこの状況で役立てるスキルを発動してくれ」
『承服しかねる命令です』
「なんでだよ」
『彼女を助けることを私自身が納得できていないからです。今一度答えてください。何故、彼女を助けるのですか』
走る限界だったのか、インフィニティの言葉に気を取られたのがいけなかったのか。俺は足をもつれさせて派手に転んだ。転がるようにして道に投げ出された俺の目の前で車が遠のいていく。立ち上がろうとした。膝ががくがく震える。だが、俺は諦めなかった。
「…俺はさ。今までずっと自分の殻に籠って現実から目を背けて楽な方へ逃げてきた。結果がこんな無様な豚男だ」
そうだ。俺は引きこもっていた頃の情けない自分が大嫌いだった。だが、シェーラを元の世界に帰すと決めて行動することで俺は変わり始めることができた。傍から見れば見苦しくあがく豚に過ぎないかもしれない。だが、今の自分のことを俺は嫌いではなかった。
「目の前で起きる理不尽に目を瞑り続けた。じっと耳を塞いで我慢すれば通り過ぎていくと思っていたんだ。だが、現実はどうだ。無駄に時を浪費して、無様な姿のままで腐っていくだけだ」
俺はそんな自分が嫌いだった。変わりたいと心の底では渇望しながらも手遅れだと諦めていた。シェーラやインフィニティとの出逢いはそんな情けない自分と決別するきっかけとなったのだ。
以前の俺ならばあの子に馬鹿にされたから見捨てるという選択肢を平気で選んだだろう。だが、今の俺はそんな情けない選択をする自分に戻りたくはなかった。
「あの子を見捨てることは簡単だ。だが、そんな自分をずっと悔やむのはごめんなんだ!!」
そう叫んだ瞬間、俺の体の中に何か熱いものが灯った気がした。俺の答えに感情がないはずのインフィニティさんが少し笑ったように感じた。何となく理解した。こいつは命令に従わないことで俺の本心を引き出して試したのだ。
『それでこそ私のマスターです。自己開示してくれたマスターにささやかな贈り物です。鈍足スキルはすでに克服できていますよ』
俺の頭の中にインフィニティさんの声によるマイナススキル克服のアナウンスが流れる。
『経験値の蓄積により【鈍足】スキルは限界突破しました。マイナススキルの克服により【鈍足】スキルは消失。新たに【神速】スキルの封印を解除。次に【二回行動】【思考加速】【地形効果無視】【オーバードライブ】【クロックアップ】を習得しました』
インフィニティさんのアナウンスを開始の合図にして俺は全力で走りながら新たな力を開放した。荒れ狂う力の奔流が全身を駆け巡る。周囲の光景がスローモーションのようにゆっくりと感じられる中、俺は全力で走り出した。
◆◇◆◇◆◇
少女を攫った車の中には運転手を含めて数人の柄の悪い男たちが乗っていた。後ろの座席では連れ去られた先ほどの少女が猿轡をされて寝かされていた。意識はあるものの手足を縛られて自由がない状況のようである。
「兄貴、本当にこの女をさらって良かったんですかね」
「いいんだよ、貴重なレアスキルの持ち主だ。献上すれば組織内での俺たちの地位も上がるってもんよ」
そう言って運転席で嗤うスキンヘッドの男の座席の外側からおかしな音がした。まるでドアをノックするようなコンコンという音だった。石でもぶつかったのか。そう思った男は窓ガラスを見て凍りついた。
窓の外から太った男が困ったような顔でこちらを覗いていたからだ。
冗談言うな、今何キロ出していると思っている。そう思ってタコメーターを見ると100km近いスピードで走っている。そんなスピードについてこれる人間などいる訳がない。男の焦りも気に留めることもなく太った男はしばし思案した後に何か口をパクパクと開いた。身振り手振りから察するに車を止めろと言っているようである。
「ふざけんなっ!」
激高したスキンヘッドは男とガードレールを挟むように車を寄せた。車の側面がガードレールに接触すると同時に男の姿は見えなくなった。ざまあみろ。そう思った瞬間、フロントガラスの上から太った男が逆さまになった状態で顔を出した。ちょっとしたホラーであった。太った男は口をパクパクさせていた。
『く・る・ま・を・と・め・ろ』
どうやらそう言っているようだった。だからと言って「はい、分かりました」と止めるわけがなかった。
なおもスピードが緩むことがない車を眺めながら太った男はしばし思案した後に顔を引っ込めた。
「おい、上にいるやつを撃て!!」
苛立ったスキンヘッドが仲間に命じる。だが、男たちが懐から銃を取り出す前に不思議なことが起こった。突如として目の前の風景が切り替わり、少し先が断崖絶壁になったのだ。このままでは崖に落ちる。慌てて急ブレーキをかけて車が急停止する。
一体なんだ、何が起きた。敵対組織の魔法使いからの攻撃か。そう思ったスキンヘッドは青ざめながら懐から銃を取り出すと外に出ようとした。
だが、ドアを開けて外に出ようとした次の瞬間にドアが思い切り外側から蹴り倒された。思い切り足を挟んでしまった激痛でスキンヘッドは叫びを上げる。あのデブ、殺してやる。怒り狂ったスキンヘッドは外に出ようとした。瞬間、見えない何かに思い切り突進されて意識を失った。勿論のことながら攻撃を加えたのは晴彦であった。
◆◇◆◇◆◇
危ないなあ、拳銃なんて持ち出すなんて。
バイオレンス映画じゃないんだから勘弁してほしい。こちらは音速の勢いで走るようになっただけで無害な豚さんですよ。恐怖のあまりに思い切り体当たりしてしまったじゃないか。まだ【神速】を覚えたばかりで加減できないんだから勘弁してほしい。
そう思いながらスキンヘッドが意識を失っていることを再度確認した。何度やっても荒事というのは恐ろしいものだ。できることなら話し合いで解決したい。そんな俺の気持ちなどまるで無視して少女を攫った男たちが思い思いの武器を手に車から降りてくる。明らかに銃刀法違反の奴だ。
やめて、勘弁してくれ。そう思いながら俺は新たに習得したスキルを使って距離を取った。一瞬にして男たちと俺の距離が大きく離される。驚いたのは男たちだ。それはそうだろう。一瞬にして俺が姿を消したかと思えば100mくらいは離れた位置に現れたのだ。逃げたわけではない。その証拠に俺は助走をつけると同時に思い切り男の一人目がけて走った。
男たちは迫りくる俺に向けて容赦なく銃を撃ってきた。だが、高速で動く俺の視界には止まっているようにしか見えない。自覚はないのだが、どうやら神速以外のスキルが発動しているようだ。戯れに指で弾くと力なく地面に落ちた。こんなもので人が殺せるのか疑問に思ってしまうほど他愛無いものだった。
銃弾の雨をゆっくりと掻い潜りながら確実に俺は男たちをぶちのめせる間合いまで近づいた後に一直線に体当たりをかました。神速がかかった俺の全体重をかけた体当たりは車の正面追突くらいの威力はあったのかもしれない。一人だけ倒そうとした俺の予想を裏切って男たちはボーリングのピンのように大きくふっ飛ばされて動かなくなった。呻き声があちこちに聞こえる中で俺は思った。
しまった、またやりすぎたああ!
そんな俺の後悔をあざ笑うかのようにパトカーのサイレンの音が遠くから響いてきた。