第二十一話-8
織田信長という男がいた。尾張の守護代である織田家に生まれた彼は父親の死をきっかけに家督争いの混乱を収めて戦国武将となった男である。桶狭間の戦いで強大な力を持っていた今川義元を破った後に領土を拡大していき、上洛するために将軍を奉じて中央政権を確立した。だが、天下統一を目の前にしながら彼は配下の武将である明智光秀に謀反を起こされた。
天正10年6月8日。炎上する本能寺の中で織田信長は自刃して果てたと言われている。だが、肉体は滅んでも彼の魂は昇天することができなかった。天下統一の夢を目の前にして現世に未練を残した魂は様々な世界を巡り、さ迷い続けた。
長き時の果てにその魂は瘴気の塊の一部となり、瘴気溜まりの淀みの中で微睡み続けたのである。彼にとって幸運であったのは自らの一部となっていた瘴気を藤堂晴彦が吸収したことで明確な自我を復活させられたことである。それが果たして藤堂晴彦にとって吉となるか凶となるかはまだこの時には分からなかった。
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舞台はシュタリオン城の地下に戻る。インフィニティと晴彦は昇降機から出て地下の工房に戻った。地下を覆うほどであった瘴気溜まりは綺麗さっぱりと消失していた。傍らにいる自分の主が全てを吸収したという事だろう。インフィニティは変貌した自らの主を見つめながらも状況を整理していた。
一方、晴彦の肉体の中にいる何者かは、そんなことは気にもせずに自らの周囲を覆う瘴気を操って瘴気で出来た外套を纏っていた。背中には大きく『天下布武 第六天魔王 仏敵上等 世露死苦!!』と書かれていた。
(第六天魔王。検索条件にヒット。マスターの中にいるのが織田信長だというのですか。何故異世界であるディーファスで信長が顕現したのかが分かりません)
「女、何を見ている。不遜だろうが」
晴彦の姿をした何者かはそう言った後に瘴気を開放した。凄まじい風圧と共に解放された瘴気は並みの人間であれば触れただけで正気を失うほどの狂気の波動ではあったが、晴彦と同様に瘴気を乗り越えたインフィニティには効かなかった。その姿を見て晴彦もどきは方眉をあげた。
「ほう、我の瘴気に耐えるとはな。ただの女ではないと見える」
「私を只の女と侮らないことです。織田信長」
「ほう、我を知っているとはな」
自分の名前を呼ばれて晴彦もどきは「くくく」と笑った。実に邪悪な笑みであった。そんな彼を見据えながらインフィニティは問いかけた。
「本能寺で果てたはずの貴方がこの世界で何をするというのです」
「知れたこと。現世で果たせなかった天下取りの続きをするだけよ」
そう言った瞬間、晴彦もどきは自らの力の鱗片を開放した。周囲に漂っていた瘴気の中から霊体の武将や足軽の軍勢が現れる。それはかつて信長に仕えていた配下の軍勢と同様の姿をした者たちだった。肉体を持たぬ死者の軍勢。得体の知れない存在だ。その潜在能力を察してインフィニティは冷や汗をかいた。信長は自分の軍勢を眺めて満足そうに笑った。
その時だった。突然に頭を押さえながら信長は片膝をついた。何かに苦しんでいる様子だった。力のコントロールができなくなったのか、瘴気で出来た軍勢が元の瘴気に戻って霧散する。
「ぬう、まだ死んでおらんのか。しぶとい奴よ」
信長が口惜しそうにそう言うと、晴彦を中心にして噴き出していた瘴気が収まり始める。そして晴彦の瞳が赤色から元の色に戻る。同時に瘴気も彼の体の中に引っ込んでいった。自分の主が意識を取り戻したことにインフィニティは安堵した。
「マスター、よかった。元に戻ったのですね」
「心配かけてごめん。お前のおかげで無事に瘴気を乗り越えられたよ。とんでもないおまけつきだったけど」
身体の主導権を握るために体力を消費しているのか、晴彦はその場でふらついた。それを慌ててインフィニティが支える。ホッとしたのか、彼女は目に涙を浮かべている。そんなインフィニティの頭を晴彦はわしわしと撫でたのであった。
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酷い目に遭った。瘴気を体に取り込んできたせいでその中に紛れ込んでいた信長を蘇らせるとは思わなかった。意識を失っている間に体を乗っ取られていたようだし、今後も同様のことが起きる可能性がある。早いうちに何とかする必要がある。
だが俺自身は信長のことがそこまで嫌いではない。というのも歴史の中で信長という男は敵対する宗教などには容赦がなく「第六天魔王」と恐れられはしたものの、配下の武将をその出自で取り立てるのでなく、能力や手柄で評価した男だからだ。交易を盛んにするために関税を撤廃した楽市楽座を自分の納める領土に導入した経済的な手腕や早くから鉄砲の量産に目をつけて武田の騎馬隊を退けた実績もある。
もっとも重臣であった明智光秀に謀反を起こされて死んでしまったあたり、効率を重視するあまりに人心掌握は上手くいっていなかったようだ。
思想には問題があるかもしれないが能力としては非常に魅力的な存在だ。敵に回して押さえつけるのでなく、協力を仰げないか交渉してみたいと思う。今は呼び掛けても眠りについているようで返答がないため、今後の課題として設定しておきたい。
さて、瘴気のコントロールには成功したものの、疲れ果ててしまった。非常に眠い。そう思った俺はインフィニティに付き添われながらシュタリオン城にある自分の寝室に向かったのだった。
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その日の夜。空には不気味なまでに紅い満月が浮かんでいた。ディーファスでは紅い満月が現れる時は魔物が活性化すると言われている。そのため、よほどのことがない限りは人々が街の外に出ることはない。
自室で赤い月を眺めていたシェーラはふいに何かの叫びを聞いた気がした。雄たけびのような声だった。その叫びが晴彦のものに聞こえたような気がして彼女はランタンを手に廊下に出た。暗がりをランタンで照らしながら晴彦の部屋に辿り着くと彼女はドアをノックした。だが、返事がない。
「ハル、開けますよ」
そう言ってドアをノックしたシェーラは絶句した。ベッドに晴彦の姿がなかったからだ。大きく開かれた窓から風が差し込んでカーテンがなびいている。窓から出ていったのだろう。
あんな体でどこにいったというのか。寝込んでいる理由をインフィニティから聞いていたため、体力が戻るまでは元気に動き回るとは思っていなかったのだ。眼を離したことが仇となったことを彼女は後悔したのだった。
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シュタリオン近郊にあるテムトの街は炭鉱によって栄えてきた場所である。だが、ある時に掘り当てた鉱脈から噴き出した瘴気によって人が住めない場所になってしまった。今では当時の名残を残す廃墟と化していた。そんな街の端にある小屋には当時の生き残りである壮年の男が住んでいた。多くの人間が瘴気の影響で街を去る中で、生まれ育った街を捨てることができなかった人間である。彼は小屋の中のストーブで暖を取りながら外の様子を伺った。今日は赤い満月の夜。魔物が活性化する日だ。こんな日は絶対に外に出てはならない。
だが、野生のモンスターが狂暴化しようとも街に近づくことはない。瘴気の影響を恐れているからだ。モンスターですら恐れる瘴気の側で何故暮らすのか。いつか瘴気が晴れる日を夢見ているからに他ならない。瘴気がなければこの街は元の活気を取り戻す。男はそう信じていた。
男は物思いに浸りながら弱くなった薪ストーブの火力を強めるために薪を入れた。そんな矢先、窓の風が強くなった気がした。遠くの方から馬の嘶きと何者かの笑い声が木霊しているように聞こえる。恐らくは幻聴だ。確認のために外に出ては瘴気にやられる可能性がある。
そう思って外に出ないように心に決めた男だったが、やはり何者かの笑い声が聞こえてくる気がする。気のせいではない。男は覚悟を決めて確認に行くことにした。
腰には護身用のショートソード、そしてもう片方の手には携帯用のランタンを持つと男は外に出た。そして街の方に向かった男は恐ろしいものを見た。
濃密な瘴気の中で一人の人影が高笑いを浮かべながら小躍りしているのだ。
「あははははははは!!!!うま————————————っ!瘴気うま————————————っ!!!」
男の耳がおかしくなっていなければ瘴気の中で人影はそう叫んでいる。正気の沙汰ではない。瘴気に呑まれて狂っているのか。助けた方がいいのではないかと思いもしたものの、瘴気の中に入れば数秒持たずに肺をやられて命を落とす。そう。そのはずだ。ならば何故あの人影は瘴気の中で動いていられるのか。
おとぎ話で聞く魔人の存在を思い出して男は戦慄した。戦慄はしたが、人影から目を離せなかった。そのうちに恐ろしいことが起こり始めた。人影の周囲に纏わりついていた瘴気が人影の中に凄まじい勢いで吸い込まれていくのだ。見る間に人影を中心とした瘴気の嵐が吹き荒れる。その瘴気を人影は喰らっている。周囲を真っ黒に覆う忌まわしい瘴気を人影は食らっている。男は呆然としながらそれを見つめていた。自分は夢を見ているのだ。そう思って頬をつねるものの夢から覚めることはなかった。
やがてテムトの街を覆う瘴気の黒雲が晴れた後に男はようやく人影が何者であったかを見ることができた。それは黒髪の青年であった。どこかで見たような顔をしている。両の瞳に爛々と光る赤い目が印象的な青年であった。
青年は最後に「ごちそうさまでしたっ!」と手を合わせると空に向かって飛翔していった。
後に残るのはすっかり瘴気がなくなった廃墟の姿があるだけである。男はそれを見た後に声を押し殺して歓喜の涙を流した。




