第二十一話-7
スレイプニルは瀕死の重傷を負った俺とインフィニティを乗せながら大空を疾走していく。掠れゆく視界から見えるのは次々と雲が変わっていく様子だった。駆け抜けながらもスレイプニルは一声悲しげに嘶いた。
「マスターに死なないでと言っています」
俺を連れてきたことに責任を感じているのかもしれない。本当にいい馬だ。元気になったら沢山の餌を与えてブラッシングしてやろう。元気になれればだが。
「見えてきました、シュタリオン城です!!」
インフィニティが俺に向かって叫ぶ。彼女も必死なのだろう。最初は人間の感情の機微が分からずに問題を起こしてきた彼女は俺達と接することで人間の感情というものを理解した。もはや単なるプログラムでなく、人間と同等の感情を持った存在といってもいい。彼女が流している涙は作られた感情ではなく、彼女自身の心に反応している涙に違いない。
インフィニティは城の中に入れない大きさのスレイプニルから俺を降ろして背負うと城の地下に繋がる昇降機に向けて駆けだした。駆けながらも何度も彼女は俺の意識が途切れないように声をかけてくれた。その甲斐あってか、城の地下にたどり着くまでは俺はなんとか意識を保つことができた。だが、問題はここからだ。城の地下にある工房の奥深くにある、さらに地下に繋がる昇降機。あそこはガスのように瘴気溜まりが溜まっており、インフィニティすら狂わせる危険な空間だ。ゆえに封印した場所であり、俺自身が足を踏み入れたくない場所だった。こんなことにならなければ一生踏み入れない場所だっただろう。
「本当に行くつもりなんですか」
「…この傷だ。このまま手をこまねいていても長くないだろう。イチかバチか、俺が死ぬのが先か、弱点の克服が先か試すしかないだろう」
心配そうに俺を見ているインフィニティに対して俺は答えた。自殺願望などはないが、絶対に助かるという確信もない。瘴気によって更に傷口が悪化して死を早める可能性だってあるのだ。
「さあ、分かったら瘴気溜まりに向かう昇降機に乗せてくれ」
「分かりました」
インフィニティは俺の言葉に同意した後に封印した昇降機の鎖を引きちぎると昇降機の中に俺を中に入れた。だが、ここで予想外の事態が発生した。インフィニティも昇降機に乗ろうとしているのだ。
「馬鹿っ!何してるんだ、お前は降りろ」
「その命令は承服しかねます。私はマスターのために作られた鑑定スキルです。マスターとは一心同体です。ならばマスターが命を懸ける時は私も一緒にいるのが当然でしょう」
インフィニティの目は真剣そのものだった。覚悟はできている。そんな眼差しで俺の目を真っすぐに見返した。こういう表情をした時の説得が容易ではないことを俺はよく理解していた。暫し見つめ合った後に根負けした俺はインフィニティを説得することを諦めた。
「分かった。好きにしろ」
「はい、好きにします」
「だが、必ず生きて帰るぞ」
「当たり前です。マスターの冒険はこんなところで終わるものではありませんから」
死にかけているのにインフィニティの言葉を聞いていると死なずに済むのではないかと思えるのだから不思議だ。彼女は俺を昇降機の床に横たわらせると昇降用のレバーを引いた。昇降機がゆっくりと降り始める。次第に降りていくにつれて周囲の瘴気が徐々に強まっていくのが見て取れた。瘴気は黒い霧のようになっており、それが昇降機の隙間から染み出すように入り込んで来るのを目視することができた。
入り込んできた瘴気に反応するように傷口が疼く。傷口に纏わりついていた瘴気が活性化しだしたのだ。再度広がった傷口から噴き出した少量の出血に苦悶の表情を浮かべる俺に対してインフィニティが無言で頷きながら手を握ってきた。彼女も正気を失わないように必死なのか、脂汗を浮かべている様子が分かった。だが、降り続ける昇降機から染み出す瘴気は容赦なく俺とインフィニティを蝕んだ。到底抗えるものではない。このままでは弱点の克服する前に死んでしまう。
待てよ、抗うから苦しいのか。仮に瘴気を受け入れて自分の力に変えたならばこの逆境を乗り越えることができるのではないか。頭の中の浮かんだ仮説をインフィニティに伝えると彼女は苦悶の表情を浮かべながらも苦笑いした。
「相変わらずとんでもないことを考えますね。普通はこんな邪悪なものを自分から受け入れようとしませんよ」
「抗うから苦しいのならば、受け入れるだけだ。瘴気を力として受け入れるスキルを作り出すことは可能か」
「試算しました。いくつかのスキルを組み合わせて派生させれば可能です。ただし、人間を大きく逸脱する可能性があります」
「…このままでは死ぬだけだ。やってくれ」
「分かりました。スキル編成、合成、試算………新しいスキルを合成しました。【瘴気吸収】スキルを発動します」
【システムアラート。警告します。このスキルは人間を逸脱する可能性が大です。本当に使用しますか。 はい/いいえ】
目の前にメニュー画面のような警告文が現れたが、俺は迷うことなく『はい』を選んだ。
揺らぐことのない俺の決断にインフィニティも覚悟を決めたようだ。スキルが発動した瞬間に俺の体がものすごい勢いで瘴気を吸い込みだした。今まで味わったことのない気持ち悪さに脳が揺さぶられるようだった。例えるならば船酔いを味わっている状況で絶え間なく酒を押し込まれるような気分の悪さだ。頭の中に嵐が吹き荒れている。喉元から込み上げてくる異物感を必死に堪えるが、本当に気が狂いそうだった。
俺一人ならば音を上げてしまう状況だった。だが、傍らで必死に耐えているインフィニティを見ると狂う訳にはいかなかった。
「くそったれええええええええ!!!てめえなんかに負けるかよおおおおおおおおおお!!!!!」
俺は入り込んでくる瘴気に負けないように大声を出して立ち上がった。だが、その瞬間に全身から血が霧のように噴き出して仰向けに倒れた。
◇◆◇◆◇◆◇
瘴気に包まれた昇降機の中は闇に包まれていた。先ほどまで意識を保っていた晴彦もインフィニティも気を失って倒れていた。残念ながら【瘴気吸収】によって吸い上げた瘴気に耐え切れなかったようである。そんな彼らに対して瘴気は生き物のように群がっていく。このまま、瘴気に侵されて彼らは死を迎えようとしているかに見えた。藤堂晴彦の脈動は今にも消えそうになっていた。
だが、今にも消え入りそうだった晴彦の心臓の鼓動は徐々に強まり始める。
…ドクン。
ドクン…ドクン。
ドクンッ!ドクンッ!ドクンッ!
徐々に強まっていく心臓の鼓動と共に瘴気が再び晴彦の体に吸い込まれていく。そして瘴気たちは晴彦の体の中で彼が生きるための生命力へと変換されていく。もはや彼の身体は普通の人間のものとはかけ離れた魔神に近いものに生まれ変わりつつあった。
魔族ですら、瘴気を纏うことはできても、その身に宿すことはできない。だが、晴彦の身体は瘴気を取り込んで力に変えていく。そう言った意味ですでに晴彦は魔族を超越した存在と言えた。奇しくも彼は瘴気を取り込むことで魔族が崇める魔界の神々と同等の存在となりつつあったのである。
意識を失っていた晴彦の指先がピクリと震える。そして彼の目がカッと見開いた。真っ赤に染まる瞳は尋常ならざる存在に変貌した藤堂晴彦を象徴するかのようであった。彼は瀕死の状態が嘘のように起き上がると立ち上がった。全身についていた傷が瘴気を纏うことによって塞がっていく。瘴気が怪我を直す手助けをしているかのような動きだった。
「ついに…ついに我は現身を得た。肉体を失って400年余り。長きに渡って様々な世界を迷い続けてきた旅の果てにかような強靭な肉体を得るとはな」
晴彦はそう言って自分の両手を見つめながら歓喜に打ち震えた。その口調も仕草も今までの藤堂晴彦のものとは全く違うものだった。全くの別人が乗り移ったかのようだった。
晴彦の声に反応して意識を失っていたインフィニティが目覚める。彼女は意識を取り戻すなり、自分の主が元気に立ち上がっていることに気づいて跳ね起きる。
「マスター、ご無事だったのですね」
「ますたあ?一体貴様は誰のことを言っているのだ」
「ど、どうされたのですか。マスター」
「ますたあではないと言っておろうが。我にはれっきとした名前がある。まあ、存命の頃は下々のものに第六天魔王と呼ばれて恐れられていたがな」
そう言って晴彦に乗り移った何者かは邪悪そのものの表情でインフィニティを見下ろした。




