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カーテンを閉め切った薄暗い部屋の中で俺は雀の囀る声を聞きながら世界を呪った。また朝が来た。俺の嫌う時間がやって来たのだ。
俺の名は藤堂晴彦。今年で32歳になる。現在、10年近くになる引きこもり生活を更新中である。部屋に籠りきる不摂生な生活をずっと続けてきた。運動不足とコンビニ食の過食が祟って豚のような体格になってしまった。引きこもり前は70kgだったはずなのに現在の体重は126kgにも増えている。
今の俺を人間以外で例えれば間違いなく豚である。
このような惨めな姿をさらしているが、学生時代からこんな身体をしていた訳ではない。記憶も曖昧ではあるが、あの頃の俺は少し太めではあるが、明るく社交的な人間だった。周囲からはハルと呼ばれて、友達の数は少ないなりに仲良くしていたと思う。だけど今の俺を知る当時の人間は現在の俺を「ハル」などとは呼ばない。別の呼び名で俺を罵るのだ。
ニートの豚野郎。
現在の俺を罵るときに彼らが使うあだ名である。とても嫌なあだ名だが、特徴を良く表していると思う。そう呼ばれて馬鹿にされるのが嫌になって益々引きこもったわけだ。自分でも良くないことは分かっていたが、ズルズルとぬるま湯に浸ったままで30歳を過ぎてしまった。
そんな俺が活動しているのは主に夜だ。日中は寝ていることが多い。深い理由はない。朝と夜の境目があいまいになった生活を続けていくうちに深夜を中心とした生活に切り替わっていただけだ。
本来であれば朝が来たら眠くなるので寝るだけなのだが、今の俺は睡眠時間を削ってでも見たいものがあった。最近気に入っている無料動画のアニメ動画である。
ディスプレイの向こうにはフリルのスカートがよく似合う魔法少女がキラキラした瞳をしながら夢や希望を語っていた。典型的な勧善懲悪の物語だ。現実はこんなに甘くないことを自分自身が一番よく理解している。だが、見るのをやめることができなかった。
次回予告の後に真っ暗になった画面にはブクブクに太った化け物の顔が映し出されていた。俺は悲鳴を上げた後にそれが自分の顔であることを認識して軽く絶望した。
朝なんか大嫌いだ。早く夜が来てほしい。自分の醜い姿を隠すにはぴったりだからだ。胡坐をかきながら座る回転椅子は俺が貧乏ゆすりをするたびに自重でギシギシときしんでいる。
でっぷりと脂肪の乗った腹がぐるるるる…と空腹を主張してきた。ああ、腹が減った。仕方がないと思いながら俺は台所に向かうべく席を立った。確か賞味期限が大分過ぎたおはぎが冷蔵庫の中にあったはずだ。若干カビが生えていたかもしれないが腹さえ壊さなければ構わない。
台所に向かう通路の足元には食い終わったコンビニ弁当の残骸や読み終えた漫画雑誌、脱ぎ散らかした洋服やビールやペットボトルや空き缶が散乱していた。まともな神経ならば掃除をしようという気にもなるのだが、今の俺にはどうでもよかった。冷蔵庫へ向かうゴミ山を掻き分けながら歩いていくと何かに足を取られて床に転んだ。腹が立って自分の足を取ったものを持ち上げて見るとよれよれのリクルートスーツが出てきた。ゴミの中に紛れた忌まわしいものを見た俺はスーツを壁に投げつけた。思い出したくない忌まわしい記憶の産物だ。
『わが社には貴方のような人材は相応しくありません。せめてもっと痩せて真面な身だしなみに整えてから出直してはいかがですか。ああ、そうそう、そのドモり口調もいただけない。失礼ですが、豚がブヒブヒ言っているようにしか聞こえませんでしたよ』
採用面接時の面接官の言葉と同じ部屋にいた面接希望者の嘲笑が頭の中に鮮やかに蘇ってくる。もう十年近く前の事だというのに今でもつい最近のことのように思える。あの忌まわしい出来事のせいで俺は部屋から出られなくなった。外に出るといろんな人間に自分が嗤われているような強迫観念にとらわれるのだ。外に出るのは苦痛以外の何物でもなかった。
外に出るのが怖くなった俺は就職を断念した。それでも無理をして大学を卒業してからはアパートの中に引きこもった。心を病んでいたのだと思う。幸いなことに資産家の親が仕送りを止めないでくれたおかげで今日までのうのうと暮らしてこれた。
だが、人に会うのは心の底から怖かった。だから日中の外出することは避けた。腹が減った時だけは近くのコンビニに行くために外に出た。それでも人のいない深夜を狙って外出する。そんな俺に夜の闇は最適だった。夜はいい。こんな情けない自分のことを包み隠してくれる。
冷蔵庫に入れていた大福は残念ながらお亡くなりになっていた。あずきが外側にあるはずなのに真っ白な白カビに覆われたその姿は流石の俺でも食べることを躊躇させるものだった。視覚に訴えかけるものというのは厳しいものがある。
「…仕方ない。コンビニ行くか」
正直行きたくないだが、空になった胃袋は主人の想いなどまるで無視して虎の唸り声のような音をあげている。早く飯を寄越せとでもいっているのだろう。俺はため息をつきながらパーカーを羽織るとフードを深々と下ろした。万が一に誰かに会っても視線を避けることができるからだ。
溜息交じりにドアノブを開けて外に出た。白みがかっている外の空は明るくなり始めており、それだけで俺の気持ちを萎えさせた。
◆◇◆◇◆◇
コンビニで買い物を終えた俺は外に出て帰路についた。
かすかな猫の鳴き声を耳にしたのは、ちょうどその時だった。ふと辺りを見渡してみると四車線ある道路の真ん中あたりに一匹の猫が横たわっていた。おそらくは道路を横断しようとして轢かれたのだろう。傍らには一匹の子猫が親猫にすり寄って悲しそうに鳴いていた。早朝とはいえ車通りの多い道路だ。そのまま居れば子猫も轢かれるだろう。
異世界テンプレものによくある展開ならば子猫を助けようとして轢かれて異世界転生するというような展開なのだろうが、あいにくとそんな面白い展開が現実に起こるはずもない。可哀そうだが見捨てるのが一番だ。理性ではそう思いながらも子猫の必死の鳴き声は妙に俺の耳元から離れなかった。足早にその場から立ち去ろうとも考えたのだが、俺の足は自分の思うようには動かずに立ち止まってしまった。俺は自分に自問自答した。
何をしようとしている。あの子猫を助けようとでもいうのか。やめろ、やめろ。そんなことをして轢かれるリスクを払う必要がどこにあるというのだ。そんなことをして誰が褒めてくれるわけでもあるまい。そう思いながらも体は自然と子猫の下に走っていた。
たどり着いた矢先に彼方から猛スピードでトラックが走ってきた。子猫に気づいて減速する様子もない。反射的に俺は子猫のもとに走った。親猫の側にいた子猫を抱きかかえると夢中でその場から走り去ろうとした。だが、そんな俺に無情にもトラックのヘッドライトが迫った。眩しいと思った次の瞬間に頭と腹を思い切り殴られるような衝撃を感じた。かすれかけた視界の端にコンビニで買った食料を入れた買い物袋がゆっくりと宙に舞う姿が見えた。
死ぬんじゃないのかな。朦朧とする意識の中で俺の頭の中に場違いなファンファーレが鳴り響いた後に陽気な音楽が始まった。同時に何者かの声が響き渡った。
【おめでとうございます!名もなき豚【世界重要度E】による英雄的行動が認められました。勇者検索条件にヒット。速やかに異世界ディーファスに召喚されます。召喚シークエンスを実行。ERROR。再度実行。ERROR。再度実行。ERROR。再度実行…………不安定なアクセスに成功。成功率は半減ですが、これより転移を行います。この世界のご利用ありがとうございました。担当はあなたのお耳の恋人、地球神アイリスでした】
ちょっと待て。このまま怪我をして転生という展開じゃなくて怪我したまま異世界転移させる奴なの。どれだけ鬼なんだ、地球の神。能天気にアナウンスしてんじゃねえ。頭部からダクダクと流れるあたたかいものを感じて死を身近に感じながら俺は意識を失った。
◆◇◆◇◆◇
トラックに轢かれた男は忽然とその場から姿を消した。まるで煙のように消失したのである。人を轢いたと思ったトラックの運転手は青ざめながら運転席から出てきたものの、轢いたはずの人間の姿が見えないことに首を傾げた。確かに手ごたえを感じたはずだ。それに道路には轢いた証拠である血の跡とコンビニの買い物袋の中身が散乱している。
その近くには行き場を失った子猫が悲しそうに鳴いていた。怖くなったトラック運転手は慌ててトラックに乗るとその場から逃げようと試みた。その行く手には子猫がいたが、一刻も早くその場から立ち去りたいと考えていた運転手はなりふり構わずにアクセルを踏み込んだ。
だが、いくら走り出そうとしても一向にトラックはその場から走り出すことはなかった。エンジンは確実にかかっている。だが、タイヤが空回りしているかのようだった。気のせいか何かに持ち上げられているような感覚がある。
「全く。ひき逃げは罪が重いって知ってるのかね」
両手でトラックを持ち上げながら嘆くようにして壮年の男は呟いた。人間離れした凄まじい筋力をしていた。その傍らではビジネススーツ姿の若い女が苦笑いしていた。赤毛ぎみのショートカットの凛とした魅力を持った若い女だった。意志の強そうな眉と瞳が特徴的である。
「司馬さん、周辺住民に目撃される可能性があります。もう少し自重してください」
「分かった分かった。分かったからワンコ、こいつが逃げないようにタイヤの空気を抜いてくれ」
「わかりました」
男の指示に従ってワンコと呼ばれた女は虚空から日本刀を出現させると目に見えない速度で走った。その後に次々にトラックのタイヤが切り裂かれていく。全てが終わった後に女は何事もなかったかのように刀を収めた。
「司馬さん、終わりましたよ」
「あいよ」
女の報告を受けて司馬と呼ばれた男はトラックを乱暴に降ろした。そして運転席から這い出した男の下に近づいて行ってにこやかに笑いかけた。
「分かっているな。ひき逃げの現行犯だ」
「なんなんだ、あんたらは」
「こういうものだ」
そう言って男が取り出したのは警察手帳だった。青ざめる運転手の手を取ると司馬と呼ばれた男は慣れた手つきで手錠をはめた。言い逃れすることができなくなって観念した運転手は項垂れた。
一方、子猫を拾いあげた女は周囲を見渡して溜息をついた。
「また異世界召喚を止められなかった。助けられたのはお前だけか」
ニャーと鳴いた子猫に対してワンコと呼ばれた女は何事かを察した様子だった。
「そうか、お母さんが轢かれたのか。分かった。一緒に埋葬しよう。その後はどうする。行く当てはあるのか」
どうやら子猫と意思の疎通ができている様子である。ワンコの質問に対して子猫は悲しそうにニャーと鳴いた。その返答に涙目になりながらワンコは微笑んだ。
「馬鹿だな。だったらうちに来い。私も家事が得意とは言い難いが、飯くらいは出してやる」
そう言って子猫に対して優しく微笑みかけた。その言葉に子猫は嬉しそうに鳴いた後、彼女の差し出した手を舐めたのだった。




