思索の夕べ
どさっと思い切りよく、制服のままベッドの上に寝転んだ。
暫し天井を見つめていた後、寝返りをうち、枕元の目覚まし時計に目を遣ってみる。
18時44分。
NHK・FMのローカル番組を聴こうと、枕元のラジカセに伸ばしかけた手をふと止めた。
どうせもうすぐニュースが始まる。
うつ伏せのまま私は、疲れたとしみじみ思う。
やけに体がだるい。
疲れているのは体だけではない。
それはむしろ、精神的なものだろう。
今日一日学校で起こった出来事に想いを馳せながら、私は目を閉じる。
浩太郎君───────
言葉にすることすらできないまま、私は胸を締め付けられている。
舞が事の真相を彼にも浦田君にも伝えてくれたらしいが、それでもいったん堕ちていった気分はちょっとやそっとのことでは浮上しそうにもない。
ようやく、例の打ち上げの時の醜態の忌まわしさから脱しかけているところだったというのに。
初めて見た。今日。
浩太郎君のあんな顔……
マジで怒った……
怖かった。
いつも陽気で笑っていて、どこかまだ幼さを残しているベビーフェイスのその彼が、あの時、完全に「男」の顔をしていた。
好きな娘以外とキスするなんて絶対許せないんだろう、彼の場合。
それなのに自分が何をやったのか、彼にはまるで確信できないのだから。
浩太朗君は何も覚えていない。
打ち上げの時の有様を。
そう、あれは打ち上げの翌々日の朝。
二時限目の休み時間、私は美瑠と話していた。
・・・
───────────
「純! 純ってば! あんた、打ち上げの時、ゆうから浩太郎君とったんだって?!」
「えーっ! 美瑠、何で知ってんのよ。打ち合げ出てなかったくせに」
「悪事は千里を走る、てね」
「何が悪事よ、何が」
「でもさあ。絡んだって実際、何やったの? 教えて、教えて」
友達じゃないと、美瑠は私のブラウスの袖を引っ張ってくる。
「別にねえ。ちょっと浩太郎君の腕、掴んで、付き合ってる人いないの? 好きな娘は?!……なあんてね。乱れてしまったわけよ」
「へえ。んで何て言ったの?彼」
「ん…浩太郎君ね。どうやら意中の人、いるみたいよ」
あの時の彼の様子を思い出して、つい声のトーンを落とした私に、美瑠は思いがけないことを言ったのだ。
「ねえ、知ってた? 浩太郎君、打ち上げの途中からなーんにも覚えてないんだって」
「覚えて、ない?」
「そう。だから彼、純に言ったことも全然覚えてないんじゃないの?」
じゃあ、浩太郎君……
思考が混乱している私を前に、美瑠はその言葉を放った。
「よーし、私。カマかけてみる!」
「え、美瑠。何する気?」
「まあ、そこで黙って見てなさいよ」
そう言うと美瑠は、後ろを振り返って浩太郎君の名を呼んだ。
「ねえ、浩太郎君! 打ち上げの時、純に好きな娘の名前、言ったんだってぇ?」
「ええっ! 俺、そんなこと言ったあ?!」
「なあに、その時のことも覚えてないの?」
「うーん……だって俺、途中から何も記憶ないもん」
「純がさあ、酔って浩太郎君に、好きな娘は?って絡んだ時に浩太郎君、はっきり答えたってよ」
よく言う、美瑠! 嘘八百!
けれどあの口ぶり。
真に迫っているあたりさすが。
「えー、俺そんなこと、言うはずないんだけどなあ」
そう言うと、彼は頭を抱えて机に突っ伏した。
どうして?! 浩太郎君。
それって、もしかして……
「……いや!やっぱり俺、そんなこというはずない!」
「どうして? 自分で覚えてないだけなんじゃないの」
「いーや、これ確かなんだ。だって俺、いくら飲んでも好きな娘のことなんか喋ったりしたこと一度もない」
浩太朗君は自信たっぷりにそう答えた。
でも。でも…
ということは。浩太朗君……
「でもそれじゃあやっぱり、好きな娘はいるんだ」
「え、まあ……うん。か、な」
それでもやはり気になったのか、
「神崎さあん! 俺、まさかとは思うけど、フルネームで言ったなんていうこと、ないんだろう?!」
と、浩太朗君が叫ぶ。
その時、三時限目のベルが鳴った。
化学だった。
しかし私は、先生が教室に入ってきて授業が始まっても尚、暫くは教科書も開かずにぎゅっとシャーペンを握り締めていた。
浩太朗君……
やっぱり、好きな娘、いたんだ。
───────────
・・・
時計の針はいつの間にか午後七時を廻っていた。
外は月も出ていない闇夜だった。
やっとベッドから身を起こし、西側の窓のブラインドを閉じた。
脱いだ制服をハンガーに掛け、再びベッドに腰掛ける。
溜息ひとつ。
私、やっぱり浩太朗君のこと好き、なんだ……
今日、あんなことになってみて、今更ながら私は自分の気持ちを認める気になった。
打ち上げの夜、はっきりと思い知らされたはずのことだけど、それでも私は心のどこかでそれを否定しようとしていた。
けれど、結局はただ自分を偽っていただけ。
彌生に対する反発心や、自分の中のコンプレックス。
そして何より、済陵祭が終わってもまだ平常心に戻れない焦燥感から、彼にのめりこんでいく自分の想いを無理矢理抑えていただけだったんだ。
もうひとつ軽い溜息をつくと、ベッドから立ち上がり、部屋の隅のピアノの前に座った。
そして、譜面台には目もくれず、おもむろにキーを叩き始めた。
ショパンの「幻想即興曲」。
ちょっと俗っぽいけれど、何も考えたくない時はこれに限る。
勝手に指の方から動いてくれるから。
それでも、ふとした瞬間、指が止まる。
噴き出し、押し寄せ、雪崩れ込んでくるような思考の渦に巻き込まれ、それ以上は進めない。
最悪のパターン……
学校、行きたくない───────
椅子に背もたれながら、切実に思う。
浩太朗君に顔を合わせられなくなった。
せっかくオトモダチ雰囲気でうまく乗り切りかけていたのに……
それにしても。
彼の好きな女の子って、一体どういう娘なんだろう……
今度は、「前奏曲嬰ハ短調」なんか弾き始める。ラフマニノフの俗に言う「鐘」だ。
浩太朗君がどこの誰を好きかなんてことは、どうでもいい。
そんなのはたいした問題じゃない。
でも、一体どんな女の子なの……?
彼から。
明るくて、名前の通り朗らかで心優しいその彼から、あれほど真剣に想われる女の子って。
やっぱり、愛らしいタイプの女の子、かなあ。
私とは違う……
誰にも言わずに、大事に胸の奥にしまっている浩太朗君。
彼の心の中にいる女の子。
羨ましい。
いいや、違う。妬ましいんだ。
私。見ず知らずの彼女に嫉妬している……!
顔も知らない、名前も知らない。
何もわからない。
けれど、私、浩太朗君のその「彼女」に。
その幻影に苛まされる────────
また、曲の中途にして指を休めた。
左手で右手の手首を覆う。
アルペジオも弾かずに無茶弾きしたから、手首に負担がかかったとみえる。
両手の手首を動かしながら、私は依然として思考を巡らせている。
考えなければいけないことは、まだまだある。
言わずもがな……守屋君。
一体、どういうつもりなの?
考えれば考えるほど、不可解としか言いようがない彼の言動。
一度ならずか二度までも。
私は……
あの時────────
夕陽の落ちる寸前の薄暗い教室。
異常なほどの静寂に支配された。
その中で、私は泣いた。
彼の、守屋君の胸の中で……
いつのまにか私は額を彼の胸に押し当てていた。
私の肩を抱く彼の温かい掌の熱を感じ取って。
そして、ほんの一瞬。
抱きすくめられたように感じたのは、私の錯覚だったというの……!?
思い返せば、夢としか言いようのないSCENE
あの時の覚醒感を。
「HEVEN」で肩を抱かれていた時のあの感覚。
生まれて初めて感じた、躰がとろけるような、あの……
私は未だそれを忘れられないでいる。
つくづくまともじゃない。
それでも彼は相変わらず。
無口で、無愛想で、ひっそりとして。
女の子になんか目もくれず。
私に対しても……
どういうつもり?守屋君……
打ち上げの夜にしろ、今日の放課後の出来事にしたって、人に話せば溜息の出るようなシチュエーションだろう。
実際、勉強も何も手に着かないくらい舞い上がっているのは事実だけども、でも……
心の奥底ではどこかで醒めた自分がいる。
彼は私だからあんなことしたんじゃない。
私だけにあんなことをしてるんじゃない。
結局、答えはそこに帰着するから……
確証も何もない。
けれど────────
そして、今日の「キス事件」。
考えれば考えるほど泥沼化していくばかりなのは目に見えているのに、それでも尚、考えずにはいられないこの性分。
いい加減、自分でもやってられないよ……