もうひとつの放課後
「純ちゃん。まだ帰らないの?」
放課後、窓際の席に座って外を眺めていたら、舞が教室に戻ってきてそう言った。
「うん」
視線だけを僅かに舞へと向け、答えた。
「……そんな顔しないでよ。私、落ち込んでいやしないんだから」
視線を逸らしながらも、笑うようにそう言った。
「大丈夫よ、もう。舞たちもわかったでしょ? あの馬鹿馬鹿しい真相」
本当に馬鹿馬鹿しいとしか言いようがない。
あの時───────
部屋の隅のテーブルに浩太郎君と私、二人して座っていた時。
大体、肩を抱き合う程、酔っていたこと自体を非難されれば弁解の余地はないものの、でも、あの時は他の皆も似たようなもので、それは富樫君の写真を見れば、一目瞭然。
だから、あの時、浩太郎君が「気分が悪くなったら、俺に言いなよ」と私の顔を覗き込んだあの時、彼の額と私の額がひっつくほど接近していたのは確かなことで。
しかも、彼の手は私の肩にあり、私は私で正体不明の様にぐったりと彼にもたれかかっていたとしたら……
元々、薄暗い室内。
その一層暗い隅のテーブルで、かなりそれっぽい「ポーズ」だったんだろうということは、容易に想像がつく。
それを見た皆にしても、相当酔っていたとしたら、尚更……ということだ。
「ところで。何で戻ってきたの?」
「うん。明日の物理、問題当たるの、ころっと忘れちゃってて。教科書とノート忘れて帰るとこだったの。ダメね。いっつも置いて帰るもんだから」
「恥かかずに済んだわね、明日」
「どうだか。解けるかどうかわかんないもん」
そう言いながらノートを鞄にしまうと、
「帰らない?」
と、上目遣いに舞が尋ねた。
「ううん、いい。試験前てことは舞、彼と一緒に帰るんでしょ。サッカー部のキャプテンとしては彼女と大手を振って帰れるなんてこと、こんな時しかないんだから。そこにお邪魔虫したら、私、この先、松川君から口聞いてもらえなくなるわ」
いと真剣にそう言う私を見つめながら、舞がホッとしたように笑った。
「じゃ、ね」
「うん。ばいばい」
手を振った後、再び窓の外に目を遣った。
ぴしゃりと微かにドアが閉まる音がした。
舞は……「お嬢ちゃん」だからなあ。
舞が出て行った後にぼんやりとそう思う。
苦労知らずというか、人を疑うことを知らない無垢な子なんだ。
それが舞の何よりの魅力で、そこに私も惹かれているけれど、ほんの時々、そう今日みたいな時には。「お子様」向けの笑顔が少しばかりしんどいなと、正直思う。
私は人間ができていないから。
舞が来た時にはまだ数人残っていたのに、いつの間にか私一人になっていた。
普通ならとっくに帰っている時間。
ましてや、中間考査目前の放課後。
けれど、まだ帰る気になれない。動けない。
遠くを眺めると、久しぶりに晴れた空。
夕焼けになって。
夕陽が差し込むけれど、教室の向こう半分はもう薄暗い……
「帰ろかなっと」
わざと声に出して、言ってみた。
ゆっくりと鞄を取る。
立ち上がったその瞬間、勢いよくドアの開く音がした。
誰?!
***
「なんだ、神崎さん。まだいたの」
そう言いながら教室に入ってきたのは、この秋も深い季節だというのに、半袖のTシャツを肩まで捲り、グレーのスウェット姿をした……
守屋君だった。
「守屋君……」
そう口に出して呟きながら、彼の姿に目を奪われている。
「何してんだよ、今頃まで」
「え、まあ。ちょっと……。でも、守屋君こそ、まだクラブなの?」
「ああ。試験前は自主トレってことになってるけど、ほとんど半強制的にね」
とんでもねえクラブに入っちまったもんだよ、と呟きながら、彼は自分の机の中に手を伸ばしている。
そして、そこからふと目を上げた彼の視線と、私の視線とがぶつかってしまった。
「帰らないの……? 神崎さん」
例によって、低く囁くようなテノールの声をして、彼は再び私に問いかけてきた。
「守屋君は何しに戻ってきたの?」
しかし、私はそう答えをうやむやにした。
内心の本音を悟られたくはなかった。
「俺はこれ取りに戻ったんだよ」
「お弁当箱……?」
彼が私の目の前に掲げて見せたものは、長方形の紺色の包みだった。
「そう。これ忘れると、明日昼飯食いっぱぐれるもんでね」
「何で?予備のお弁当箱なんていくらでもあるでしょ」
「実はうち、家政婦さんが弁当作ってくれるんだけど、その人がさ。にこにこしながら、説教するんだよ。臭いがつきますとかなんとか。挙句の果ては、弁当なし!とか言うんだぜ。参るよな、まったく」
そのいつもの彼らしからぬ雄弁な語り口に、私は思わず笑みを漏らしてしまったものの、何故か涙まで溢れてきそうになり、慌てて横を向いた。
笑いが途切れる。
……沈黙。
「気にすんなよ、あんまり……。みんな、物珍しがってるだけさ」
一言、そう呟いた彼の言葉に、私は胸を衝かれていた。
ああ、守屋君も知って、いたの……
今度の事件がどのくらい広まっているのか、本当はものすごく気にしていた。
舞、お杏、浩太郎君は勿論のこと、多分浦田君でさえ、誰も彼もが口を閉ざしていたはずなのに、何故か全く関係のない子らまでが知っている。
ひそひそ声がする度に胸が痛み、二、三の男子から取り沙汰された時は、限界だと思わざるを得なかった。
けれど、それでも前を向いていた。
それだからこそ、平然と過ごした。
いつものように。
「でも。強いよ、神崎は」
「え……?」
静まり返ったその場の空気を変えたのは、私の予想もし得なかった彼の一言だった。
「フツーの女子だったら、みんなの前でこれみよがしに泣いてさ。そして、周りの女どもがこれまた、ブって慰める、てのが一般的なパターンだろ」
守屋君、何言ってるの……?
「あいつらから何か言われた時も顔色一つ変えなかったろ、神崎は。あの時、泣くかな、と思ったんだけどね、俺は」
「……違う。そんなんじゃない、私」
「ちょっ、神崎さ……」
やっぱさすがだよ、という彼の言葉を、私は両手に顔を伏せながら聞いていたのだ。
「すごく悲しかった。私、辛くて、堪らなくて……」
ああ、私は何を言おうとしているの。
守屋君を相手に……
「泣きたかったの、本当は……。でも、泣いたらいけない、て思って。ここで泣いたら負け、なんだって、思って……。だから、私……」
一雫でも涙が溢れ落ちると、後は連鎖反応だった。
ずっと一日、張り詰めていた神経が急激に緩むともう元には戻らない。
胸がいっぱい。
本当に、限界。
時折、嗚咽の声が漏れて教室中に響き渡っているような気がする。
「泣くなよ。……な」
たった一言。それだけだった。
泣きじゃくり、下を向いたまま。
けれど、私には彼が今、どんな顔をしているかわかる。
はっきりと感じる。
今、ここにいるのは、あの時の守屋君。
あの夜、「HEVEN」で肩を貸していてくれた守屋君なんだ。
そして、私の肩を抱いてくれていた……
***
永久に止まらないんじゃないかと思えた涙も、ようやく流れることを終えた。
それと共に嗚咽の声もしなくなり、再び教室が静寂に返る。
「気分、落ち着いた?」
静かな守屋君の声。
あれから初めて発せられた言葉。
「うん……ごめん。ありがと」
蚊の鳴くような声で、呟いた。
けれどまだ彼の足元を見つめている。
顔が上げられない。
「もう帰るだろ?」
「うん……」
頷いて、鞄を取った。
いつの間にかほとんど陽が沈んでいる。
薄暗い教室。
足早に廊下へと出た。
とっくにブラバンの練習も終わったらしく、校舎内にはまるで人気が感じられない。
いつも見慣れた校内が、今は全く別の顔に代わっていることに気がついた。
ひっそりとした暗く長い、不気味さすら感じさせる廊下を歩く。
階段を降りる。
けれど隣には、彼……守屋君がいる。
ただそのことだけで、私は不思議と満たされていた。
***
「気をつけて帰れよ」
自転車の鍵を外し、ハンドルに手をかけた私に、守屋君がそう言った。
日はもうとっぷりと暮れていた。
靴箱の所で外を見て、心細そうな私の気持ちを察したのかどうか、彼はとうとうここまで附いてきてくれた。
登校時、所狭しとひしめき合っていた自転車が、今は影も形もない。
わずかに二つ、三つばかりが淋しそうに残っているだけ。
白熱灯が青白い光で辺りを照らす、自転車置き場の下。
「ごめんね。ほんとに……」
そう馬鹿みたいに同じ言葉を繰り返しながら、
「また、迷惑かけちゃったね……」
と、ぽつんと呟いた。
そんな私の態度など全く意に介してないかのように彼は、いいよと軽く笑ってみせた。
「じゃ、な。……元気だせよ」
「うん……」
頷くだけ。
「バイ」
そう言うと彼はくるりと背を向け、歩き出す。
二、三歩行って走り出そうとした彼の後姿を見て、私は無意識に声にしていた。
「守屋君!」
足を止め、振り向く。
フレーム越しの静かな瞳で私を見た。
「あの…あのね。私……。本当に私、浩太郎君と。……なんか、して、ない……」
目を逸らし、目いっぱい口ごもりながら、そう呟いていた。
それでも何故か、「キス」という単語が言えない。
「ほんとなの。私、本当に……」
「わかってるよ」
その時。
フッと微かに彼は笑った。
気をつけて帰れよ────────
再びその言葉を残して、彼は今度こそ走り出してゆく。
すぐに闇の中へと紛れて見えなくなった。
一人になって動けないまま、意識だけが次から次へと浮かんでは、消え……
今、私、何を言ったの。
どうしてあんなこと言ったの、守屋君に……
何もわざわざ言うことなんてなかったのに。
どうして……
守屋君、笑った。
何もかもわかってる、ていうような顔をして。
何がわかってるの?
本当に信じてくれてるの?!
守屋君、どうして笑ったの。
あの目は、あの表情は何を意味しているの。
守屋君、何て思ったの……