事件発生!
「ねえ、お杏。今の問題、練習の4番。わかったあ?」
「え、問4? ああ、それねえ」
今、終わったばかりの数学の授業。
最近、予習もしないものだから全くわからない。
その上、授業には未だ身が入らず、ヤバイと思うもののどうしようもない。
ああ、中間考査が近いのに……!
「だから、このベクトルABを……」
お杏の説明に聞き入っていると、
「ちょっと、ちょっと! 純ちゃん! 大変よお!!」と、舞が何やら血相を変えてやってきた。
「どうしたの」
舞の「大変」は日常茶飯事みたいなものだから、格別慌てもせずに答えた。
私は数学の方に忙しい。
「もう、純ちゃんってば! 何、落ち着いてんの。浩太郎君と浦田君が喧嘩してるんだから!」
舞の言葉に、とっさに顔を上げた。
「何で? どうして?!」
「あの、あのね。浦田君が浩太郎君に「見た」って、言ったもんだから……」
「何を見たの?」
「だから……」
「だから何!?」
舞の説明はちっとも要領を得ない。
焦れったくて思わず舞の腕を掴んだ私をお杏が制すると、落ち着いた声で言った。
「舞、一体、どうしたの? 浦田君が「何」を「見た」の?」
お杏の声に舞も私も幾分、冷静さを取り戻す。
しかし、尚言い辛そうにしながら、舞が口を開いた。
「打ち上げの時、純と浩太郎君が……キス、してるとこ……」
「な、何、何よ! それ?!」
キス……キス?!
私と浩太郎君が。
打ち上げの時に、て……?!
「そんな、馬鹿な……!」
一瞬、訳が分からなかった。
確かにあの時、酔ってたけれどそんなこと、あるわけない。
絶対に有り得ない。
有り得ないんじゃなくて、有ってない!!
「舞、何処なの?! 喧嘩してる場所!」
「だ、男子トイレの前」
駆け出そうとした私を、舞が辛うじて制服の袖を掴んで引き留めた。
「ねえ、純ちゃん! 待って。その前に私のハナシ、聞いて」
哀願するような舞の瞳。
「純ちゃん。本当にあの時、浩太郎君と……あってなかった?」
「あるわけないじゃない!一体、どういうことなのよ!?」
「本当?」
「いい加減にしてよ! 舞こそ、何か知ってるんじゃないの? 話してよ!」
私はヒステリー寸前だった。
いや、とっくに度を失っている。
「あの時……。ほら、純ちゃんと浩太郎君が二人だけで隅のテーブルに居た時。あの時、みんな……見てるのよね……」
「何を?」
「だから……キスしてるとこ」
「だから、何なの!それって?!」
堂々巡りの話にいよいよもって訳が分からなくなる。
何でそんなことになってるのよ?!
「だって、あの時……。浦田君が、「おい!あれ」って言うから同じテーブルに居た私とか、ゆうちゃん。圭、徳郎とかが一斉にその方向見たら……」
「純と浩太郎君がキスしてた、てわけね?」
そう、口を挟んだお杏に俯きがちに舞が頷いた。
一体、どういうことなの?!
何故……
熱くなる頭を精一杯抑えながら、あの時の記憶をもう一度手繰り寄せてみる。
確かに、あの時。
私は浩太郎君にもたれかかって、浩太郎君、私の肩、抱いていたけれど……キスなんて……キス、な…………
「ああーっ! わかった!!」
突然、声を発した私を、やっぱり純ちゃん……て顔で舞が見つめた。
「そうじゃないったら!!」
今度こそ、私は駆け出していた。
このままじゃ大変なことになる。
喧嘩なんてよしてよ!
どうか間に合いますように。
「やめてよっ!!」
無責任に遠巻きに成り行きを見守る数人の生徒に囲まれた中、浩太郎君と浦田君───────
二人向き合い、正に掴みかかろうとしていたその瞬間だった。
異様な沈黙。
一瞬、私は後悔した。
ここで問題になっているのは紛れもなく、私。
その私がこの場に現れたことで、周りの好奇心はいよいよ膨れ上がり、当事者の神経は益々ナーバスになっていく。
私は私で「舞台」に上がった緊張感で、息もできない。
「相棒が来て、何しようってんだよ」
「何だと!」
口火を切った浦田君に、再び浩太郎君が掴みかかろうとした。
「だから、違うの!!」
私の声に二人の動きが止まる。
「弁解、てわけ?」
「弁解じゃないわ」
自分でも驚くほど冷静な声だった。
先程の後悔と緊張の念を振り払うに十分な程。
「浦田君」
ここまで来て後に退けるもんか。
「あれは本当に違うの。完全な誤解よ。冗談じゃないわ」
「やっぱり弁解じゃん」
「じゃあ、弁解と思ってもいい」
せせら笑うように言った彼に、そう言い返した。但し、私の弁解じゃない。私は何言われたっていいもの。だって、人が何と言ったって、私は「違う」って確信できるから。でも」
泣くな。
泣いちゃいけない。
ここで泣いては……
「でも、浩太郎君はあの時。酔ってたのよ。多分、何も覚えていないと思う。それなのに、人からそんなこと言われたら、本当に自分がそんなことしたのか、悩まなきゃいけなくなる。そんなのって、あんまりだわ。何もあってなんかいない、のに……」
浩太郎君を苦しめないで。
そう心で叫んでいるけれど、もう言葉にはならない。
顔が上げられない。
口唇を噛んだまま。
馬鹿よ。あんたは、本当に……
その時。
四時限目のベルが鳴った。
魔法が解けたように、雰囲気が一挙に緩んだ。
最後まで傍観者を決め込んでいた生徒たちが、教室へと戻っていく。
浦田君が帰る。
浩太郎君も帰る。
……私を一瞥さえしないで。
波が退くように生徒が去ると、後には私一人。
さながら、波打ち際に遺された貝殻のように、じっと尚、立ち尽くす。
「よく泣かなかったじゃないの。偉い、えらい」
「泣くわけいかないでしょ。私は見世物でも、物語のヒロインでも何でもないんだから」
振り向かずにそう答えながら、それと同時に大粒の涙が溢れ出す。
「お杏……」
私は泣いた。
泣いた。泣いた。泣いた。
私よりほんの少しだけ背の高い、お杏の肩に顔を伏せたまま───────