思惑の放課後
「守屋君」
思い切って後ろからそう呼んだ。振り返る。
「何?」
「この前は本当にごめんなさい。それからこれ……ごめん」
返すというつもりが、何故か「ごめん」という言葉を口にして、そのまま二枚の千円札を差し出した。
「何、それ」
「この前、出してくれたでしょ。「HEVEN」の」
「ああ、あれか。いいよ、そんなの」
素っ気ない言葉。
「そんなこと言わないでよ。私としても心苦しいから」
無表情。
それがいつもの彼なのに、私は既に動揺している。
「……まったく。神崎さんらしいよ」
だからそれはむしろ、思いもかけぬ言葉だった。
「マジメ過ぎる、ていうかさ。男が女の子の為にだしたカネなんてほっときゃいいんだよ。第一、こんな風に返されても、はいそうですか、て受け取れるはずないだろ。男が」
低く、囁くように、諭すような守屋君の声。
「ま、受験勉強もいいけど、そんなんじゃ苦労するぜ」
「守屋君」
部活のジャージが入っているらしいスポーツバッグを右手から左手に持ち替えて、そのまま背を向けた彼に思わずそう声をかけていた。
振り返った彼の顔を見ながら、けれどこれ以上、何も言うことなんて見つからない。
「ガッコウで、「男とのつきあい方〈傾向と対策〉」なんて授業、やったらいいのにな。もっとも、さしもの神崎委員長も、こればっかりは赤点という気もするけど」
そう言うと、呆気に取られている私を残して、彼はさっさと教室を出て行った。
***
「ジューンちゃん! 何話してたのかなあ」
振り向くと、意味ありげな顔をして舞が立っている。
「何って、お金返そうとしただけよ」
殊更事務的に答えたものの、もし舞が声をかけなかったら、私は馬鹿みたいにずっとその場に突っ立っていたのかもしれない。
「それだけえ?」
まだ他に何かあるでしょ、とでも言いたげな舞。
「何が何でも私と守屋君をくっつけて、話の肴にしたいようね、舞」
「いやあ、そんな冷たい言い方しないで! 純ちゃん」 ちょっと嫌味っぽく言ったら、舞がシナを作るようにすり寄ってくる。
舞の場合、それが「冗談」とも「マジ」ともつかないところが考えようによってはブキミでもあるが、不思議と「作っている」というような悪印象は与えない。
結局。可愛い、んだよね。舞は。
実際、我が済陵高の男子の人気をお杏と舞が二分していると言っても過言ではない。
お杏は、とにかく文句なく美人で大人っぽい雰囲気が大いに男子の気をそそっているわけだけど、舞の場合、それはとにかく可愛い、守ってあげたいの世界が非常にウケている。
要するに、「大人の女」対「妹みたいな女の子」。
どちらを支持するかで、その男の好みがわかってしまうという。
付け加えるならば、お杏派にはシスコンが多く、舞派にはロリコンが多いというまことしやかな噂も、至極もっともなハナシだと思う。
「ベツにね。私達、純ちゃんをからかってあそぼーと思っているわけじゃないのよ」
「それはそれは、有難きお言葉痛み入ります」
「あ、信じてないわね!ほんとよ。ただ……」
「ただ、なんなの?」
舞独特の大仰な喋り方から急に口ごもってしまった舞を見て、私もついマジに聞き返した。
「ん……。みんなと話してたんだけど。守屋君のこと」
「守屋君が何?」
「ちょっと意外だったってこと。だって、一昨日はなんかやけにカッコよくみえたのよね、彼。美結妃なんてもう、おーさわぎよ。彼があんなにカッコイイってことに、今まで何で気付かなかったのかしらって。美結妃、妬いてるわよ。純ちゃんのこと」
「妬いてるぅ?何で」
「なんでって、そりゃあ……。こんな風に言うと純ちゃん、また怒りそうだけど、でも。あの時、「HEVEN」で守屋君とふたりしていた時なんて、なかなか絵になってたんだから。あの時は、そーか、実はそういうカンケーだったのか、ていう話で持ち切りでしかも誰も疑わなかったもの。ねえ、やっぱり、そうなんでしょ?」
「……っとにもう。勝手にしてよ」
最初の遠慮がちな態度はどこへやら、好奇心丸出しで喋る舞と、今更ながらの話の内容にウンザリして、突き放すようにそう言ったら、
「純ちゃん、ねえ。……怒った?」
と、不安げに舞が上目遣いで尋ねてくる。
「オチコンダ」
「ごめん、ごめんね!」
本気になって謝る舞。
そんな舞を見ているとまるで自分が極悪人のような気になってくるから、慌てて言葉をつなぐ。
可愛い舞を苛めたりしてはいけないノダ。
「と、ところでさ。今日、ゆう、どうかしたの? 昼休みえらく機嫌悪かったみたいじゃないの」
「う、ん。ゆうちゃんも、ちょっと……。あったらしいのよねえ」
「あった、て一昨日?でも、今朝はなんともなかったじゃない。それにゆう、二次会行かずに帰ったんでしょ?」
「その帰る時がモンダイなのよ」
「何があったの、一体?」
話題を変えるだけのつもりだったのが、いつの間にか好奇心にすり替わっている。
私もそうそう人のことばかり非難できない、てわけか。
「それがね。ゆうちゃん、あの後、山口君と一緒に帰ったんだって。山口君が「送る」って言ってきかなかったらしいのよ。それで……その帰る途中、ゆうちゃんの身がちょっと、危なかったとかで……」
「なによ、それ?!」
「あ、結果的には何もなかったんだって。でも、すごく嫌だったって、ゆうちゃんが……。それで、その時、彼。ゆうちゃんに「つきあってくれ」て言ったとか」
なんてヤツ!
打ち上げの最中は私にコナかけときながらあの男、一体どういうつもりなの?!
「で、ゆうちゃん、そんなの素面の時に言って、て言ってその場を逃れたらしいのね。そしたら彼、今日の昼休み、またゆうちゃんに「つきあってくれ」て、言って」
「それで?」
「もちろん、ゆうちゃん、断ったわよ。そしたらね。山口君、いつ抜き取ったのか知らないけど、例の写真……」
「写真?……ああ。あれね」
その写真とは勿論、「済陵祭」の写真。
写真部の富樫君が一人で撮りまくり、自分で現像して今日早々に持ってきて、少なからず「反響」を呼んだ問題のヤツだ。
何せ彼は写真部だけに良く撮れている。
それがクラス写真だけだったら、彼は「名カメラマン」として皆に見直されたこと間違いなしだっただろうに、いかんせん、打ち上げの時の写真が殊の外、女子の不評を買ってしまった。
アルバムのページを捲るほどに思わず赤面してしまう写真が増えていく。
女子は皆、自分の醜態は棚に上げ、「全く性格が知れるわよね、あんな写真撮るなんて!」「いつもそういうのばっか撮ってるんじゃないの?やーね」などと言いたい放題。
お陰で彼は当分の間、ヒンシュク男として女子の冷ややかな視線に堪えねばならない羽目に陥った、問題の写真だ。
「アレがどうかしたの?」
「うん……。山口君、いつ抜き取ったのかしらないけど、実はあの中でゆうちゃんと二人で映っている写真。ゆうちゃんの目の前で破いちゃって」
「破いた?!」
「そう。モチ、ゆうちゃんだってあんな写真、見たくもないだろうけど、山口君の態度にカチンときたらしくって」
「そりゃ、そうでしょ! 恥知らずな奴!」
明らかに機嫌を悪くした私を見て、舞が、
「純ちゃんまでそんなコワイ顔しないで」
と、困った風に言う。
それでも、私の腹立ちがちょっとでは収まらないと感じたのか、
「まあ、純ちゃんの気持ちもわかるけど……」
と、舞は溜息をついた。
「純ちゃんも山口君に言われたんでしょ。つきあってくれのどーのって」
「何で知ってるの?!」
私はそのことは、お杏にすら話してないのに!
「山口君ね、ゆうちゃんに。「神崎さんにも色々言ったけど、あの時は酔ってたから。君には本気」て、言ったんですって」
「何ですって?!」
よくもまあ、シャアシャアと!
舌の根も乾かぬ内に。
「馬鹿にしてる!!」
腹立ちは怒りへと形を変えて、いったん爆発した感情はおいそれとは元には戻らない。
あいつ、絶対許さないからっ!!
***
「ジューン、聞いたわよぉ!」
水屋で使い終わった茶碗と茶巾を洗っている私の隣に、彌生が来てそう言った。
「何」
手は休めずに言葉だけ発する。
「打ち上げの時、ゆうから浩太郎君、盗ったんだってぇ?」
「え、ああ。そのこと」
茶碗の上に畳み終わった茶巾を入れ、茶筅と茶杓を乗せて、
「はい、準備出来たわよ。次のお点前、彌生でしょ」
身に着けていた袱紗を手渡しながらそう言うと、さっさと立ち上がる私を横目で見送りながら、
「ま、頑張んなさいよ。応援するわ」
と、彌生が一言。
***
「お水、如何致しましょう」
密やかに彌生の声が、静かな礼法室一杯に広がる。
今日は週二回の「茶道部」の活動のうち、指導者の喜多先生がいらっしゃる水曜日だから、皆、大人しい。
「少しお願いします」
正客である私が答える。
お点前を見ているフリをしながら、彌生の姿は決して見ないよう、意識的に視線を背けているけれども、どうにも腹が立って仕方がない。
さっきの水屋での彌生の様子が、脳裏から離れない。
何、何よ!
あんたが何、知ってるって言うのよ。
そんなに人の秘密が握りたいの?!
人が誰好きになろうとあんたには関係ないでしょ。
ほっといてよ────────
心の中で一人、悪態をつきながら、それでもさっきの彌生の目の光が忘れられないから、どんどん気分が悪くなっていく。
「頂戴致します」
目の前に出されたお薄を受け取りながら恭しく礼をし、隣の生徒にも一礼する。
ほんの心持ちだけ飲み口を正面からずらすと、おもむろにお茶碗に口をつけた。
私は彼女が大嫌いだ。
何食わぬ顔をして人の弱みにつけこんでくる。
いつの間にか心の奥底を覗き込む。
そう。
私が浩太郎君のことを好きらしい……と、最初に勘づいたのも彼女、倉田彌生。
あれは、済陵祭の準備に明け暮れていた頃だった。
「純。私、聞いたんだけど……純、浩太郎君が好きなんだって?」
「えーっ? 誰よ。そんなの言ってるの」
「みんな言ってるわよ、クラスの女子」
……なんていう会話を交わした。
しかし、よく考えてみればその頃、私と浩太郎君のことを噂する人間がいたとは思えない。
誰も私にそんなことを言う子はいなかった。
それを平然と「みんな言ってる」なんていう言い方をして、カマをかけてくる。
それが彼女のやり方だ。
決して、自分の手は汚さない。
いかにも無関係のような顔をして……
「充分頂戴致しました」
頂いたお茶碗を返し、礼をする。
しかし、考えれば考えるほどに腹が立つ。
私は彼女の「蛇」のような「しつこさ」が嫌いだ。
そして「鋭さ」。
何よりもそれが癇に障る。
女性的と言えばあまりにそうだという気がするけれど、彼女、普通の女子とは少し、違う。
一体彼女は、私自身ですら気付いていなかった感情……浩太郎君へ対する私の想いを、最初から見抜いていたとでも言うのだろうか。
今日、皆が私と守屋君のことを取り沙汰する中、彌生だけが一人、浩太郎君のことを口にした。
浩太郎君……
私は────────
自分の気持ちを持て余している。
まだ、混乱している。
「祭」は終わった、というのに……
今日、皆が学校に来て、授業を受けている。
そんなことが何となく不思議に思えた。
制服を着てる。
実に当たり前の事なのに、それすらも何かそぐわない感を抱いて……
何もかもいつも通り。
それなのに、私だけ一昨日の晩の「狂宴」から抜け切れていない─────────
「不重宝でございました」
彌生の挨拶にハッとして、それでもそんなことはおくびにも出さずに、深々と礼をする。
一分の隙なくお点前を終え、退出する彌生を初めて一瞥しながら、私は心の中で彼女に言葉を投げかけた。
そうそう、あんたの思い通りにはならないんだからね、彌生。
そうよ。
だから。
だから私は浩太郎君を好きになるわけにはいかない……