目醒めの朝
「ごめん。起こした?」
勢いよく南側のカーテンを開けたお杏が、カーテンの端を掴んだまま振り返ってそう言った。
それまで薄暗かった室内に突然陽の光が差し込み、眩しくて急には目を開けられない。
この分ではもうかなり陽は高く昇っているらしい。
「ん……もう。起きる」
身を起こし、ベッドの上で正座をしながら寝ぼけ眼で答えた。
「え…何?!嘘。もうこんな時間?」
ベッド脇のデジタルは、午前十時を廻ろうとしている。
「そう驚くことないじゃない?夕べ寝たの四時近かったんだし。私なんて休日は、お午頃まで寝てることだってあるわよ」
そうお杏は言ったけれど、私はどんなに遅くても朝九時以降まで寝ていることなど滅多にない。
そう言えば、夢も全く覚えていない。
やはり、済陵祭の上、打ち上げの一日はかなり堪えたんだろう。
そんなことを考えながらベッドメイキングしていると、
「純、顔洗ってきなさいよー。じき、朝食できるからあ!」
と、キッチンにて叫んだらしいお杏の声が、開けっ放しのドアの向こうから聞こえてきた。
***
歯を磨き、顔を洗う。
冷たい水が心地よくて、本当に目が醒める心持ち。
ふうーっ。タオルで顔を拭き終わった後、ふと、鏡の中の自分と目が合った。
そのままじっと見つめてみる。
これが、私。なのよね。
ちっとも変わらないわ。
あ、右サイド、少しはねてる!
後でお杏からベース剤とドライヤー借りよう。
もう一度、目を凝らし、覗き込む。
鏡の中の自分に問うてみる。
私、昨日。何、したんだろう。
何を言ったの? 浩太郎君に。
そして、守屋君に。
記憶を辿れば、酔った自分とその肩を抱いている守屋君のことばかりやけに生々しく思い出される。
私、守屋君にもたれかかって。
嘘。あんた、本当にそんなこと、したの?!
信じられない。
けれど、あれは夢じゃない……
一夜明ければ更に冷静な自分がいた。
ただの悪夢なら目が醒めてそれでおしまい。
でも、これは全くその逆なんだ。
これからが本当の苦悩の始まり。
そんな暗い予感に囚われていた時、再び私を呼ぶお杏の声が聞こえた。
朝食というよりはブランチの時間だが、ともかく食事の支度ができたらしい。
私は急いでタオルを元に戻すと、洗面所を出た。
***
「このくらいでいい? 焼け具合」
お杏がトースターから厚切りトーストを取り出して、そう言った。
「うん。OK」
受け取って、早速バターを塗り始める。
テーブルの上には、グレープフルーツジュース、生野菜サラダ、ベーコンエッグ、コーンスープにキーウイソース付きのプレーンヨーグルト、そして珈琲が二人分。
何の変哲もない朝の風景なのに、どことなく優雅に感じるのは、広々と且つ整然としたダイニングルームのせいなのか。
或いは、お杏の美的感覚のせいかもしれない。
テーブルの上の小さな赤い一輪挿しの花が、とても見目良いように感じる。白いテーブルクロスも一点の汚れもなく、清潔で清々しい。
しかし、お杏がここにいるせいなのかもしれない。
そんな考えが胸を過ぎった。
朝の陽の光に透ける白い肌。漆黒の長い髪。
斜め15度に首を傾げたお杏のその物憂げな切れ長の黒い瞳に、思わず吸い込まれそうになる。
すっと通った高い鼻筋。
可憐な紅い口唇
綺麗、だと思う。
齢十七になるかならないかのうちにこの美しさ。
お杏の存在自体が一種の美だ。
「どうしたの? もう食べないの。半分も食べてないじゃない」
「え? う、…うん。あんまり食欲、ないのよね」
お杏に見とれてました、とはさすがに言えない。
「食欲ないって、純。昨日、お昼も食べてないし、夜だってほとんど食べてなかったじゃない」
サラダを食していた手を一瞬止めて、お杏が心配そうに眉をひそめた。
食欲がないと言ったのは嘘ではなかった。
お杏の言う通り、昨日は朝食を食べたきりほとんど食べていない。
それなのに、今もあまり食べたいという気が起らないのだ。
「最近、変なのよ。食欲なくしちゃってて。ここんとこずっとなの」
「ふうん。精神的に参ってたのかもね、もしかして。何せ済陵祭、大変だったから」
思わず大きく相槌を打ったものの、だけど「今」食欲がないのはどういうことだろうとふと思った。
***
「ねえ。聞いてもいい?」
お杏が、「KENWOOD」の大きなオーディオ機器を操作しながら振り向かずにそう声をかけてきた。
「なあに?」
ソファでフォークロアなクッションを背に、「non-no」なんか見るともなしにぱらぱらと捲っている。
「純と守屋君って。本当にどういう関係なの?」
その問いと、シャーデーの麗しい美声が響いたのは、ほとんど同時だった。
そして、そのどちらもあまりに突然すぎて。
「何の関係もあるわけないじゃない! ほんとに、もう」
雑誌を閉じ、ややふくれっ面してお杏を見る。
ステレオの音量を調整するとお杏は私の前に座った。
「じゃあ。夕べのは単なる成り行き、てわけ?」
「そうよ。……その通り」
「なんか、そんな雰囲気じゃなかったように思えたんだけどなあ」
「何よ。私の好きな人が誰かってこと、お杏もわかったんじゃないの」
「そりゃあまあ、そうだけど」
「守屋君、私に気があるってわけじゃないわよ」
お杏の言わんとしていることはわかっているから、そう言いきった。
傍からどう見えたかは知らないが、それこそ恋人同士みたく思えたかもしれないけれど、彼は私のこと何とも思っていないだろうこと私は思う。
何故と問われても答えようがないのだが、しかし、私がそう察したのだ。
あの時、夢見心地な気分と裏腹に、どこか醒めた奥深い一点で、私はそう感じていた。
「それにしても、彼。驚いたわね」
私の不機嫌を察したのか、お杏は微妙に話題を変えてきた。
「昨日、彼の私服姿見た時からして、ちょっと意外だったけど。あのカーキのライダースジャケットに黒のスキニーパンツ。なかなかセンス良いじゃない、彼氏。それに、見た?」
「何を」
「守屋君が煙草吸ってるところ」
お杏が続ける。
「まあ、済陵の二年生にもなればほとんどの男子、隠れて吸ってるけどね。でも、彼のはちょっと違うわよ。あれは年季の入ってるクチね。普段からかなり吸ってるんじゃないの」
「お杏もそう思う?」
私も見た。
やっぱり驚いたんだ。
一瞬、目が惹きつけられて離れなかった。
他の男子連中も吸っている中で、彼だけが何か雰囲気が違っていたのは、慣れからくる余裕のせいだったんだろうか。
だとしたら……
「どうしたの? 溜息なんかついちゃって」
「わかんないもんだな、て。思って」
「何が?」
「守屋君よ」
学校での彼は、静かで、寡黙で、目立たない。
これといって特徴のない人で、女の子にも無関心というかあまり縁のなさそうなその彼が、私服をセンス良く着こなして、煙草も酒も強いっていうことだけで充分驚きなのに……
「何が意外かって。彼の女の子の扱いの上手さほど驚いたのってないわよ」
独り言のように言うともなしに言ったその一言を、お杏は耳ざとく聞きつけてしまったらしい。
「ねえ、純。もうひとつ聞いても、いい?」
そう尋ねてきたお杏の声の調子に嫌な予感がしたものの、ダメ!と却下するわけにもいかない。
「守屋君と夕べ、何かあったなんてことはない、わよね」
「何かって……ちょ、ちょっとお杏! あんたってば何言い出すのよ! まったく」
否定形で聞きながら、あの目は何かを期待している目だ。
「だってぇー、昨日が昨日だし」
「どういう意味よ」
「だからあ、その場の雰囲気、でさ」
私が無言で睨んだものだから、お杏は慌てて言葉を継いだ。
「わ、私はさ。別に。純の性格、知ってるつもりだし、妙なことにはならないって思ってたわよ? でも、あの時の雰囲気があんまり……。それに、純が彼の事、女の子に慣れてるようなこと言うからさあ、つい。……ね」
私はもう何も言う気になれず、頭を抱え込みながら目を閉じた。
お杏でさえこれだもの。
ましてや、他のみんなが何て言い合っていたのか目に見えるようだわよ……
元を正せば、後先考えずにあんなことした自分が悪い。
何を言われたって仕方がない。
とは思うものの、明日からの学校生活がつくづく思い遣られて、私は再び大きな溜息をついた。