ふたりの夜
「はい。本当にもう大丈夫なの?」
淹れたての芳ばしい香りのする珈琲を私の前に差し出しながら、お杏がそう尋ねた。
「あ、ありがと。うん。ほんとにもう平気。完全に酔い、醒めてる」
そう言いながら、早速「MINTON」のカップを口に運ぶ。
珈琲通のお杏が淹れてくれた、今夜はイタリアン・エスプレッソ。
「美味しい。やっぱり、お杏が淹れてくれる珈琲が一番いいわ」
それは世辞でも何でもない。
お杏の珈琲はいつも絶品と言える味わいだけど、今夜は特にそう思える。
もしかしたら、特殊な一日を終えた後のせいかもしれなかった。
とにかく、胃に染み入るような一杯だ。
「それはいいけど。まったくもう、純ったら……。一体いつどこであんなになっちゃったのよ。おかげでこっちは気が気じゃなかったわ」
「嘘! お杏、途中で私の事なんてほったらかしで、どこか消えてたじゃない」
「そりゃあそうよ。私なんて必要なかったでしょ」
精一杯の反論もお杏には、更々通用しない。
「どうして?」
と問うた私に、お杏は一言、
「だって、守屋氏がいたじゃない」
と、意味ありげな笑みを浮かべながら、その言葉を私に投じてきた。
「まあったく。いつからあんた達、そういう関係になってたのよ」
「ちょ、ちょっと待ってよ! そんなんじゃないってば!!」
私は、思わず手元の珈琲を零しそうになった。
「どこがあ。あれはちょっとなかなかの雰囲気だったわよ。みんなも口揃えてそう言ってたんだから」
「みんなって。誰よ」
「誰って、圭とか舞。美結妃でしょ。徳郎連中とか。二次会に行った人間は皆、知ってるわ」
お杏のその言葉で私は、初めて事の重大さ。
あの状態がもたらすであろう事を冷静に認識した。
すうーっと血の気が引いていく気がした。
そんな風にみられていたなんて……などとは、言い訳に過ぎないことは、本当は自分が一番よく知っている。
辛うじて気は確かなつもりではあったけど、彼の助けを借りなければいけない有様だったのは事実。
そして、その私に最後まで付き合っていてくれたのは守屋君というのも、否定のしようがない事実だ。
「純。何、急に暗くなってるのよ?」
「だって……だって私。ああ、もうっ! 馬鹿よ、バカ!!」
「ちょっと、純ってば」
「だって私。もう、学校行けやしないわ。酔って醜態晒すなんて……。ほんとにどうやってみんなと顔合わせればいいのよ」
今頃になって深い後悔と言いようのない羞恥心を、嫌と言うほど感じている。
けれど、こうなってからではもう、遅い。
全ては皆の目の前で演じ、幕が降りてしまった私の喜劇だ。
「落ち込んでんの? 純」
「これで落ち込まない方がどうかしてるわよ」
「バッカねえ。そんなんで落ち込んでたら、この先人生やっていけないわよ」
「何よぉー、お杏が落ち込ませたんだからね!」
八つ当たり以外の何物でもないとわかってはいるが、私はそう言わずにはいられなかった。
「それより。純」
「何よ」
ふと見れば、お杏の顔つきが変わっている。
「今日、酔った本当の原因は……誰?」
何、ではなく、誰?と問うあたり、さすがお杏だと私は思った。
「聞きたい?」
「当たり前でしょ。他ならぬ純、のことだもの」
「親友」なんて言葉を軽々しく使わないところがいかにもお杏らしいと思いつつ、お杏の気持ちは私にも伝わってくる。
そして、今夜の顛末を私は語り始めた。
***
「ふうん。そう。そういうわけ、だったの」
そう言いながらお杏は、何気なく珈琲カップを指で弾いた。
私は二杯目の珈琲にやっと口をつけたが、それはすっかり冷めてしまっていて、苦さだけが舌を刺す。
「浩太郎君か。やっぱり」
「何よ、その「やっぱり」て?」
「やっぱり純は浩太郎君のことが好きだったのね、ていう意味よ」
決まってるじゃない、とお杏。
私は返す言葉がない。
「最近の純って彼とばっかり喋ってるじゃない。そのくらいピンとくるわよ」
「それって単なる邪推、て言うんじゃないの?」
「あら。勘がいいのよ、勘がね」
嫌味な私の反撃にもお杏は涼しい顔をしている。
まったく、ちょっとやそっとのことではまるで動じない。お杏という人間は。
それがお杏の強さであり、魅力でもある。
「なんてね。純が素直に告白してくれたから、そう言ってるだけよ。ひょっとしたらくらいは思ってたけどさ。でも。聞かされてみると、ほんとは意外だった、かな」
お杏が首をすくめて笑う。
そんなお杏から私は、つと視線を逸らせた。
「そうよね。意外、よね……。信じられないわよ、私だって」
「信じられないって、何が?」
「私が……。浩太郎君のこと好き、だなんてこと」
「どうして? 彼、なかなかいいじゃない。人が良くってさ」
「だからよ……」
「何が言いたいの、純……?」
そんなお杏の問いに答えることもせず、私はただ後ろめたさだけを感じている。
こんなまどろっこしい会話をしてはいけないとわかってはいるけれど、「本音」というものは掴まりそうでいて、自分でもなかなか掴みにくい厄介なものなのだ。
「だって。似合わない」
それでも、ようやくその言葉を私は引き摺り出していた。
「何のこと?」
「浩太郎君と……私」
「何言ってんのよ」
馬鹿馬鹿しいとでも言いたげなお杏を遮るように、私は一気に言葉を継いだ。
「だって、思わない? 彼にぴったりな女の子って、いかにもおんなのこですって感じのするような娘、て。ちっちゃくて、可愛くて、無邪気な。そう、うちのクラスで言ったら、舞あたり」
舞……背が小さくて、目がくりっとして、めちゃくちゃ可愛い女の子した彼女。
明るくて、いかにも「守ってあげたい」て思わせるような。
「私……舞にはなれないわ」
舞にはなれない。なれっこない。
私と舞は、言わば対極にあるような気がする。
その意識が、つまりは私のコンプレックスが、私をひどく弱くする。
私なんかが彼を好きになんてなってはいけない。
否、なりたくなかった、と言うべきかもしれない。
好きになりたくない。
もしなれば、自分のコンプレックスを否応なく認識させられるということを私は無意識に感じ取っていたのだろう。
そして、私はずっと自分の気持ちを偽り続けてきたんだ。
それなのに。
今日の打ち上げのあの光景が、何もかも滅茶苦茶に打ち砕いてしまった。
浩太郎君を好きな自分、というものを私は、遂にはっきりと認識してしまった。
「どうして舞になる必要があるの」
そのお杏の言葉にハッと顔を上げると、さっきまで笑っていたお杏が、やけにシリアスな顔をしている。
「そりゃ、舞は可愛いけれどでも、彼が舞のようなタイプを好きだなんて限らないじゃない」
「それはそうだけど、でも……」
「どうして純は。そう自分を殺そうとするの?」
その時、そのお杏の言葉に、私は何かが胸を貫いたような気がした。
「みんな純のこと自信家だって言うけど、私はそうは思わない。純はいつもどこかで怯えてる。そんなに周りの目が気になるの?」
純、一体何にこだわっているの……と、お杏は呟いた。
そして、私は今更のように、お杏の鋭さに感じ入るだけだった。
コンプレックスよ。
私は、自分自身に動かし難い、ある種のコンプレックスを抱えている……
たったそれだけの言葉が言い出せない私であった。
お杏にさえも私は未だにその一言を言えずにいる。
「もう、休みましょうか」
ふと、お杏は壁の時計に目を遣りながらそう言った。
後数時間で夜明けという時刻だ。
私は黙って頷いた。
入浴を済ませ、パジャマに着替えているから、後はお杏のベッドに潜り込むだけだ。
スプリングのよくきいたお杏のベッドはセミダブルなので、二人で寝てもそう狭くはない。
ふかふかの大きな羽枕が実に気持ち良かったりもする。
「いい? 電気消すわよ」
お杏がそう言い終わった時にはもう、部屋は暗闇へと化していた。
目が慣れないまま、私はその真っ暗闇の空間を見つめている。
「……お杏」
「ん、何?」
「ごめんね」
馬鹿……と一言呟くと、お杏は寝返りをうって、すぐに安らかな寝息をたて始めていた。
しかし、私は目を閉じても依然、様々な想いが浮かんでは、消えてゆく。
そして、突然。
守屋君のことを思い出した。
私……
ああ、いいわ。
もう、どうでも……
意識は次第にゆっくりと、闇の中へと遠のいていった。
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