野ぎつねの恋
それは山の木々が葉を紅く染め、森が燃え盛る炎のような彩りを呈する秋の頃でした。
一頭の野ぎつねが木陰から顔を出し、きょろきょろと辺りを見回しています。
「遅いなあ、今日は。どうしたんだろう」
そわそわと前足を舐めてみたり、尻尾の毛を鼻先で撫で付けたりしながら、時おり山道の方を見張っているようです。
そんな野ぎつねの居る場所に、微かに少女の声が流れて来ます。野ぎつねはぴんと耳を立てました。
「来た!」
圧し殺した声で呟き、草むらに身を潜めます。やがて、道の向こうにちらちらと、明るく笑う少女の姿が見え始めました。野ぎつねは緊張して、髭をぴくぴくと震わせます。
毎日決まった時間にこの道を通る少女を待ち伏せてこっそりと見詰める野ぎつねの胸は、甘酸っぱい高鳴りに満たされていました。
野ぎつねと彼女が出会ったのは、やはり紅葉の真っ赤に映える秋の山道でした。
その日野ぎつねは狩に失敗し、お腹を空かせて山をさ迷っていました。実り豊かな秋とはいえ、厳しい自然界の中で、独りぼっちの小さな野ぎつねが、いつもお腹一杯食べられるとは限らないのです。それに、秋が過ぎ去れば冬がやって来ます。非情な雪に閉ざされ、食べ物を見つけるのが至難の業になる季節が訪れるのです。秋の間にたくさんの食料を確保し、しっかり体力をつけられなかった者から、その厳しさに負けて冷たい骸となるのが、自然界の決まりでした。
「お腹空いた……」
山道の脇にちょこんと座り込み、野ぎつねは項垂れました。お腹がきゅるきゅると鳴って、食べ物を求めます。
「お父さん、お母さん……」
いつもはぴんと立っている三角の耳をぺたりと伏せ、野ぎつねは目を潤ませました。
野ぎつねの両親は、去年の冬、少ない食料を求めて出掛けたきり帰ってこなかったのです。きっと猟師にやられたか、人間の乗り回す「くるま」という大きな走る塊にはねられたに違いないと、物知り岩のおじさんは冷淡に言いました。二人はもう帰ってこないのだから、お前は独りで生き抜かなければならないのだよ、とも。
誰も、野ぎつねを助けてはくれないのです。
「あら、きつね」
野ぎつねの絶望を破ったのは、鈴を転がすような声でした。
「まだ小さいのね。どうしてこんなところにいるのかしら」
声の主は、人間の少女です。野ぎつねは警戒して、ぴんと耳を立てました。立ち上がり、じりじりと後ずさります。
「怖がらないで。お腹空いてる?」
少女は野ぎつねの前にしゃがみこむと、鞄から何か取り出して地面に放りました。
「それ、あげる。元気出してね」
にっこりと笑う少女が眩しくて、野ぎつねは寸時警戒を忘れました。少女は立ち上がり、野ぎつねに手を振って踵を返します。
可憐な少女でした。野ぎつねは彼女の姿が見えなくなるまでぼうっと見送った後、地面に置かれた物に恐る恐る鼻を近づけました。明るい茶色の小さな塊からは、甘くて香ばしい匂いがしました。試しにちょっとかじってみると、野ぎつねが味わったこともないような甘味が口一杯に広がります。野ぎつねは夢中でそれを食べました。お腹が満たされていくに従って、野ぎつねの心も、あの少女に対する暖かい気持ちで一杯になっていくのでした。
それ以来、野ぎつねは毎日山道を見下ろす場所に立って、少女が歩いて来るのを待つようになりました。甘くて切ない想いに胸をときめかせ、熱心に彼女を見守るのです。
そんな日々を送る間に、山には冬が近づいていました。野ぎつねはねぐらの中で丸まりながら、とくとくと鳴る心臓の音を聞いています。
「明日、あの子に会いに行こう」
独りぼっちの野ぎつねは、自分の尻尾に話しかけます。
「冬になれば、なかなか会えなくなる。明日、会いに行って、僕の気持ちを伝えるんだ」
尻尾はふさりと揺れました。頑張れ、と言っているようでした。
翌日、野ぎつねはいつものように山道で少女を待っていました。明るい笑い声が聞こえてくるとそわそわと尻尾を振り、野山で摘んできた花を口にくわえます。
ところがその日、少女は一人ではありませんでした。楽しげな少女の隣に、同じ年頃の少年がいます。
――こいびと?
野ぎつねの胸は痛み、足はすくんでしまいました。それでも勇気を出して、彼女の前に姿を現します。
「あら、きつね?」
少女は目を丸くしました。野ぎつねは精一杯背伸びして、花を差し出します。
「珍しいね、狐がこんなところに。まさかこの狐、君に花をプレゼントしたいのかな」
少年が驚いたように言って、野ぎつねを指差しました。
「知り合い?」
少女に尋ねます。当然頷くものと思っていた少女が首を傾げたとき、野ぎつねは背中につめたい水を浴びせられたような心地がしました。
「わからないわ。そういえば狐にパンをやったことはあるけれど、狐の見分けなんてつかないし」
少女の視線は、野ぎつねの上を無関心に通りすぎます。野ぎつねの心臓は止まりそうになりました。
「きっとその狐だよ。お礼に来たんだ。受け取ってあげたら?」
少年がそう促した時、少女の眉間には一瞬、拒みたそうな色が浮かびました。
もう、限界です。
野ぎつねは花をその場に投げ出すと、全速力で走って逃げました。
走って走って、ねぐらまでたどり着くと、野ぎつねはへたり込んでしまいます。目から熱い涙が溢れました。
――元気出しなよ。
野ぎつねの唯一の話し相手である尻尾が、ふさりと揺れます。
――まだ告白もしてないじゃないか。
「だめだよ」
野ぎつねは鼻をすすりながら言いました。
「あの子にはもう彼がいるし、僕のことなんて気にも留めてないんだ」
俯き、地面に落ちて朽ちかけている落ち葉を見ながら呟きます。
「僕に、勝ち目なんてないよ」
涙が、黒い大地に染み込んでゆきます。
「せめて……」
野ぎつねは滲む視界をそのままに、言葉を溢します。
「せめて、僕が人間だったら……」
小さな呟きは、微かな風に溶けて散ってゆくばかりでした。
その冬は、厳しい冬でした。
あの日以来元気をなくして、食べ物の収集を怠っていた野ぎつねは、日に日に弱っていきます。食べ物を探して外に出ても、雪に閉ざされた冬の山は厳しく、木の実ひとつ恵んではくれません。
「お腹空いたよう……」
痩せ細った野ぎつねは、雪の絨毯の上にぱたりと倒れました。朦朧としてくる頭の中に、それでも思い浮かぶのは彼女の面影です。
「人間に、なれたら」
ぽつり、と野ぎつねは呟きました。
人間である彼女は、同じ人間の彼を選んだのです。野ぎつねももし人間だったなら、彼女に想いを伝えることくらいは、許されたかも知れないのに。
「人間になりたいの?」
不意に話しかけられて、野ぎつねは緩慢に瞳だけを動かしました。その小さな体を、誰かの腕が抱き上げます。
「可哀想に。人間に恋をしたのね」
ほのかな暖かさが、野ぎつねを包みました。野ぎつねの霞む視界には、人間の女性の姿が映ります。けれども野ぎつねは、その女性を人間だとは思いませんでした。雪の降りしきる中に着物姿でいるというのに彼女はちっとも寒そうではありませんし、何より彼女の髪の毛の間から覗く耳は人間のそれではなく、野ぎつねにとって見慣れた形のものだったからです。
「――かみさま?」
野ぎつねはか細い声で呟きました。彼女が小さく苦笑する気配が伝わります。
「『次』はきっと人間になれるわ」
そっと、暖かい手が野ぎつねの頭を撫でました。
「にんげんに……」
その言葉は、凍える野ぎつねの胸に、ぽっと小さな炎を灯しました。
この秋、野ぎつねの恋は儚く散ってしまいました。けれども、人間になれれば、きっと小さな野ぎつねの恋だって実る日が来るでしょう。
そうだ、かみさまがこう言っているんだから、きっと奇跡だって起こるに違いない。人間になって、いつか――。
「おやすみなさい。良い夢を」
柔らかな囁きに包まれながら、野ぎつねはゆっくりと目を閉じました。
「これで、良かったのか」
小さな野ぎつねを胸に抱いた狐耳の女性に、少年が声をかけます。女性は小さく頷いて、腕の中の野ぎつねを撫でました。
「いいの。騙してしまったようなものかもしれないけど、それでこの子は希望を持って逝けたんだもの」
彼女の名は玉藤。神様なんかではありません。ただ普通の狐よりも長命で、少しばかり違った力を持っている妖狐に過ぎません。それでもこの小さな野ぎつねの勘違いを否定しなかったのは、少しでも希望を与えてやりたかったからでした。
「……そうだね」
少年は真っ黒な瞳で彼女の腕の中の野ぎつねを見詰めました。雪に凍えた小さな体は痩せっぽっちで、すっかり冷たくなってしまっています。その体をそっと抱え直すと、玉藤は歩き出しました。
「主、手伝って貰える?この子を土に還してあげたいの」
「わかった」
少年と玉藤は積雪の少ない場所を探し、地面に深い穴を掘りました。そこへ、もう動かない野ぎつねをそっと横たえます。
「ゆっくりおやすみ」
囁くように言って、少年は穴の中へ土を投げ落とし始めました。
その背中を見ながら、玉藤はふと物悲しさを感じて肩を震わせました。
死したものは、こうして土へ還ってゆきます。それは長命な妖狐である玉藤も例外ではなく、いつかは同じように冷たい骸となって葬られるでしょう。それはこの世の理であり、自然なことなのです。死は悲しく、時に恐ろしいけれど、そうして終わりを迎えるからこそ命は尊く輝くのでしょう。死を知っているから、どんなに辛く苦しい思いにも終わりがあると信じられるのです。
ならば、その理から弾き出され、永劫に終わりなき苦しみの中で生き続けなければならない者の絶望はどんなにか深いのでしょう。
「玉藤?どうかしたのか」
少年の真っ黒な瞳が、玉藤を見つめます。
「ううん、何でもないわ」
玉藤は首を振り、作業を再開しました。
――いつか終わりなき苦しみにも、救いが訪れますように。
やがて小さな墓が出来上がりました。少年がどこからか僅かに咲き残った花を探してきて、墓の前に供えます。それから二人は、黙って手を合わせました。
せめて終わりの後の長き夢の中で、淡い恋が実を結ぶように。
野ぎつねの眠る小さな墓は、やがて降り積もる雪に真っ白に染められ、一面の銀世界に飲み込まれてゆきました。