苦いチョコレート
二月にもなると暗くなるのが早い。五時頃にかろうじて見えていた太陽は七時少し前となった今では完全に西の空に沈み、月が辺りをうっすらと照らしだしていた。いくらか星も見え始めている。
そろそろ帰るか。続きは家で読めばいいし。
さっきまで読んでいた文庫本にしおりをはさんで長机の上に置いていたカバンの中に丁寧にしまう。それから一回首をぐるぐると回す。ぽきぽきと小気味いい音が鳴った。
にしても最近は静かで実にいい。今日で十日目連続になる。ずっとこのままの感じでいられればいいのだけれど。
「そうもいかないんだろうなぁ」
誰に言うでもなく独りごちる。といっても、今この文芸部の部室には僕以外いないのだから僕の言葉は必然的に独り言になってしまうのだけれど。
現在、文芸部には僕以外の部員はいない。去年までは二人ほど先輩たちがいてくれたのだが、その先輩たちが卒業してからはずっと僕一人である。まぁ、別に一人が嫌なわけではないので気にしたことなかったし、むしろ、静かに本が読めるのだからそれでいいとすら思っていた。
ただ、そのせいで去年の四月に一度廃部の危機に瀕したこともあったりしたが、兄貴と新たに文芸部の顧問になってくれた春日先生の尽力もあって、ある条件付きではあるがこの部室を使わせてもらえることになっている。
戸締りを確認して部室から廊下に出て、くるりと向き直って鍵をかける。
鍵返しに行くの面倒だな。部員が僕しかいないからしょうがないのだが。うちの部室から職員室まではけっこう遠いのだ。
うちの学校は正門から入って手前に第一棟があり、その後ろに第二棟が建っている。どちらも四階建てで一階と三階の右端に渡り廊下があり行き来できるようになっている。上空から見たらカタカナの『コ』の形をしているだろう。
文芸部の部室は第二棟一階左端の第二会議室と呼ばれているところにあり、鍵を返しに行かなきゃいけない職員室は第一棟三階の渡り廊下を渡ったすぐのところに位置している。部活が終わってからただ鍵を返しにいくだけでは億劫に感じるぐらいの距離があるのだ。
いっそのこと「返すの忘れてました」と言ってこの鍵を持ったまま帰るという手段もあるのだけど、今でも廃部すれすれである部の心証を落とす訳にはいかないので厭々ながら階段に足を進める。が、目の前の階段にはカラーコーンが二つほど置かれていて行く手を阻んでいた。
あぁ、そういえばこっちの階段今日から使用禁止なんだっけ。
なんでも階段の二階から四階までの間の窓が割られていたらしい。その修理をするためだと担任がホームルームで言っていた。修理が終わるまでに四、五日かかるらしい。
夜の校舎窓ガラス壊してまわった。
なんとなくそのフレーズが頭に浮かんだ。体育館の方からどこかの運動部の声が聞こえてくる。
青春だなぁ。これまたなんとなく思った。
「いま帰り?」
反対側の階段を上ろうとしたときである。
頭上から声がかかってきて顔を上げると顧問である春日先生がいた。
「そうです、それで鍵を返しに」
「戸締りは確認した?」
「はい、しました」
「そっか、じゃあそれはこっちで返しておくよ」
「ありがとうございます」
春日先生はにこやかに笑いながら僕から鍵を受け取った。春日先生はいつも笑顔を絶や
さない。僕はそれに感心しているのと同時に、秘かに羨ましく思っている。僕には愛想と
いうものがあまりないのだ。
「それで、今は何の本を読んでるの?」
春日先生も高校時代はけっこう本を読んでいたらしく、会うたびに僕に聞いてくる。
「三島由紀夫の『潮騒』です」
「おっ、懐かしいね、昔読んだよ」
それから二言、三言言葉を交わして春日先生は部室の方に向かって歩いて行った。
んっ?
階段の上から視線を感じ、目線を向けると一人の女生徒がこちらを見つめていた。顔をしらないってことは恐らくは一年生だろう。彼女は僕の視線に気づくとそのまま階段を上っていった。
一体なんだったんだろうか。多少興味を引かれたが、そこまで考えることなく僕は正門に向け歩みを進めた。
外はかなり冷え込んでいて、僕はすぐさまカバンからマフラーを取り出して首に巻いた。
さっさと帰ろう。さもなくば凍死してしまいそうだ。しだいに足早になっていくのを感じながら学校を出た。
それから三十分後、僕は帰り道の途中にある本屋にいた。どうやら、ほぼ無意識のうちに本屋に入っていたらしい。しかも、右手には三冊ほど文庫本を持っている。おそらく無意識のうちに買うために持っていたのだろう。自分のことながら怖くなった。
どんだけ本の虫なんだよ。
結局、その三冊と新たに選んだ二冊の計五冊を買い家に帰るころには夜八時を過ぎていた。
「ただいま」
一応言うが返事はない。逆にあったら怖い。
うちは共働きなのでこの時間に家に人がいることはないのだ。食卓の上に作り置きされていた夕食をたいらげ、早々にリビングを後にして自分の部屋に戻る。カバンから読みかけだった小説を取り出してベッドに座りながら読み始めた。
元々本を読むスピードが昔から速かったのと、集中して読んでいたというのもあってか今まで読んでいた本を読み終わらせ、本日買ってきた本も三冊目に突入していこうとしていたときだった。机の上のスマホがブルルルと震えだした。仕方なく読書を一時中断して電話の相手を確認する。
『兄』
「……」
ついでに、右上に出ている時刻も確認する。
『二十四時三十分』
「……」
よし、無視しよう。
そもそも、こんな時間にかけてくる向こうが悪い。寝ている可能性だってあるのだし。
ブルルル、ブルルル、ブルルル。
「……」
ブルル。
よし、切れたか。これでまた本に没頭できると本を開いた矢先。
ブルルル、ブルルル、ブルルル。
スマホを親の仇を見るような目で見てしまったのはしかないことだろう。
「はぁ」
ため息をついて電話に出る。
「……なに」
「おいおい、ものすごい不機嫌だな」
電話越しの相手は陽気に答える。
「こんな時間に誰かさんが電話をしたおかげでね」
「そうか、困ったやつだな」
「ねぇ、切っていい」
「待て、待て、悪かったって、相変わらずお堅い奴だな」
へらへらと言ってきたこの言葉にいったいどれほどの謝罪の気持ちがあるのだろうか。おそらくゼロだろう。兄貴はそういう人だ。
「それで、用件は」
「おいおい、そんなせかさなくてもいいじゃん。久しぶりに話すんだからさ」
「二週間前に帰ってきたときに話したけど、それに今忙しいんだけど」
主に本を読むのに。
「二週間もたったら久しぶりだろ。それに忙しいつっても、どうせ本を読むのに忙しいんだっていうんだろ」
兄貴はこともなげに真相を言い当てた。
「……なんでわかったのさ」
「そりゃ、お前の兄貴だからな。というか、お前が不機嫌になるのは決まって本にかかわってるときだからな。自覚なかったのか」
「……うすうすは」
「まぁ、こういったことは得てして本人が気づいてないことが多いからな」
言った本人がうんうんと感心していた。
「で?」
「あ?」
「なんか話あるんでしょ」
「だから急かすなって、で、今は何読んでるのさ」
その本の題名を上げると「あぁ、それね」と無駄に大きく相槌を打ってきた。
「確かに、それは面白かったな」
「……」
「なんだよ、急に黙っちゃって」
「……」
向こうもこちらの無言の威圧に気づいたのか「わかったよ」と呟いた。
「まず一つ。部活はどうだ、ちゃんと存続してるんだろ」
「ああ、うん、その件についてはほんとに感謝してるよ」
そう、この点だけについては兄貴に恩がある。それ以外では散々迷惑をかけられてきているけど。幼少期から今でも。あっ、なんか思い出して少しムカついてきた。
「いいって、俺は橋渡ししただけだからよ、礼はあいつにいってくれ」
「うん」
「ちなみに、あいつは上手いことやってるのか」
「うん、たぶん学校で今一番人気の先生じゃないかな」
容姿も良いし、基本的には真面目だけれどノリが悪いわけじゃない。生徒思いだし担当している日本史の授業も面白い。それにまだ若いというのも人気の一因になっているのかもしれない。
「まじかよ」
そういいながらも兄貴の声はいくらか嬉しそうに聞こえた。
「公私ともに上手いこといってるんだな、全く羨ましいぜ」
「兄貴とは大違いだね」
「うっせ、んで、二つめな、お前たまにはこっちに遊び来いよ。一か月前にこっちにきたきりこなくなったし、遠慮する必要はねぇんだからな」
どうやら、兄貴は僕が気をつかってこないのだと勘違いしているようだ。そう思われても仕方ない間柄ではあるのだけれども、これはちゃんと正しておかないと。
「ああ、それは違うよ。だって兄貴んとこ汚いってゆうか、ぼろいから行きたくないだけ」
頭の中に一か月前に行ったボロアパートの外観が浮かび上がってくる。見るからにオンボロでいつ壊れてもおかしくなさそうで、もし幽霊とかが出てもああやっぱりなと納得できそうだ。さすがは築六十年というところだろうか。僕だったら絶対に住みたいとは思わない。しかし、兄貴は「駅から近くてこの値段だぞ、借りるしかないだろ」と、「どんなにボロくても何日か住めば慣れるだろ」と、いって嬉々として借りることにしていた。
「うるせぇよ、でもよ三日前に隣に新しく若いにーちゃん越してきたからな」
「それは兄貴と同じでお金がないからでしょ」
「まぁ、そうなんだろうけどな」
「それで、用件はそれだけ?」
壁にかけてある時計を見ると深夜一時を過ぎようとしていた。
「いやいや、これまではまぁ、いわゆる前フリだ。もちろん聞くつもりのことだったことに変わりはないけどな。もっとも重要なのはこれからだ」
兄貴が声のトーンを落とした。どうやら本当に重要なことのようだ。僕は先ほどからベッドに寝そべった状態で通話していたのを、ベッドに座るぐらいには姿勢を正して続きの言葉を待った。
「ときに、今日が何日かお前はしってるか」
「はぁ?」
もっと真面目なことを聞かれると思っていた分肩すかしを食らった感じだ。
「いいから、今日は何日だ」
「ちょっと待って」
カレンダーに目線を向ける。あぁ、なんとなく読めた気がする。
「二月十四日だけど」
「そう、二月十四日、つまりバレンタインデーだ」
僕の声に被さってくるぐらいくい気味に兄貴が言ってくる。急に大きな声を出されたせいで耳がキーンとなっている。
「で、そのバレンタインデーがどうかしたの」
もう、なんとなくというか、ほとんど読めた気がする。
「反応が薄いな、バレンタインだぞバレンタイン。旧ロッテの監督の名前じゃないからな」
「そんなこと思ってないよ」
逆に知っている人の方が少ないよ。
「で、お前はもらえそうなあてはあるのか」
一瞬、とある後輩のことが浮かびそうになったが、浮かび上がる前に自ら沈めてやった。
「別にないけど、でも今回は誰も持ってこないと思うけど」
「あぁ、あれだろ、前回のときいざこざがあったからって、今年は学校に持ってきたのがばれたら即生徒指導室いきとかいうやつだろ。どうせ生徒からも人気のない体育教師が決めたんだろ。ひがんでるとしか思えないな」
「そんなこと、よく知ってるね」
「わかってるだろ」
電話越しに兄貴が笑っている感じがした。実際にそうなんだろう。
「でもな、それだからって持ってこないわけなんてないだろ。だいたい駄目とか、禁止とか言われたら逆にやりたくなるのが人間ってもんだろ」
「いや、そんなことはないと思うけど」
「まったくこれだから真面目君は。そんなんだからもらえないんだぞ」
「五月蠅い、余計な御世話だよ」
「いやでも、安心しろ。そんなときのためにと俺が手を打っておいたから」
「結構です。間に合ってます」
「遠慮すんなって、どのみち遅いけどな、もう送ったから」
「送った、ねぇ」
やっぱり、か。
「なんだよ、反応薄いな。ここは普通「なにを?」って聞きなおすところだろう」
「どうせ、チョコ送ったんでしょ」
「おお、よくわかったな」
「そりゃあ、ね」
去年もやられてますから。自分の声が怒気をはらんでいくのがわかった。
「あっ、ちなみに着払いだから」
「これから着信拒否にするから」
「嘘、嘘、ちゃんと払ってあるから安心しろ」
「用件ってこれだけだよね。じゃあ切るよ」
「待ってくれ、最後に一言、一言だけ言わせてくれ」
何故だか真に迫った感じで言ってきたので、反省したんだったら最後に一言ぐらい聞いてやってもいいかと思ったのが間違いだったのかもしれない。
「いいよ、なに」
「……だから」
「えっ、はぁ!」
こっちが言い返す前に兄貴は電話を切っていた。僕はすぐさま手元の小説を裏から読んでいく。本来ならタブーみたいなもんだけれど、今回だけは仕方ない。
「……やられた」
兄貴が最後に言った言葉はやはりこの小説の犯人の名前だった。よく考えたら兄貴が真面目なことなんて一度たりともなかったのだから、いくら声が真に迫った感じだからって信用してはいけなかった。反省だ。猛省しなくては。
それはそれとして。このものすごい怒りはどうしてくれようか。本好きにとってネタバレは御法度だ。それなりの制裁を加えないと気が済まない。今度うちに帰ってきたときにどうにかしてやろうかとも思ったが、それではマグマのようにふつふつと煮えたぎっているこの感情を抑えられそうもない。
僕は兄貴宛にメールを作成し始めた。ちなみに、兄貴は僕ほどではないが本を読む。
「こんなもんでいいか」
字数制限ぎりぎりまでびっしりと小説の題名とその犯人の名前を書いてやった。
送信っと。
この五分後、半泣きの兄貴から謝罪の電話がかかってきた。
静かだ。放課後の部室である。本来ならそれはうれしい限りのことなのだけれど、今日に限っては何故だかその静けさが妙に怖く感じる。嵐の前の静けさとでもいうのだろうか。今日日、朝学校に来た時からずっと嫌な予感がしていたのだ。そのせいでいつもと違い、いまいち本に集中できずいつもの半分程度しか読み進んでいない。
が、どうやらそれは杞憂に終わったようだ。現在の時刻は六時四十分を過ぎたところである。もう最終下校まで二十分もない。ただ、用心することに越したことはない。今日の部活はここまでにしよう。
カバンに本を丁寧にしまい、戸締りを確認する。あとは鍵を返してさっさと帰るだけだ。
タッ、タッ、タッ、タッ。
僕の足音ではない。どうも廊下を走っているようだ。足音は一定のリズムでなっている。そんなことを考えている間にも、足音はだんだんと大きくなってきている。どうやら近づいてきているようだ。
奴が来たのだろう。
直感というよりかは、確信に近かった。文芸部の部室は第二棟一階の左端にある。隣の部屋は社会科準備室となってはいるが、実際のところは物置みたいになっており、その教室に用がある人は限りなくゼロに近いといっていい、ばずだ。そしてこちら側の階段は昨日より使用禁止になっている、つまり足音の人物の目的はこの文芸部の部室ということになるのだ。そして、文芸部の部室に用がある生徒は僕を除いて一人しかいない。それが奴なのである。
僕は奴がこの部室のドアを開けるよりも先に内側から鍵をかけた。そのすぐ後にドアがビクッっと動いた。
「あれぇ、先輩いないんですか」
そう言い、奴はドン、ドンっとドアを叩く。僕はできる限り気配を消し、息を殺して相手が去るのを待つ。
「職員室に鍵がなかったからいると思ったんだけどな」
奴は残念そうな声を上げている。よし、いいぞ。このまま去ってくれ。
「もしかして、行き違いになっちゃったのかな」
僕の祈りが通じたのか奴は去って行ったようだ。足音が次第に小さくなっていく。ほっと胸をなでおろす。奴にかかわるとろくなことにならないのだ。鍵を外し、ドアを開けて廊下に出る。
「やっぱり、いたんじゃないですか」
一瞬、心臓が止まるかと思った。僕は古びた機械みたくギッ、ギッ、とどこかから聞こえそうな動作で声のした方にゆっくりと顔を向けた。
「……どうして」
顔が引きつっているのを感じながら奴に尋ねる。
「やだなぁ、先輩」
奴は答える。
「あんな独り言、いうわけないじゃないですか」
そういって、奴、佐藤由香はにっこりと笑った。
「チョコが消えたんですよ」
再び部室の中に戻され、しぶしぶ椅子に座った途端、佐藤は目の前の長机をばんっ、と叩いた。ほんのちょっとだけビクッっとなったことはばれてないようだ。
「そうか」
相槌を打ちながらカバンの中から小説を取り出す。
「ええ、そうなんです」
佐藤は流れるような動きで僕の手から小説を奪い取る。
「それで、先輩にそのチョコを探してほしいんですよ」
「わかったよ、じゃあ明日から探すからとりあえずその本を返してくれ」
僕の伸ばした手を佐藤はペシッっと叩いた。
「先輩全然わかってないじゃないですか。今日見つけないと駄目に決まってるじゃないですか」
「今日って言ってももうほとんど時間ないけど」
うちの学校の最終下校は七時、今の時間は六時四十五分だからあと十五分。その間にチョコを見つけ出せというのはいささか無理じゃないだろうか。
「それでもやるんです。そもそも、これはうちの部活に持ち込まれた依頼ですから」
えっへん、という擬音が見事に当てはまりそうに佐藤は胸を張って答えた。
「そうですか、頑張ってください」
「なに言ってるんですか、だからこうやって先輩のところに来たんですよ」
「いや、自分、文芸部なんで」
この際、奪われた本は涙を呑んで後日取り返すことにして、今はこの状況から脱出しないと。このままじゃいつものように厄介ごとに巻き込まれる羽目になる。
「それこそなに言ってるんですか、先輩。先輩は我が『推部』の副部長でしょ」
「副部長になった覚えないぞ」
言った瞬間にしまった、と思った。現に佐藤はにっこりと笑っている。
「副部長になった覚えはなくても『推部』に入ってることは認めるんですね」
これはもう、僕の負けだ。
「はぁ、……短めに説明してくれ」
「わかりました先輩」
佐藤はそういって今日一番の笑顔をみせた。
推部。正式名称は『推理研究部』。推部というのはその推理研究部の部長である佐藤が流行らせようと画策している略称である。どうやら、彼女は同じ略称のある部活の知名度を上手いこと利用しようとしているらしい。確かに『すいぶ』という響きだけならほとんどの学校に存在しているはずだろう。主に音楽室で活動しているあの部活を指す略語ではあるが。僕は絶対に浸透しないと思っていた。ところが、前にあった一件あたりからかちょっとずつではあるがこの推部というのが学校中に浸透し始めている。ありえないという驚きもあるが、本家の方から苦情がこないか若干気にしていたりする。
活動内容はいまいちよくわかっていない。しいて挙げれば佐藤がどこからか受けてきた依頼を推理するということになるのだろうか。基本的にはよくわからない部活なのだ。そして、あろうことか僕はその推部なるものに入部していることになっている。不本意ながら。本当に不本意ながら。
しかも、である。文芸部が部室を今まで通りに使用するためのあの条件というのがこの推部との部室のシェアなのである。最悪というほか、言いようがない。
「事件が起こった場所はこの第二棟四階の一年五組の教室です。だからちょうど部室の真上になりますね」
佐藤は長机を挟んだ向かい側に座り、話し始めた。しかしながら、僕の意識は話よりも彼女の目の前に置いてある本に向かっていた。視線に気づき彼女は呆れたような表情を浮かべた。
「話をちゃんと聞いてもらうための人質が逆に先輩の集中をそぐことになるなんて」
「じゃあ、返してくれないか。そうしたら集中して話も聞けると思うし」
「嫌です」
即答だった。
「話を続けますよ。チョコの持ち主はそのクラスの子で三上涼さんって言います。えっと、背が高くて茶髪にしてる子なんですけど」
名前を言っても伝わらないことに途中で気づいたのか、佐藤は少し考えてから付け足すように彼女の特徴を伝えてきた。彼女の言葉から連想して三上の輪郭をかたどっていく。
「ああ」
たぶんあの子だろう、という推測ができた。学年が違っていても廊下なり、階段なりですれ違ったことがあるからだろう。それにうちの学校に茶髪の子はあまりいないのだ。
「それでですね、三上さんはチョコを渡すために放課後の教室で友達二人とおしゃべりしながら待っていたそうです。そのとき時間は六時四十分あたりで、教室には三上さんとその友達二人以外いなくて、なくなったチョコは三上さんの机の上に置いていたらしいです。そうそう、チョコの大きさはこれぐらいらしいです」
佐藤は両手の親指と人差し指で輪を作って見せた。
「それでですね、三人がトイレにいって帰ってくると机の上にあったチョコがなくなっていたらしいんです。三人がトイレにいっていた時間は五分程度で、そのときほかのクラスだと隣の四組に三人と一組に二人生徒が残っていたらしいです。で、ですね一組の子たちがいうにはこの時間帯で階段から上がってきた生徒はいなかったし、なにか変わったこともなかったそうです」
「それじゃ、犯人はそのとき四階にいた子たちの中にいるんじゃないか」
それならすぐに犯人が分かる気がするけど。その子達の荷物なりを調べれば出てくるものだと思うのだが。そんなことよりもいまはどうやって奴の手から本を取り返すかの算段を考えなくては。
「いいえ、問題はここからなんです」
かぶりを振り佐藤は続きを話し始めた。時刻は六時五十分を過ぎようとしていた。
「四階にいたその子達全員チョコなんて持ってなかったんですよ」
「……ふ~ん」
「ちょっと、先輩。真面目に聞いてます?」
「聞いてるよ、じゃあ犯人は逆側の階段を使ったんじゃないか? 使用禁止になってはいるけどカラーコーンが置いてあるだけだし、使えないってことはないだろう」
「無理ですね」と佐藤は僕の案を一蹴する。
「三階は三年生の教室ですよね。今の時期三年生は受験で午前中には学校が終わってます。だから、人がいたらそれだけで目立ちますし、その状態で階段を上るなんて真似はしないと思います。それに二階は文化系の部室が並んでありますし、その中で誰かがその使用禁止の階段を使ったらばれるんじゃないですか」
「じゃあ、この一階を使ったんじゃないか。僕は部室のドアを閉めて本を読んでたんだから気づかなかったのかもしれないし」
「それも、無理です。彼女たちが教室にいなかったのは五分程度です。その間で一階から四階までいくには走らないと無理です。先輩ならもうこれでわかりますよね」
「足音か」
佐藤はコクンと首を縦に振った。
「そういうことです。ここは基本的にいつも静かです。それでいて先輩はうるさくするでもなく本を読んでいたんです。そんな中で階段を走ると必ずその足音が響くから先輩は気づいたはずです」
「それじゃあ、そうなると……」
コン、コン。
僕の言葉を遮るように二回ノックされる音があってからドアが開きそこから春日先生が現れた。時計を見るともう五十五分を過ぎようとしていた。
「もうすぐ最終下校だから帰るようにね」
僕らが了解の意の言葉を述べると春日先生はすぐに戻っていった。
「なぁ、二つほど聞いていいか」
佐藤に尋ねる。
「なんですか」
「依頼してきたのはその三上本人がか?」
佐藤は首を横に振る。
「いえ、依頼を受けたのは三上さんの友達からです」
「じゃあ、この話はその友達から聞いたのか」
「そうですね、ほかのクラスの子には私が聞いたりしましたけど」
「そっか」
なるほど、読めたな。
「ちょっと待ってくださいよ、先輩」
ちっ、撒いたと思ったんだけど。学校からの帰り道にあるいささか寂れている一本道の商店街に入ったところで佐藤が追い付いてきた。僕も男であるから今からでも本気で走れば撒くことは可能だろうだけど、あとのことを考えればここでおとなしく捕まっておいた方が賢明だろう。
「チョコは返してもらったのか」
「はい、返して、もらって、三上さんに渡しましたよ」
「そうか、それでなにか用か」
「なにって、……なにって、じゃ、ないですよ」
息切れでブツ切りになりながらも佐藤は言葉を紡ぐ。体力の限界なのか膝に手をついて荒い息を繰り返している。
「教えて、くださいよ。どうして犯人が、春日先生だって、わかったんですか」
佐藤はじっと僕の目を見つめてくる。きっと言うまでずっと聞いてくるんだろうな。佐藤はそういう奴だ。
「わかったよ、いいか―」
「待って、待ってください」
手の平を僕の前にかざし言葉を遮る。
「少し、休憩させてください」
佐藤が呼吸を整えているその間、暇だったので商店街を見渡してみた。すると、僕がまだ小学生ごろに利用していた駄菓子屋のシャッターが閉まっているのを発見した。ここからでは文字の内容まではわからないがシャッターの真ん中あたりに張り紙がある。たぶん、閉店してしまったのだろう。僕が通っていたときから繁盛していると思えなかったし。特に愛着があったわけでもないのだが、なぜだか幾分寂しく感じた。
僕がその駄菓子屋に行っていた頃のことを頭の中から引っ張り出そうとした瞬間に、「先輩」と佐藤に袖を引かれた。どうやら、思い出に浸るのはまたの機会になりそうだ。
「あらためて、それじゃあ先輩、教えてください。どうして、犯人が春日先生だってわかったんですか」
佐藤は尋ねてくる。
「別に、ただの消去法みたいなものだよ。あのとき四階にいた生徒たちはチョコを持っていなかった、つまり犯人ではなかった。となると、犯人はほかにいることになる」
佐藤は僕が話し始めてからずっとこっちを見続けている。歩きながら話しているので多少は前を見た方がいい、と言ってやりたいが、随分と真剣に聞いているみたいでなかなか言い出せない。どうしようか迷っていると視線がさっさと続きを話せと催促してきたので仕方なくそのまま話を続けた。
「一組の子の階段を上がってきた生徒はいないといった。生徒はいない、と。ということは、犯人は生徒ではない。学校の中で生徒じゃない人といえば教師ぐらいだろう、したがって犯人は教師のうちの誰かになる。そう考えれば犯人は春日先生しかいなくなる」
「質問させてください」
僕が一拍置いたところにすかさず佐藤が声を上げる。
「じゃあ春日先生はどこから四階にやってきたんですか」
「普通に階段を上がってきたんだろう」
「それって、おかしくないですか。だって確かに一組の子は階段を上がってきた生徒はいないって言いましたけど、それ以外にもなにも変わったことはなかったとも言っているんですよ。なのに、放課後に先生が第二棟四階の教室に来ることなんておかしいじゃないですか、職員室は第一棟の三階にあるからいく必要もないし」
「佐藤、お前、文化祭とか特別な日以外で最終下校ぎりぎりまで学校にいたことあるか?」
「いえ、ないですけど」
「だから、おかしいと感じるんだろう。けど、それがこの話の鍵なんだ。その一組にいた子たちはけっこう最終下校まで残ってたりするだろう。だから春日先生が階段を上ってきても変だと思わなかった」
「どういうことですか」
「見回りだよ。最終下校近くになると当番の先生が校舎内を見て回るのさ」
昨日、部室に誰もいないことが分かった上で春日先生が部室の方に行ったの、顧問として様子を見に来たのではなくて、ただ単に見回りの最中だったのだろう。
「そのとき、誰もいない教室で春日先生は机の上に置いてあるチョコを発見したんだろう、今年は去年のことがあったせいでバレンタインのチョコについて厳しくなってる。持ってきたのがばれから一発で生活指導の対象になってしまう。それは可哀そうだと思った春日先生はそのチョコを持っていったんだろうだろう。幸いチョコはあまり大きくなかったから、スーツのポケットに隠せたみたいだし。後でそのチョコを忘れた生徒を探そうと思ってね」
「……なるほど、わかりました、納得です」
佐藤は大きく目を見開いてからやがて笑顔を見せた。
「さすがは先輩です。推部の副部長だけあります」
「だから、副部長じゃないし」
そうこうしているうちに商店街を抜けた先の十字路についた。
「それじゃあ、先輩私こっちなんで」
佐藤はちょうど青信号の横断歩道をタッ、タッ、タッ、とリズムよく進んでいく。がその途中でくるりとこちらに向き直り、「先輩、はいっ」といって何かを投げてきた綺麗な放物線を描いたそれを僕はしっかりとキャッチする。みればそれはコンビニとかでよく売っている小さなチョコだった。
「依頼達成の報酬です。ほかの子にあげたのは十円なんですけど、先輩のだけは二十円なんですよ」
「……そうか」
差引十円。それが僕の推理の価値のようだ。
「あー、先輩も微妙な顔するんですね。折角あげたのに、なんで貰った人みんな微妙な顔するんですかね」
それはおそらく、十円のチョコだからだろう。
「まぁ、いいです、それじゃあ先輩また明日です」
肩のあたりにまで伸ばしてある髪を揺らしながら佐藤は去って行った。僕も佐藤とは反対方向に足を進める。
にしても、今日は疲れたな。
一つ、思ったこと。やはり奴にかかわるとろくなことがない。もう家までもうすぐとなったところで佐藤からもらったチョコを口の中に放り込んだ。甘いんだろうなと思っていたが、僕の味覚が感じたのは強烈なまでの苦みと渋みだった。あわてて、包装紙を見る。そこには『カカオ90%』と書かれていた。微妙な顔をしていたのは値段ではなくてこっちのことだったのだ。
はぁ、思わずため息がこぼれた。
チョコが嫌いになりそうだ。
翌、二月十五日。教室に入り廊下側最後尾の自分の席に座ると、いきなり後ろから抱きつかれた。いつものことなので、無言でそれを引っぺがす。
「おいおい、少しは反応してくれよ」
斉藤はワックスで固めた頭を直しながら僕の前の席に座る。
「いい加減、反応するのも、面倒臭いんだけど」
「まぁまぁ、そんなことより、だ。また事件解決したんだろ」
斉藤はずいっと上半身をこちらに寄せてくる。正直、うっとうしくて仕方ない。
「どこで知った、そんなこと」
カバンから教科書などを取り出して机の中に入れ、小説の続きを読んでいく。
「まぁ、俺の情報網を舐めるなってことだ」
そういい、斉藤はにやりと笑みを浮かべた。
「そうか」
一瞥してまた小説を読み進める。次のページに向かおうとしたところで本の上に手を入れられた。
「だから、反応しろって」
へらへらとしながらいってくる。どうも、僕はこういった奴に好かれる傾向があるようだ。自分の体質を呪いたくなる。
「さすが推部の部長だな」
「部長じゃないから。というか、推部って呼称、浸透してんの?」
前々から気になっていたことをこの際聞いてみた。斉藤は両手を組み「うーん」と唸り、しばしの時間を費やしてから回答してきた。
「そうだな、大体、全校生徒のうち三割は知ってるんじゃねぇかな」
「三割……」
つまり、三人に一人はしっていることになる。朝から憂鬱な気分になる。知っている人が増えれば増えるほど、佐藤に依頼するという可能性が上がる。ということは、そのとばっちりが僕に飛んでくる可能性もおのずと上昇する。迷惑極まりない。
「そんなことより、やっぱすげぇよ、お前のその推理力は。名探偵と呼ばれるのをそう遠くないかもな」
「そんなことはない」
斉藤が冗談で言っているのも、その中に何割か本気でただ単にすごいと思って言ってくれている、称賛であることも頭ではちゃんと理解していた。しかし、まずい、と思った時にはすでに遅く、僕の声はクラス内に響いていた。斉藤も驚いているのか固まってじっと僕を見つめている。周りのクラスメイト達も何事かと一斉にこちらに顔を向けてきた。幾重もの視線が僕のもとに集まってくる。
「悪い、悪かった」
我に返った斉藤が謝ってくる。
「いや、こっちこそ急に大きな声出してごめん」
なんだ、ただの喧嘩みたいなものかとクラスメイト達は一人、また一人と視線を外してもとの会話に戻っていく。が、完全に興味を失ったわけではないようで、ちらちらとこちらの様子を窺ってきていた。
「ともかく、さすがでもなければ、すごくもないんだよ」
意識的に小さい声にして斉藤に語りかける。
「推理なんて、人が隠していることを勝手に暴き立てる最低の行為だよ」
じゃあ、と斉藤が言う。
「なんでお前は推理をしてるんだ」
「それは……」
頭にあの光景がフラッシュバックされる。
僕ら以外誰もいない放課後の教室。あの時はまだ春だったこともあり、西日が窓から差し込んできていた。
僕の数歩先に彼女は立っていた。窓の方を向いていたから僕からは背中しかみえないけれど、僕は彼女が泣いているのを知っていた。彼女から嗚咽をこらえる声も、鼻をすする音も聞こえていたし、体も小刻みに震えていたから。
彼女を泣かせてしまったのは、傷つけてしまったのは僕なのだ。
この世の中には知らなくてもいいことがたくさんある。僕は彼女にそれを突き付けてしまったのだ。僕が突き付けた真実は鋭利な刃物みたいに彼女の胸に深く突き刺さった。僕は、そのときになるまで、彼女が泣くまで、自分の過ちに気づくことができなかった。
やがて、泣き止んだ彼女はこちらが痛々しいと感じるほどの満開の笑顔を僕に向けて……。
「責任があるんだ」
そう責任がある。だから今回のことも責任を持たなくちゃならない。
二階から一階に降りていく階段の踊り場で春日先生とすれ違った。軽く頭を下げたけれど春日先生は気づかずそのまま階段を上っていった。いつも欠かさない笑顔もなく、こちらが怖いと思ってしまうぐらい真面目な顔をしていた。その理由を僕は既に知っていた。
部室前の廊下に彼女は立っていた。女子の中では背が高い部類に入るのだろう、ヒールなんかを履いたら僕よりも背が高くなりそうだ。肩口まである髪は校則違反であるにもかかわらず茶色に染めてある。名前を知ってからその姿を見るのはこれが最初だろう。僕は部室に歩いていく。
「盛田先輩、ですよね」
三上涼の声は僕のイメージよりもずっと優しく透き通るような声だった。
今年に入って、部室に僕と佐藤以外の生徒が入ったのは三上が初めてになる。いつもの席に僕が座り、佐藤がよく座っているところに三上が座って長机を挟み向かい合う形となった。まず、と三上が切り出す。
「ありがとうございました」
三上は丁寧に頭を下げた。
「お礼を言われるようなことはしてはないよ」
「いえ、筋は通さないと、お礼は必ずします」
見た目は悪そうだが、中身はいい子なのかもしれない、と思った。
「別にいいから、本当に」
そもそも、お礼をされるようなことをしてないのだ。
僕がそう言ったところでドアがガラガラと音を立てて開き佐藤が入ってきた。
「ちわー、おっ、三上さんもいたんだ。ようこそ推部の部室へ」
無駄に大きなアクションをつけて言ってから僕と三上の間辺りに腰を下ろす。
「佐藤もありがとう」
「いいって、それよりさ、三上さん部活入ってないよね。よかったら推部に入ってくれない。名前だけでもいいからさ、お願い」
三上にぐっと近づき両手を合わせてお願いのポーズを取っている。
「おい」
佐藤をたしなめようとするが、佐藤はこちらに向き直って言い放つ。
「だって、先輩、もう四月まで時間ないんですよ。四月までに部員を三人以上いないと廃部になっちゃうんですよ。去年はなんとかなったけど今年はどうなるかわからないですし」
そう言われてしまうとこちらは何も言い返せなくなる。確かに佐藤の言う通り今年も文芸部を存続させてもらえるとは限らない。人数がいなければ廃部案がまた上がってくる危険性もある。
「ねっ、だからお願いします」
佐藤は再び三上に向き直り懇願する。
「いいよ、わかった」
三上はあっさりと承諾した。
「いいのか」
「いいんですよ。先輩の部活の方にも入りましょうか」
「いや、でも」
「入ってもらっちゃえばいいんじゃないですか先輩、そんなこと言ってる場合じゃないでしょう」
佐藤が煽ってくる。その通りなのだけど。答えに迷っているのを察したのか三上が言葉をかけてくる。
「じゃあ、これでお礼ってことにしますよ、それならいいですよね」
「先輩、ここまで言ってくれてるんですよ」
「……わかった、ありがとう」
「いいですよ」
それに、と続け三上はカバンから小説を取り出して見せつけてきた。今話題の恋愛小説のようだ。
「本、嫌いじゃないんで」
気づけば、いつの間にか三上の両手を握っていた。
三上はキョトンとしていたのち、手を握られていることに気づき少しだけ頬を赤く染め始める。しかし、そんなことはどうだっていい。
「そうだよね、本はやっぱ最高だよね」
「はい?」
三上の顔に困惑が浮かぶ。だが、僕の言葉は止まらない。止められない。
「本読んでるとさ、たまに『僕も本結構読むよ』なんて言ってくるやつがいるんだけど、じゃあ今持ってるって聞くと『いまは持ってない』とかいうやつが多いんだよね。それで本好きとか言ってるんじゃねぇ、って感じだよね。それに学校だって……」
三上は困惑の色を強くして、視線で佐藤に助けを呼ぶ。
「先輩はスイッチはいっちゃうとこうなっちゃうんだよね」
佐藤は笑いながら言った。
「はいはい、先輩。私も入ってあげましょうか。そうしたら三人になりますし」
落ち着きを取り戻した僕に、手を上げながら佐藤が言ってくる。佐藤が入ればとりあえず廃部の可能性は無くなるが、代わりに厄介ごとに巻き来れる可能性は上がることになる。どうしたものか。熟慮したのち、僕は声を出した。
「ああ、頼む」
「ただし、条件があります。先輩が副部長を受けてくれたら入ってあげます」
間髪言わずに言ってくる。最初からこのつもりだったのだろう。佐藤の笑みはまるで白雪姫に出てくる悪い魔女のようにみえた。
「佐藤はどこ行ったんですかね」
「さあな、校舎内でもぐるぐる回ってるんじゃないか」
あれから数十分経って、僕と三上が本を読み始めてから佐藤は「暇です」と言い残して部室から出て言ってしまった。
「先輩」
「なに」
「知ってますよね」
その言葉にどういった意味があるのか僕は理解していた。彼女はこう聞きたいのだ、真実を知ってますね、と。小説を閉じ、三上を見る。
「先輩の推理を佐藤から聞きました」
「そっか」
「先輩に会う前、春日先生に会いました。先生、六月に結婚するって言ってました」
三上の声がくぐもってきた。
「そっか」
「駄目だってわかってたんですけど、それでもキツイもんなんですね」
「そうだな」
三上は明らかに泣いていた。僕の目の前で泣いた子はこれで二人目だ。僕はまた何もできずにいる。
三上のチョコが消えた件。僕が佐藤に告げた推理には嘘が混じっている。あの件に犯人なんていない。三上はただ意中の人物にチョコを渡しただけなのだ。
三上は春日先生が好きだった。そして、バレンタインにチョコを贈ろうと決めた。しかし、それをほかの生徒にばれるわけにはいかない。そのとき、三上は春日先生が今週見回り当番であるのを知り、一計を案じた。春日先生が見回りで四階にくる時間を調べ、その時間の近くになったら友達とトイレに向かう。おそらくその際、チョコにメモでも挟んだんだろう。そして、やってきた春日先生がチョコを受け取る。だから、チョコが机の上に置いてあったのだ。
誤算だったのは彼女の友達がチョコが消えたと騒ぎ、佐藤に依頼したことだろう。
「先輩」
三上は何かを差し出してきた。受け取るとそれは半分に割られたチョコだった。もう半分は三上が持っている。二つを足したらちょうどハートの形になりそうだ。
「一人じゃ食べきれないんで、食べてもらえませんか」
三上はそういって一口かじる。僕もそれに倣いチョコを口に運ぶ。机の端に箱が置いてあった。親指と人差し指で作った輪ぐらいの大きさの。
「思ったより、甘くないんですね」
三上はぽつりと溢した。僕は何も答えず、チョコをひたすら消化していく。
本格的にチョコが嫌いになりそうだ。