欠けているもの
この物語は、ずいぶん昔に書いたものです。それで、投稿する前に少し手を加えたのですが、文章を削るよりも追加する方が多かったです。
読み返していると、おもしろおかしく読んでもらおうとあれこれ悪戦苦闘しているのが伝わってきましたね。神田の奇妙な行動も、その工夫のひとつだったような気がします。
「じゃあ、一君は宮野君の弟なんだ。」
僕らは近くのファミレスで昼食をとることになった。言うまでもなく、予定外のイベントだ。ファミレスに音楽が流れていないことも、非常に残念だ。
「間抜けな弟だ。」
「一なのに弟なんだ。おもしろいね。」
女神は微かに笑った。女神が笑う度に、周りの澱んだ空気がパッと明るくなる。この人は全ての男性に好かれるのではないか。そして、この人を求めて争いが起き、この人の笑顔で、世界に平和が訪れるのではないか。そう思ってみたりする。
「おい、何見とれているんだ。」
「ご、ごめん。」
兄貴の指摘に、神田と僕が同時に答える。
「お前じゃない。」
どっちだよ。神田を見る。神田もこちらを見る。互いに首を傾げる。
「ところで、女神様の名前は何?」
神田は単刀直入に尋ねた。女神は目をわずかに開き、驚きの表情を見せたあと、兄貴に小声で言った。
「女神って、まさか私のこと?」
ああ、そうだが、と兄貴が返答すると女神は兄貴の肩を軽く叩いた。二人は笑い合う。アダムとイヴが禁断の果実を食べたあと、自らが服を着ていないことを恥じたというが、女神も恥ずかしがるんだな、と思ってみたりする。
「アイって言うんだって。」
兄貴とアイちゃんがじゃれているので、僕が代わりに神田に教えた。神田はふうん、と小さくつぶやいた後、水を飲んだ。ごめん、それ、僕がさっき飲んでいたやつじゃないか?
「すいません。勝手についてきて、邪魔したりして。」
ちなみに、『勝手に』ではない。兄貴がこっちを見た。続いて、アイちゃんがこちらを見た。
「すいません、邪魔して。」
しばらくの間、どちらからも反応がなかったので、表現を変えてもう一度謝った。神田は腕を組んだまま、女神を見つめている。お前も謝れよ。
「いえいえ、そんなことないですよ。」
女神は、にこりと笑う。そこに余計な感情はない。いっそ、ここで激怒してもらったほうが楽だった気がする。性格も完璧だと、なおさら女神と呼ばざるを得なくなる。
「なんて寛容なんだ。おまえら、感謝しろよ。」
いや、感謝するのはお前のほうだろ。なんで、兄貴がその人の隣にいるんだ。そんな男の、一体どこがいいというんだ。
「よかったね、一君。失敗を見逃してくれるってさ。」
ありがとうございます、女神様。
「それに、一君と神田君、おもしろいし。」
そこで、アイちゃんがほほ笑む。本当に幸せそうに笑うんだな、この娘。申し訳ないのだが、僕らの学校にはこんな笑い方をする女の子はいない気がする。念のため、もう一度言う。申し訳ない。
「じゃあ、そろそろ俺らは行くわ。映画まであまり時間がないし。」
兄貴は腕時計を見ると、そそくさとその場から立ち去ろうとする。アイちゃんは兄貴と僕らを交互に見つめ、申し訳なさそうな顔をする。
「こんなことになるんだったら、人数分チケット買っておくべきだったね。」
それを聞いて、僕は慌てて首を横に振った。これ以上あなたと一緒にいたら離れられなくなるような気がする。そしてそれは、少なくとも今はよくないことのように思える。兄貴の刺々しい視線を感じる。
「いや、僕たちはこの後用事があるので―」
僕は神田を横目で見る。反論してくるかとも思ったが、神田は神田で納得したらしい。腕組みしたまま黙っている。
そうなの、とアイちゃんは呟き、席を立った。もう少し、粘ってくれてもよかったのに、と思ってみたりする。
「じゃあ、またね。」
アイちゃんは小さく手を振った。兄貴と女神の背中を目で追う。
「本当に、女神を彼女にしたのか―。」
信じがたいが、あれを女神といわずして何という?僕は、神田を見る。神田はいなかった。
「まさか……」
視線を兄貴と女神のほうに向ける。しかし、そこにもいなかった。おかしいな、じゃあ一体どこへ?
「ねえ、一君。女神についてどう思う?」
正面を向くと、神田が座っていた。瞬間移動か?しかも、いきなりどうって言われても。第一、「女神」そのものについての質問なのか、アイちゃんのことなのか、よく分からない。言葉に詰まっていると、神田から口火を切った。
「普通じゃないよね。」
確かに、あの魅力は普通じゃない。しかし、神田の顔には女神に魅かれている感じはなく、疑問を持っている感じだった。顎の下に手を当て、さながら探偵が考え事をしているような仕草をした。
「アイちゃんには何かが欠けている。この違和感は、そんな違和感だ。」
欠けている?そりゃ、アイちゃんも人間だから、なにか欠点はあるかもしれない。でも、少なくても、今見た感じでは問題はなさそうだった。むしろ、完璧だ。
「それって、兄貴が騙されているってこと?」
神田が腕組みした。もしかしたら、僕らみんな騙されているかも、とつぶやいた。
「まあ、それはおいおい分かってくるでしょ。それより、早く僕らの用事を終わらせよう。」
「用事?なにかあったっけ?」
不意をつかれたので、予想以上に情けない声が出た。神田は頭をかいた。心底困っているようだった。
「さっき、君が自分で言ったんじゃないか。まさか、統君から何も聞いてないわけ?」
僕はうなずいた。それと同時に、嫌な予感が頭をよぎった。
「次のデートの段取り。次は失敗しないようにしなきゃ。そうだろ、一君。」
ふと、机の上に置いてあるレシートが目に付いた。嫌な予感は的中した。三千円で足りるだろうか?