万有斥力
一応、指摘しておきますが、万有斥力なんてものはこの世に存在しません。そもそも、万有引力が存在しておきながら、その反対の力も存在したら、力が相殺されてしまうはずです。
しかし、この「万有斥力」、物語の上では重要だったりします。嘘なのですが、フィクションだと思って頭の片隅に残しておいてください。
「神田君と兄貴はどうやって知りあったの?」
場所は、CDショップの近くの喫茶店にうつる。この質問は、さっさとするべきものの部類に入ると思われるが、しばらく兄貴と神田君との間で会話が続き、コーヒー一杯飲み終わり一息ついたところで、やっと言いだせた。この喫茶店にもBGMが流れていたが、どうも、クラシック音楽には僕の心は共鳴しないらしい。音が右から入って左から出ていくとは、まさにこのことだ。
「なんだよ。さっきから黙っていると思っていたらそんなこと考えていたのか。」
「いきなり、『神田だ』とか言われても困るだろ。会う約束していたならあらかじめ教えろよ。」
それを聞いていた神田は、目は無表情だったが口元が笑っていた。
「悪かったよ。」
そう言ってはいるが、悪びれている素振りは微塵も見せない。
「いや、神田君には言ってないんだけど・・・」
「お前、初対面の人にそんなこと言っていいのか。」
「僕はさっきから兄貴しか責めてないし、これからもそうさせてもらう。」
そこで、神田は思わず笑ったようだった。クックと短い笑い声が聞こえた。
「君たち、面白いね。」
次の瞬間、兄貴と目があった。兄貴の眉間には皺があり、怪訝そうな表情だった。きっと、僕も同じような表情をしていたに違いない。僕らは自然と笑いだした。
「僕は高校二年生。出来れば、学校名と場所は聞かないでほしい。好きな食べ物はアイスキャンディー。」
神田がいきなり自己紹介を始めたかと思うと、急に止まった。神田の視線の先を見ると、僕が先程買ったCDが入った袋があった。
「それ何?」
「ああこれは・・・」
「神様の音楽と声が収録されたCDだってよ。」
なぜ、お前が言う。そして、その説明は間違ってはいないかもしれないけれど、あんまりだ。
「見せてよ。」
僕は袋を神田に渡すと躊躇なく袋からCDを取り出した。そのCDを目にしたとき、神田の目がわずかに大きくなった。なんだか幼いな、直感的にそう思った。
「君、このバンドのファンなの?」
「ファンなんてもんじゃない。こいつはこいつらのCD全部持ってて、毎日聞いている。一種の狂信者だよ。」
だからなんでお前が言う。そして、全部は持ってない。
「そうなんだ。実は、僕もそうなんだ。弟くん、いい趣味しているね。」
そう言ってしばらく神田はそのCDを眺めていた。「そうか、まだいたのか」とか、「これ、欲しいな」とかつぶやいていた。趣味は音楽鑑賞だな。なぜなら、君はヘッドホンしているから。
「『万有引力』ってあるじゃん。」
後から注文したカフェオ・レを一気に飲み干した後、いきなり神田が切り出した。なぜ万有引力なんだ?
「リンゴの話だろ。」
「すべての物体の間には引力が働く、ってやつだよね?」
「すべて?現時点で俺とおまえは離れているじゃないか。引力は働いていない。」
「それは、僕たちが軽すぎるから、働く力が小さいだけなんだ。」
次の瞬間、神田は微かに笑った。そうか、と小さくつぶやいたように見えた。そんなことをいうのなら、なんで地球と太陽は離れている?あれだけの重さのものだったら、引力が働くはずだろ、と口を尖らせる兄貴を横目に、神田は話を進める。
「話を戻そう。僕が言いたかったことは、引力があるなら斥力があってもいいじゃないのってことだよ。」
「万有斥力?」
反重力みたいなものか?
「神田に言いたいことがある。」
兄貴のはっきりした声が聞こえる。万有斥力なんてものは、多分ないよ。
「斥力ってなんだ?」
それ、堂々ということか?神田は、僕に視線を向けてきた。君は知らないはずはないだろ、説明してやってよ、とで目で訴えているようだった。まるで、子供の無知を責められた保護者のような気持ちになった。
「引力と反対の力だよ。つまり、反発しあう力のこと。」
「なんでも近づきすぎると、反発しはじめて距離が離れるんじゃないかって思ったわけ。」
これだけの説明だと、兄貴はさっぱり理解できなさそうだったので、説明を加える。
万有引力の大きさは、質量に比例し、距離の二乗に反比例する。だから、距離が近くなるにつれて、力は大きくなる。つまり、神田が言いたいことは、万有斥力というものが存在すると仮定したとき、同様のことが成り立つはずで、近づけば近づくほど反発するようになるはずだということを手短に説明した。
「それはない。」
そう断言する兄貴は、自信に充ち溢れていた。こういうときは、いつもろくなことを言わない。
「俺と神田は反発していないからだ。」
やっぱり。それは兄貴と神田との間がかなり離れているからかもしれない、と何となく思ってみたりする。
「ところで」
ここで話を戻さないと本題が宇宙のかなたに消えてしまいそうだ。
「本当の目的は何だ、兄貴。」
神田が兄貴を見る。その顔は、「なんだ、それも話してないのか」とも捉えられるし、「何の話だろう」と疑問を持っているようにも見えた。兄貴は大きく咳払いした。嫌な予感がする。
「おまえら、女神を見たくないか?」
「やっぱりか。」
つい声に出してしまった。
「何が?」
「どうせ、デートの手伝いだろ。」
神田は興味が失せたのか、窓の外を見ていたが、僕が神田を見るとすぐ視線をこちらに戻した。
「おまえ、さっきからそればかりじゃねぇか。そんなに羨ましいのかよ。」
兄貴の顔に勝利の笑みが浮かぶ。その勘違いが、どうにも癪だった。
「だってそれ以外ないだろ。」
兄貴は2、3度大きく首を横に振った。しかし、その顔は先程から見せる、彼女、否、女神のこと思っているために見せる笑顔だった。神田はまた窓の外に視線を戻している。
「手伝いはしなくていい。ただ、おまえらがどうしても女神を見たいって言うなら見せてやろうと言っているんだ。」
「写真か何かあるの?」
いきなり神田の声が聞こえてびっくりした。しかし、その声に興味は微塵も含まれておらず、惰性で聞いた感じだった。
「いや、ない。俺がデートしているところを、こっそり見ていてほしい。」
「そんな馬鹿な。彼女にばれたらどうするんだよ。」
僕は思わず、机を両手で叩きそうになる。おそるべきことに、兄貴はこの無神経さを自覚していないようだった。僕の反応に、眉一つ動かさない。
「彼女じゃない、女神だ。いい加減覚えろ。大丈夫だ。俺らを見て親戚と思う奴は一人もいない。他人のふりしていればいい。」
そう言うと、兄貴の視線は一瞬神田の方に移る。しかし、神田は兄貴の話を全く聞いていないようだった。
「それでも、ずっと後をついていったらあやしいだろ。」
そこで場の空気が変わった。店のBGMがモーツァルトからショパンに変わった、ということはさっぱり分からないのだけれども、それくらいの変化はあった。兄貴は口を開けたまま静止している。さっきまでそっぽを向いていた神田が、僕を見て口元だけ笑わせている。
「お前、そんなことするつもりだったのか。」
兄貴が固まった口をかろうじて動かす。その様子はまるで、餌を求める鯉のようだった。神田が声を漏らして笑い出した。ここで初めて神田は全ての事情を知っていること知った。
また、早とちりをしてしまった。僕は、おそるおそる神田の方へ顔を向ける。
「神田君は承諾したの?」
「一部分でいいよ、僕は。そうだろ、弟君。」
ところで名前は何、とついでのように聞いてきた。一と答えたら、神田はまた笑いだした。
「分かった。統一して覚えておくよ。」
ちなみに兄貴の名前は宮野統。僕が次男であるにもかかわらず、一という長男のような名前がつけられた理由は、まさにその通りだった。子供はいつも、親の遊び心に振り回される。