彼女のビンタ
ジークは頭を抱えていた。
子竜の次は巨竜だ。一直線に陣を荒らして去っていった。それも今回の被害は尋常ではない。全戦線の維持は可能だが、一箇所にどでかい穴をあけていった。
なんだ?これはいったい、何事だ? 誰か私に恨みでもあるのか? あるいは神の与えたもうたいやがらせ? それとも、竜の親子喧嘩の、単なるとばっちりだとでも言うのか。
もっとも、幸いなのは、アケイオデスが敵軍をも蹂躙していったことだ。彼らには、さきほどまでの激しい戦意が見られない。一部では恐慌すら起こっている。
そして不幸なことは、敵同様に、味方の戦意もがた落ちだということだ。
世の中の誰が、広い陣と激闘繰り広げられる戦場とを横切る阿呆な竜を想像する?それも辺りに目もくれずひたすら猪突猛進する超阿呆な竜だ。あの凄まじい破壊力を見て、ちまちま戦闘するのが馬鹿馬鹿しくならない者がいるだろうか。
まあ、多少は戦闘も続行中のようだから、そういう無神経もいるかもしれない。だが、全体として、なんだか、恐怖を通り越して脱力だ。
こんな時、指揮官としての能力が試される。
王国軍司令官は、続けざまに指示を出した。
破られた柵周辺への増援。工兵の移動。なにより、これが敵撃破のための最大のチャンスであることを誇張を込めて喧伝し、全力でもって対処せよ、という、名誉とか褒賞とかの言葉を巧妙に織り交ぜた命令。
ジークは知らないが、これら指示を行う指揮官を、敵は失っていた。
メッシ不在。
反乱軍は崩れた。
恐る恐る後ずさるメッシの首筋に、リョウが剣を向けた。
「待てよ。さっきの続きと行こうぜ」
メッシの目が怒りに燃えていた。
「続きだと?貴様らの隠し球は見せてもらった。竜を二匹も手なずけていたのなら、この戦場からの脱出も容易いだろうな、貴様の余裕も理解できる。しかし、私には手がない。続きなどという遊びに付き合う暇はないんだ」
「これは遊びじゃない」
門扉を失い門としての役割を終えたアーチをくぐり、ニナがゆっくりとメッシへ近づいた。
「レイナルト・メッシ。貴様がソナラになにをしたか、覚えていないわけではあるまいな?」
ニナは腰の剣を抜き、ゆらりと反乱軍指揮官をにらみ付けた。
「ソナラを捕えた兵たちは、貴様の手兵だろう。一度ならず二度までも我が妹を辱めておきながら、ただで帰れると思わぬことだ」
メッシは、子竜の体を舐めているアガナを視界におさめつつ、肩をすくめた。
「それが私の役目だ」
「恐れることはない。アガナには手出しさせない。私がこの手であの世に送ってやる」
「待った、待った」
横合いから、リョウが声を張り上げた。
「そいつは俺がやる」
「貴様は黙ってろ、このイガイガ虫が」
「悪いが聞けねぇ。あのな」
リョウはニナの耳元で、そっと囁いた。
「タカシは、お前が人を殺すの見ると、すげぇショックらしいんだよ。聞いたわけじゃねぇけど、見ればわかるぜ」
ほとんどうろたえと言っていい戸惑いを見せるニナを突き飛ばして、リョウはメッシへ突きつけていたワキザシ引いた。
短い方のカタナ。刃を潰していない、殺人のためのカタナ。
後ろでソナラが、逃げよ、逃げよ、と叫んでいる。
「アガナがね、言うの、とっても悪い感じだって。みんながアガナをいじめるよ。ルウオいじめるよ」
「わかってるよ」
タカシは全力で頭を回転させたかった。
事態は意外に深刻だ。
アガナの破壊力はわかった。だが、ただ一匹のアケイオデスにすぎない。数千という兵力ならば、彼女――と呼ぶのが妥当だとして――を打ち倒すのは不可能ではあるまい。やりようによっては、容易いことだ。タカシですら、いくつか作戦が思い浮かぶほどなのだから、あの王国軍司令官ならもっと簡単にやれるだろう。アガナはそれを知っているのだ。
ソナラの友達を、逃がしてやりたい。
どうする。
「アガナとルウオには、とにかく逃げてもらおうよ。真っ直ぐ突っ切れば、今はまだ戦闘中だから、なんとかなる」
「でも、ルウオ、あたしと一緒にいたい、って。アガナは、ルウオが心配だって」
ああ、どうすればいいのか。
「だから、タカ、ニナ、リョー、みんな、アガナの背中に乗っていいんだって」
どうしよう。どうすれば・・・・・・
・・・・・・なんだって?
こいつの背中に乗れってか?
アガナの巨体を見上げて、タカシは絶句した。
梯子もないのに、どうやって。そもそも、さっき見た凄まじい力走、背中に乗ってもすぐに振り飛ばされてしまう。
タカシの前に、長くてぶっとい尻尾が向けられた。
アガナだ。
その尻尾を伝って背中に登れというのだろうか。
「馬鹿な」
と言ったのは、いつの間にか近づいていたニナだ。
「アケイオデスに限らず、竜は高潔な魂を持つ。背に人を乗せるなど」
「でも、あたし、いつもルウオに乗っかってるよ」
ソナラはあっけらかんとしている。
事実とは、大抵そういうものかもしれないと、タカシは思った。近づこうとしなければ、相手が人嫌いのプライド持ちに見える。でも、近づいてみると、案外バリアフリーな性格だったりする。そしてソナラは、誰にでも近づく。
「わかった、じゃあ、ニナとソナラは、逃げて」
「タカシ」 ニナが声を張り上げた。「貴様、この期におよんでまだ投降とかなんとか言うつもりか?アガナが与えた被害はお前のせいじゃない、が、投降でもしてみろ、すべての責任を貴様に押しつけるのは目に見えてる」
「そうじゃない」
タカシは背後を見やった。
破壊された門扉を。
「門のない外壁は、もう外壁の用をなさない。壊走してきた反乱軍か、攻める王国軍か、どちらかが街を蹂躙する。下手すれば市街戦だ。そうならないように、なんとかする。だから、二人は行って」
弱いくせに頑固な目の前の顔を、ニナは反射的に殴ろうとした。
本当は嬉しい。嬉しいが、時と場合を考えろと言いたい。私とソナラの気持ちを考えろと叫びたい。一人残ってなにができるわけでもないと、わかっているくせに、お前は意地になっているだけだと諭したい。
ところが、先にソナラがタカシの頬をひっぱたいていた。
「ソ、ソナラ!?」
「タカはもう精一杯やったよ!もういいよ!」
「いや、でも、殴らなくてもいいじゃないか」
「ニナちゃんが殴りたそうだったの。あたしの方が、痛くないでしょ」
「そんな、無茶苦茶な」
「あたしはタカといたいの。ニナちゃんもそうなの。リョーと一緒にいたいの」
言いたいことはわかる。だが、世の中には最後まであきらめてはいけないことだってある。
「もう、よせ、タカシ」
ニナは静かに言った。
「あとは、あの王国軍司令官に任せよう。ジークと言ったか」
タカシの脳裏に、あの有能な司令官の面影が浮かんだ。終始笑顔で、けして人を嘲笑うことをしなかった男。
「わかった」 タカシはうなずいた。「行く。けど、アガナにはちょっと無理をしてもらうことになる」
親竜の尻尾を登った。小さい突起の多い肌は、意外と登りやすかった。
ニナが続いてくる気配。
「リョウ!」
呼んでも、返事はない。
友人は、離れた場所でメッシと対峙したまま、ぴくりとも動かなかった。
「リョウ、来て、逃げるよ、一気にさあ!」
友人は動かない。
動けないのだ、ということは、タカシにはわからない。
リョウの様子を見てそうと悟ったニナが、顔をしかめる。
「安心しろ」
タカシの背中にぺったり張り付いた美女が、顔色とは違う言葉を耳元に囁いて、彼を説得した。
「あのへっぽこたぬきは、私より強い。混乱した今の状況なら、一人で抜け出すことができるさ。お前という足手まといがなければな」
ニナはへっぽこより弱いの?と訊ねる前に、巨竜は歩き出した。
素晴らしくいい眺めに、タカシはようやく気付いた。