人に故国を話す困難
一年近く前の話だ。
タカシたちはこの世界へやってきた。
本人の感覚では、飛ばされてきた、と言った方がしっくりくる。好きで来たわけではない。
無免許運転の末の事故。それが、あっちの世界の最後の記憶だった。
車に乗っていたのは、タカシ、リョウ、イッペイの三人。
タカシとリョウが再会するまで、三日間の放浪を経なければならなかった。イッペイとは、以来会っていない。
ぼろぼろに傷つき、空腹を抱えて倒れていた二人を救ってくれたのが、モルグという名の中年の男だった。
言葉すらわからない二人をいやな顔一つせず受け入れ、こまごまと面倒を見、様々なことを教えてくれた。モルグという男は、二人にとって恩人だった。
ようやく言葉を覚えた頃、二人は意を決して事情を説明した。
別の世界から来たこと。
そのことだけを理解してもらうのに、丸一日かかった。
その晩、タカシは言った。
「もう一人、友達がいるはずなんだ。きっと苦労してる。探しに行きたいんだ」
このことに関しては、モルグは五秒で理解してくれた。
――しかし、まだ早いな。お前たちにとって、この世界は危険に満ちている。もっと学んでからでないと、お前たちだけではすぐに行き倒れになるのがオチだ。
モルグは、タカシにとって知識と知恵の詰まった巨大な先生で、リョウの剣技を軽くあしらう達人でもあった。翌日からは、友人捜索のための、サバイバル授業まで組まれるようになっていた。
今回の旅は、その成果を試すという目的もあった。モルグは軽く言ったものだ。
――そろそろ二人だけで遠出してみるといい。すぐ南に国境がある。あれを越えればローデシアだ。その国に、双子の女の子がいる。歳はお前たちと同じくらいだな。その子らに手紙を届けてほしいのさ。
なあに、国境までは街道沿いに宿場もあるし、気楽な旅になるはずさ、あはははは、と笑っていたモルグを心中に思い浮かべて、タカシはわけがわからなくなった。
その二人が、彼の娘だなんて、これっぽっちも聞いていない。説得してこいとも言われてない。ただ届けて、帰るだけ。
それがなぜ、とタカシは斧を振り上げた。
もう昼間に近い。
食事の後、ニナに無理矢理斧を握らされた。
「宿を貸したんだ、少しぐらい働いていけ」
そう言われれば否も応もない。
この世界は一日二食だから、さっき食べた野菜スープは朝食ではなく、朝食と昼食を足して二で割ったもの。あとは夜食までなにも食べられない。早くも空腹の予感が胃の辺りを行ったりきたりしている。おまけに。
なぜか、小屋の壁に背を預けて、ニナが腰かけて彼を見ている。美人に見られて悪い気はしないが、そんな幸運に慣れていないからますます胃がおかしくなる。
「そろそろ休憩したらどうだ」
日が中天に差し掛かった頃、ニナが声をかけて来た。無表情というより、厳しい顔つき、悪く言って仏頂面はなにを考えているのかわからない。
「ずいぶん薪ができた。見た目より体力があるのだな」
声には呆れの色が濃い。
毎日のようにモルグのスパルタ教育を受けた成果だ。薪割りはしょっちゅうやらされた。モルグの住む地域はこの辺りよりも寒気が厳しく、薪などいくらあっても足りないのだ。
「お前の国の男は、みんなそんなに勤勉なのか?」
言われて、タカシは笑った。
勤勉。なにかのテレビ番組で、同じ言葉を外国人タレントが言っていた。だけど、学校の友達を思い出すと、ずぼらでいいかげんなやつばかりで、首をかしげたくなる。
そして、自分の手のひらを見る。
友達の何人が、まともに薪割りできるか知れない。長い時間続けられる体力を持つのは、あまりいないだろう。
あらためて考えると、自分は鍛えられたのだ、と思う。比べる相手が、ほとんど超人のモルグと、運動神経のいいリョウしかいなかったから、これが当たり前だと思っていたが、自分の体は、たしかに鍛えられたのだ。
もう、サッカーでキーパー役を押し付けられることはないだろう。
首にかけた布で、タカシは体の汗を拭った。
「リョウは、どこに行ったんだろう?」
食事後、無理矢理ババに連れて行かれた友人を、タカシは思い出した。
ニナは笑う。
「山菜を取りに行った。あの粗忽者にはいいガス抜きだ」
「それに、ソナラさんもいないみたいだけど」
「あの子は・・・・・・」
言ってから、タカシの目を覗き込むようにして見る。
なんだろう?
「・・・・・・花を摘みに行った。明日は、街に花を売りに行く日だ。この峠にしか咲かない花が、たくさんあるから」
花か。タカシは思った。あの子には花がよく似合うだろうな。
昨夜は大変だった。起きてきたソナラが、見知らぬ客に興奮し、なかなか寝付かずに二人へじゃれついてきたからだ。
――お話して、お話して。どこから来たの、ねぇ、どこの人ぉ?
ニナと同じ顔だと思ったのは一瞬だった。
天真爛漫な笑顔は無防備もいいとこ、ニナの仏頂面とは大違いだ。タカシとリョウの手を取ってお話をせがむ姿は、同年代とは思えない幼さだった。
この子は、もしかして。
そう思ったが顔には出さず、タカシとリョウは知りうる限りのおとぎ話をひねり出していた。おとぎ話では失礼かな、と思ったが、彼女は目を爛々と輝かせて聞いていた。
「ソナラを見てどう思った?」
ニナの隣に腰かけたタカシが、え、と声をあげた。
咄嗟に言葉が出ない。
「・・・・・・普通の女の子だよ」
「普通の女の子にあんな子供じみた話をするのか、お前の国では?」
言葉が出ない。
「・・・・・・気にするな。非難しているわけじゃない。昨日は、あの子のわがままを聞いてくれて、感謝している」
「でも、たしかに子供扱いしてしまって・・・・・・」
「馬鹿にされたとは、あの子は思ってない。そう感じることのできない子だ」
首にかけた布で、違う種類の汗を拭い、タカシは山と詰まれた薪を見た。
今度はあれを薪小屋にしまわないといけない。
「お前の国の話をしてくれないか」
タカシは虚をつかれて、反射的にすぐ横に座る美しい横顔に見入った。
吸い込まれそうになる前に、ニナがこちらを向き、彼は慌ててそっぽを向いた。
「あの男からの手紙に、いろいろ書いてあった。お前の国には、王はいないのだろう?」
たしかに、そんなことをモルグに話した。
「国の隅々にまで整備された街道が行き渡り、様々なものがそれを使って流通し、仕事に応じた正当な報酬が約束され、飢える者もなく捨てられる者もいない」
ちょっと待て。タカシは記憶をまさぐった。
そんな理想郷の話、モルグにしたつもりはない。どこで情報が歪んだのだろう。モルグが誤解したのか、手紙が伝言ゲームの役割を果たして、彼女が勘違いしてしまったのか。
「・・・・・・そんなにいいところじゃないよ」
タカシの気持ちは少し沈んだ。
故国の話をする時、常に胸へ去来する寂しさ、悲しさ。そして。
モルグへ故国を話す時、常につきまとう苛立ち。彼は、人に言って聞かせられるほど、自分の国を知らない。
「世界には、飢えて死ぬ人はたくさんいるらしい。僕の国では滅多にいないけど。あちこちで戦争があって、人がたくさん死ぬんだ。道路が整備されているのだって、利権とかいう、欲得ずくの汚い裏がある、って、聞いたし」
すべて人からの伝聞だ。彼はなに一つ自分で見てはいない。
しばらく黙っていたニナが、ふん、と鼻を鳴らした。
「お前は、上の方の階級にいたということか?すべてに恵まれて生活していて、下の者をろくに見ていなかった」
タカシの逡巡の理由を、彼女なりの見方で見抜いていた。
タカシは反発した。
「そんなんじゃない。僕の家はごく普通の一般家庭で」
「普通というのはどの階級だ?一級か、二級か、賎民か、棄民か」
「・・・・・・」
答えられずに立ち上がったタカシの腕を、ニナは押さえた。
「普通とは、高い金を払って関所を通り、特別な街道を行くことのできる者のことか」
高速道路の話もしたな、とタカシはぼんやりした頭で考えながら、腕を振り払った。
やさしく微笑みながら聞いていたモルグも、こんなふうに思っていたのだろうか。そうだとすれば、悲しい。
「僕は・・・・・・」
「それとも、お前の国には、階級がないとでもいうのか?」
今までのニナからは考えられない切実な声音に、タカシは思わず振り向いた。
真剣な、どこか切ない彼女の顔が、異邦人を見上げていた。




