第4話 譲れない火
昭和の初め。
洋食堂たちばなの厨房には、二つの火が灯っていた。
一つは、初代店主・橘俊蔵の火。
もう一つは、息子であり二代目となる男、橘正一の火だった。
「……味が、軽い」
俊蔵は、スプーンを置いた。
鍋の前に立つ正一の背中が、わずかに強張る。
「時代が違います。今の客は――」
「客が変わっても、味を曲げる理由にはならん」
俊蔵の声は低く、静かだった。
だが、その静けさが、何よりも重い。
正一は、拳を握った。
「親父の味は、もう十分やった。
これからは、俺のやり方で――」
「早い」
俊蔵は即座に遮った。
「鍋の前に立つ年数が、違う」
その一言で、正一の中で何かが切れた。
「じゃあ、一生、親父の背中だけ見てろって言うんですか!」
厨房の空気が、凍りつく。
俊蔵は、しばらく黙っていた。
火にかかった鍋が、コトリと音を立てる。
「……背中を見ろとは言っとらん」
俊蔵は、ゆっくりと正一を見る。
「越えろ、と言っとる」
正一は言葉を失った。
「だがな」
俊蔵は続けた。
「越える前に、壊すな。
洋食堂たちばなは、実験場じゃない」
その夜、正一は店を飛び出した。
暖簾が、強く揺れる。
雨が降っていた。
正一は傘も差さず、濡れた路地を歩いた。
(親父は、俺を認めない)
そう思った瞬間、胸が苦しくなった。
一方、店に残った俊蔵は、火を落とし、厨房に一人立っていた。
若い頃の自分を、正一に重ねていた。
(俺も、同じ顔をしていたな……)
俊蔵は、棚の奥から古いノートを取り出す。
開店当初から書き続けてきた、味と失敗の記録。
その最後のページに、こう書き足した。
「次は、正一に任せる」
翌朝。
正一が店に戻ると、俊蔵は何も言わず、包丁を渡した。
「今日の仕込みは、お前がやれ」
それが、俊蔵なりの答えだった。
親子は、多くを語らなかった。
だが、同じ鍋を見つめ、同じ火を守った。
洋食堂たちばなは、
こうして少しずつ、次の時代へと形を変えていった。
衝突は、断絶ではない。
それは、受け継ぐために必要な熱だった。




