第3話 初めての白衣
洋食堂たちばなに、少年の居場所ができたのは、それから間もなくのことだった。
学校が終わると、正一は店に寄った。
表の暖簾をくぐる前に、必ず一度、背筋を伸ばす。
「ただいま」
そう言うと、厨房の奥から、父・俊蔵の低い声が返る。
「手、洗え」
それだけだった。
正一は文句を言わず、流しで丁寧に手を洗う。
石鹸の匂いと、鍋から立ち上るデミグラスの香りが混ざる。
最初の仕事は、皿洗いだった。
油で曇った皿。
ソースの残るフライパン。
指先はすぐに荒れたが、不思議と嫌ではなかった。
ある日の夕方。
客足が途切れた時間に、俊蔵は言った。
「エプロン、着けろ」
差し出された白衣は、まだ正一には大きい。
「これ、俺が着てもいいのか」
「仕事は、見てるだけじゃ覚えん」
俊蔵はそれ以上、何も言わなかった。
玉ねぎを刻め。
そう言われ、包丁を握る。
最初の一太刀で、正一は指を止めた。
父の包丁さばきとは、まるで違う。
「力、入れすぎだ」
短い一言。
正一は、呼吸を整え、もう一度刃を入れる。
トン、トン、トン。
音が、少しだけ揃った。
「……悪くない」
その言葉に、胸の奥が熱くなった。
夜。
店を閉めたあと、正一は厨房に残った。
鍋の底に残る、わずかなソース。
それを、パンにつけて口に運ぶ。
苦くて、深い味だった。
(父さんは、これを毎日作ってる)
その夜、正一は初めて、夢を見た。
大きくなった自分が、白衣を着て厨房に立っている夢を。
俊蔵は、その背中を、黙って見ていた。
息子が包丁を置く瞬間の、わずかな癖。
火を止めるタイミング。
(……似てきたな)
俊蔵はそう思い、すぐに首を振った。
店は、仕事だ。
情で継がせるものじゃない。
だが、胸の奥に、小さな灯がともったのも、確かだった。
この店は、
自分だけのものではない。
たちばなの厨房に、
初めて「次の世代」の足音が、響いた夜だった。




