第1話 受け継がれる匂い
平成三十年四月。
冷たい雨が、アスファルトを黒く濡らしていた。
葬儀場の外に出た瞬間、胸の奥に溜まっていた空気が、ふっと抜けた気がした。
祖父――この店の初代店主は、ついに帰らぬ人となった。
通夜も告別式も、父は終始、背筋を伸ばし、淡々としていた。
涙ひとつ見せず、親族や常連客に頭を下げ続ける姿は、まるで店に立つときと同じだった。
数日後の夜。
閉店後の店内で、父は珍しくこう言った。
「……一杯、付き合え」
厨房と客席を隔てるカウンター越し。
祖父の代から使い続けている木の棚から、父はウイスキーを取り出した。
ラベルの色はすっかり褪せている。
「これはな、親父が“開店祝いだ”って言って、俺に残したやつだ」
グラスに注がれた琥珀色の液体が、静かに揺れた。
一口飲んだ父は、しばらく黙り込んだあと、ぽつりと笑った。
「……強情でな。店のことになると、誰の話も聞かない人だった」
それから、父の声が震え始めた。
酒のせいか、それとも長年飲み込んできたものが溢れたのか。
「でもな……あの人は、料理で人を守ろうとしたんだ」
初めて聞く、祖父の話。
父の頬を、涙が伝った。
――そして、物語はここから遡る。
大正十五年四月。
春の風が、まだ少し冷たい朝だった。
祖父は、古びた木造の建物の前に立っていた。
真新しい暖簾には、手書きの文字で店の名が染め抜かれている。
“洋食堂たちばな”
震える手で暖簾をくぐり、まだ何も置かれていない厨房に立つ。
鍋も、フライパンも、すべてはこれからだ。
「……ここからだ」
誰に言うでもなく、祖父はそう呟いた。
この店が、百年近く続くことも。
孫の代まで受け継がれることも。
そして、その料理が、幾つもの人生の節目に寄り添うことも――
このときの祖父は、まだ知らなかった。




