#10 破られた安寧と築かれた猜疑心
3日目の昼間、恋バナやトランプで浮かれていたクラスの雰囲気は、夕食を境に再び不安定になり始めた。
事件が「終わった」と信じてからすでに1日以上が経過している。
校舎は依然として閉ざされ、外界との接触は一切ない。
この状況が「いつまで続くのか」という先の見えない閉鎖感と、「本当に復讐は終わったのか」という拭い去れない疑念が、静かにクラスの心理を蝕み始めていた。
夕食の配給時、由実が、レトルトの温め作業中に、不注意でやけどを負った。彼女はすぐに手を水道で冷やしたが、その顔は苦痛に歪んでいた。由実が「大したことないから」と笑って言った。楓夏が心配そうに隣で手を握っていた。由実は気丈に振舞っているが、由実をはじめ、みな、精神的にも疲弊していた。
夜、僕らが眠る3Aの部屋は、重い沈黙に包まれていた。安堵による弛緩は終わった。
誰もが次に何が起こるのか、本当に事件は終わったのかという、
拭い去れない疑念と、先の見えない閉鎖感に苛まれていた。
光平は、僕たちの布団の少し離れた隅に、いつも通り静かに眠っていた。僕は、彼が時折、目を覚ましては、どこか一点をぼんやり見つめているのを知っていた。彼は普段から少し神経質で、夜中に校舎の警備状況を気にするような発言をしていたが、それは誰も気に留めない光平の個性というか性格のようなものだった。
夜明けが迫る、最も深い眠りの時間帯。
聖羅でも愛花梨でもない、甲高い悲鳴が校舎に響き渡った。
「うわああああああ!」
僕は反射的に飛び起きた。剛も顔面蒼白で立ち上がった。悲鳴は、僕たちが寝ている3A教室のすぐ外、廊下の奥から聞こえた。
僕と剛が廊下へ飛び出すと、そこにいたのは、腰を抜かして廊下に座り込んでいる信次だった。
彼の視線は、僕たちの教室とは反対方向、非常階段の隅の一点を凝視していた。
「あ、彰……嘘だろ、また……」信次は震える声でつぶやいた。
僕の視線の先には、壁にもたれかかるように座り込んだ人影があった。それは、光平だった。彼の胸には、他の犠牲者たちと同じく、一本のナイフが突き刺さっていた。彼の手はナイフを握ってはいなかった。
光平は、いじめの直接的な加害者ではない。この事実は、クラスに蔓延していた「犯人の復讐は終わった」という安堵の論理を、根底から覆した。
すなわち犯人の標的が「いじめの加害者」に限定されないことが明確になったからだ。
クラスは再び、疑心暗鬼と恐怖の渦に引きずり込まれた。
「嘘だ…終わりじゃなかったのかよ!どうして光平が!」篤彦が叫び、パニックが教室に広がり始めた。聖羅は顔を青ざめさせながらも、なんとか皆を落ち着かせようと声を張り上げた。
その混乱の中、篤彦が、恐怖に駆られた低い声で囁いた。
「…おい、剛。お前、いつも光平とつるんでただろ」
その声は、僕の隣にいる剛に向けられていた。
剛は誰とでも分け隔てなく接するが、誰もが心底、信頼しているわけではない、どっちつかずの中間的な存在だった。
光平の死という理解不能な事態を前に、クラスの恐怖は新たなスケープゴートを求めたのだ。
剛は、篤彦の言葉に気づき、ハッと顔を上げた。
僕が見ると、周囲の数人の視線が、一斉に剛に向けられていた。
彼らは、剛が普段見せる臆病で落ち着きのない様子を、「動揺」や「挙動不審」と捉え始めたようだった。
彼らの目には、恐怖と、明確な疑惑の色が浮かんでいた。
剛は、弁解しようと口を開いたが、適切な言葉を見つけられなかった。
彼はただ、数人の視線に射抜かれ、ただ俯いてしまった。
僕は初めて、強い動揺を覚えた。
光平の死への恐怖よりも、親友である剛が、クラス全体から孤立させられていく現実に、僕は強く憤っていた。
人の事情に無関心だった僕の視界に、「大切な人間が危機に晒されている」、その現実がまぶしく映り込んだ。
僕は、剛の腕を強く掴んで、剛の顔を見上げる。
剛は、僕の顔を見て、少し安堵したような表情を見せた。
僕の心は、事件の謎よりも「剛をこの場所から守る」という、個人的で根源的な感情で支配されていた。
「広人君、光平君も....」聖羅の声が、パニックの中で震えながら、静かに響く。
広人が硬い表情で遺体検分に向かう中、僕は剛の手を離さず、周囲に張られた不信の壁を、じっと見つめていた。




