#9 仮初めの平和
遺体発見から数時間が経過した。2日目の昼、クラスを包む空気は劇的に変化していた。
悲しみはまだ残っていたが、それを上回る安堵がクラスを支配していた。
「湊先輩をいじめた奴らは、これで…」誰かがそう囁いた。その声には、微かな罪悪感よりも、圧倒的な「自分たちは助かった」という感情が滲み出ていた。事件の目的が果たされたのだから、これ以上、被害は出ない。クラスの誰もが、その結論を心の拠り所にした。
聖羅は、全員に向けて話し始めた。
「わかっているわ。今の状況は異常よ。でも、私たちは生き残っている。ここで自滅するのは違う。この学校には、まだ2週間分の食料と水がある。私たちは、この時間を生き延びる必要があるわ」
彼女は冷静だった。その冷静さが、浮つき始めたクラスの雰囲気を、かろうじて現実につなぎとめていた。聖羅の提案は、各自が持参したものを持ち寄り、集団生活の退屈を紛らわせるというものだった。
昼食後、僕たちは活動拠点である2Aへと移動した。広人は2Bでの作業を終えた後、姿を現さなかったが、彼の不在は、事件の終結を信じるクラスの雰囲気によってすぐに忘れられた。
すぐに、カバンからトランプやUNO、そして雑誌などが持ち出された。午前中の緊張感が嘘のように緩み、クラスは弛緩したムードに包まれていく。僕も剛の誘いで、篤彦や信次たちとトランプの輪に加わった。
ゲームは他愛のないものだったが、僕の集中力は散漫だった。遺体は2B教室に安置されている。その部屋の扉は、僕たちが活動する2Aからは見えないが、その存在だけが、この「日常」が砂上の楼閣であることを告げていた。だが、誰かを疑うほど、あるいはこの安易な「終結」に異を唱えるほどの強い関心は、僕の中にはなかった。僕はただ、この異常な状況が、どういう結末を迎えるのか、静かに眺めているだけだった。
夕食後、クラスの興奮はピークに達した。トランプに飽きた女子たちが、男子を巻き込んで恋バナを始めたのだ。話題は、学校生活で最も人気があった異性の話や、過去の告白の経験に及んだ。
「で、彰は?」篤彦が突然、僕に話を振ってきた。「人の話ばっか聞いてねーで、お前はどうだったんだよ」
僕は少し言葉に詰まった。人の個人的な事情に立ち入らないのが僕の信条だ。自分のことを話すのも、当然苦手だった。
「特に…ない」僕が簡潔に答えると、篤彦は鼻で笑った。
「嘘つくなよ。お前、入学当初、すげぇ熱心に見てた女子がいただろ。ほら、美術部の…」
篤彦の言葉を遮るように、剛がニヤニヤしながら、僕の肩を叩いた。
「おいおい、篤彦、それは言うなよ。って、もう言ってるか。彰はな、美術部の詩歩のこと、ずっと目で追ってたんだぜ。結局、何もしなかったけどな。彰の熱烈な、無関心な片想いってやつ?」
剛の冗談交じりの言葉に、周囲から軽い笑いが起こった。僕は顔が熱くなるのを感じ、すぐに視線を逸らした。詩歩は、その輪の中にいた。彼女は、僕の告白を聞いて、ただ静かに微笑んだ。その表情は、僕の過去の想いを否定も肯定もせず、ただこの場のムードを壊さないように、優しく受け止めていた。
「いや、違う。あれは…」
僕は否定しようとしたが、剛がさらに畳み掛ける。僕の過去の感情の機微など、剛にとっては良い笑い話の種でしかなかった。僕は反論する気力を失い、諦めて黙り込んだ。
トランプや恋バナが続き、クラスの空気は浮ついたまま、夜も更けていった。話題はいつしか、広人の失恋経験へと移っていた。広人は、普段の冷静な態度からは想像できないほど、真剣に自分の過去の体験を語り始めた。彼は高校3年間、一人の女子を想い続けたが、結局卒業直前に振られてしまったという。
「まあ、仕方ないよな。俺、ああ見えて結構不器用だからさ。脈がないのはわかってたけど、諦めきれなかったんだ」広人は苦笑いした。
その話を聞いた篤彦は、大声で笑い飛ばした。
「ハッハッハ!お前らしいな!3年間も脈なしに賭けるとか、馬鹿じゃねえの?マジでドンマイだわ、広人!」篤彦は、広人が遺体の処理という役目を担っていることなど忘れたように、無邪気に馬鹿にした。
広人は篤彦を睨み返し、それから周囲を見渡した。そして、彼の目が由実を捉えた。
「おい、由実。聞いてただろ。篤彦が今、俺を馬鹿にしたんだ。ひどくないか?」
由実は、少し思案するような表情を浮かべた後、静かに、しかしはっきりとした口調で答えた。
「私は馬鹿にされても構わないわ。私は、ね。だっていずれその評価は私が変えるから」
由実の言葉には、まるで周囲の評価など取るに足らないとでも言うような、強烈な意志が込められていた。その強い言葉は、広人を擁護しているようでいて、彼女自身の強いプライドを表明しているようにも聞こえた。
由実の言葉に、隣にいた楓夏が同調するように声を上げた。
「たしかに~そのマインド、大事~!振られても、最後に成功すれば、馬鹿にされたって関係ないからね~。ね、由実?」
楓夏は由実の腕を軽く叩き、笑顔を見せた。彼女たちのやり取りは、広人の失恋話から派生した単なる人生論のように聞こえた。それは、自分たちが望む形でこの「ゲーム」が終わり、自分たちの評価、あるいは望む結末を手に入れることへの強い確信を暗示しているかのようだったが、誰もがその言葉を、単なる強気の人生訓として聞き流した。
夜が明けて3日目になっても、クラスの偽りの平和は続いた。
僕たちは、もはや遺体が安置された2Bの存在すら、日常の背景の一部として受け入れ始めていた。授業がない自由な時間は、誰かのカバンから出てきた漫画を回し読みしたり、女子のグループがこっそり恋バナを再開したりして、満たされていった。
誰もが事件の恐怖を「終わったこと」として処理し、この校舎での集団生活を、少し長い合宿のように捉え始めていた。僕もその安堵の空気に身を任せ、剛の隣でただ時間を潰すことしかできなかった。僕の視線は、時折、遠く、人のいない廊下の影を探していた。この偽りの日常が、いつまで続くのか。




