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2.ありふれた「動画」と「詩音」と「液酸タンクローリー」

ついつい自分に見惚れて3回も観ちゃう。2028年頃はオーバーツーリズムが問題視されて久しいみたいだし、渋谷なんか日本人より外人観光客の方が多いみたいだといわれてたから銀髪が稀有ってほどじゃないはず。特徴としては目立つけどマスクしてたから顔バレはしてないし、監視カメラの映像だから画質が荒い。現場の近くをうろつかなければ大丈夫だろう。入院のときの衣類は蘇生処置時に切り裂かれてしまったようで、いまのボクは看護師さんが善意で寄付してくれたシンプルな白ブラウスとジーンズ姿。下着は売店で売ってた使い捨てタイプの上下だし服も一張羅なので時間ができたら多摩センターあたりで買い物するつもりだったんだけど、不要不急な外出は自粛したほうがよさそう。フロントに電話して受取りしてもらえることを確認し、Amazonで髪隠し用にキャップと各種衣料品とそれらを詰め込むボストンバッグまで買って即日配達を指定した。しばらくは腰を据えてネット調べするつもりで自販機で飲み物を仕入れ、備え付けの冷蔵庫に詰め込んでおく。夕方7時に天ぷら膳のルームサービスを予約した。調べ物に夢中になってもこれで現実に引き戻してもらえるはず。そして本格的に検索を始めた。


やはりダンジョン出現がボクの最初に過ごした世界との分岐点だったようだ。ボクが最初に生まれた世界といまいる世界の主な出来事を突き合わせていくと2026年8月15日のダンジョン出現までまったく一緒だった。2020年には世界的なコロナウイルスのパンデミックがあったし、2021年にはそのせいで延期された東京オリンピック・パラリンピックが開催されてる。2022年にはロシアのウクライナ侵略が始まってるし、2023年にはなんだか無理やりみたいにコロナウイルス感染症が5類に移行してる。2024年にはパリでオリンピック・パラリンピックが開催されたし、アメリカ合衆国大統領に『関税おじさん』が就任してる。2025年には大阪万博が開催され、『のらりひょん』と揶揄される首相が大敗に次ぐ大敗を重ねて退陣したりした。その後史上初の女性総理が登場して、日本経済が回復基調になる。2026年にはイスラエルとパレスチナの暫定的停戦が合意され、2027年には中国がステルスドローン1万機による台湾海峡領空侵犯事件を起こす。いっとき収まっていた台湾有事シナリオが再燃したけど、翌年のダンジョンの出現でそれどころじゃなくなってしまったようだ。そこまでざっと辿った後、いよいよボクはダンジョンの詳細について調べ始めた。


量子コンピューターでできた脳を持っていないボクはルキナみたいに一瞬で膨大な情報を並列処理できないので、リサーチにはしっかりと時間がかかる。YouTubeにはダンジョン内の探検映像などが何万とアップされていた。映像を倍速や3倍速で観たりもしたけど、YouTube特有の玉石混交ぎょくせきこんこう状態もあって結構な時間がかかった。手間はかかったけど出現する魔物情報や低階層部のマップ情報、初心者向けのダンジョンサバイバル術などが確認できる。そうやって情報を収集しているうちに、最も重要と思える情報に出会う。YouTube内ではすでに常識化しているのだろう。表立った説明がなく、なかなか気づけなかった情報だった。何十本目かのダンジョン探索動画でパーティメンバーの会話の中で言及された台詞。『ダンジョン内は外の6倍で時間が進むから』っていう言葉の断片。ググってみるとぞろぞろ情報が出てきた。いわく‥‥ダンジョンで6日間探索を続けても、こっちの世界ではたった1日しか経過しないということ。この時間遅延を利用して学生冒険者の『放課後探索』と呼ばれる金稼ぎが流行っているらしい。15時過ぎに授業が終わって16時から2時間ダンジョンに潜る。するとダンジョン内では12時間も探索や採取が可能となる。魔鉱石や魔植生の採取だけでも普通の学生バイトの3倍は稼げるそうだ。比較的安全な第1階層を探索するだけでもお金になるとはいえ、あくまで比較的安全というだけでダンジョンはダンジョン。年間10件以上の死亡事故が起きてるし、人間同士の揉め事による事件も多発している。ダンジョン発生直後は当然世界中で大混乱が起きていた。星の数ほどの記事がアップされ、とにかく情報が多い。ルキナの量子コンピューター的並列処理が羨ましくなった。いくつかの記事をざっと斜め読みしてみる。『ダンジョンブレイク』『エラプション予防法』『死者・行方不明者12万人』『魔石』『コロンビア魔石爆発』『ナイジェリア』『コンゴ』『ダンジョン攻略民間委託』『冒険者ギルド設立』『プロ冒険者』『ドロップキー』『宝物庫』『遺物』などというワードが溢れてる。これを調べ尽くすには根性がいりそうだ。とりあえず『冒険者』の制度から調べてみた。


冒険者ギルドで行われている冒険者登録はアマチュア登録とプロ登録があるらしい。アマチュア登録は冒険者の仮免みたいなもので、原則として第1階層のみしか立ち入りを許可されていない。2時間程度のビデオ講習を受け、『危険負担同意書』なる『死んでも文句はいいません書式』にサインすればダンジョン入場の資格が得られる。学生冒険者の『放課後探索』や『スキマ時間探索』などの金儲けが主となる。ダンジョン1階層の初期エリアではスライムと巨大ミミズ程度しかモンスターがいないため比較的安全に採取ができる。スレッジハンマーのような武器にもなる道具を持ち込めばモンスターを退治できたりもするけど、アマチュア資格でのモンスター討伐は推奨されていない。対モンスター用装備を充実させ、モンスター討伐で収入を得ることができて初めてプロ冒険者と認められる。魔石は魔物を倒すことで出現するから、これをコンスタンスに集められるようになれば贅沢に暮らせるだけの収益を得られることになる。そして魔物からは宝物庫の鍵も出る。光り輝く金色の鍵が出た場合、どこか近くに宝物庫があるという証拠だ。鍵を持って光の強弱を手掛かりに周囲を探索すると秘密の部屋が見つかるらしい。ただしそこは強めの魔物の巣となっている場合が多く、戦闘も発生する。幸運にも戦闘に勝って宝箱を開けることができれば、中に収められたロストテクノロジーの産物を発見できるという。ダンジョンには奇妙な特異性があり、現代兵装の特徴である電子回路がダンジョン内では機能不全に陥る。また火薬・爆薬の類が爆発的な発火を引き起こさないことから拳銃弾・手榴弾・爆薬・砲弾・ロケット弾などの火器一般が使えない。そのため原則的には前時代的な刀剣や弓などの装備が主流になるんだけど、遺物として見つかるダンジョン装備は武器であれ防具であれダンジョン内に限り現代兵器に代わる性能を発揮する。なのでダンジョンの深層探索には欠かせない装備となり、売りに出された場合はかなりな高値で取引されているのだそうだ。


取引の相場が知りたくてダンジョン由来装備のネットショップはないかと検索してみたけど、ネット販売はされていなかった。経緯を検索してみる。将来的には専売制が廃止されるだろうといわれていたけど、現在は政府の専売品扱いになっているようだ。買い取りと販売を行政委託されている冒険者ギルドが国内7カ所のダンジョン近傍に巨大店舗を出店していて、そこでのみ売買が可能。ただベーシック装備とされている2階層から4階層で見つかる標準装備のカタログが、日本冒険者ギルドの公式ホームページに載ってたのでざっと見てみる。暗視ゴーグルの機能を持ったメガネ型アイガードが120万円。魔石ランタンがミニマムサイズで60万。防水・防湿・耐熱・耐寒・耐酸・耐衝撃の万能耐性を持つマントが260万。マントと同じ万能耐性を持つ防具類もあり、軒並み200万から300万だった。魔石ライターが32万。防御シールド発生器が420万円。形体復元機能を持ち切れ味の劣化や刃毀れのないショートソードが540万。そして魔素を使ったハンドレールガンまであって980万。ベーシック装備でこれだから、カタログに載らない特級品などは冒険者ランクが上位のメンバーにしか開示されないようだ。


特級品や上級品の手掛かりがないかググってみたけど、どうやら意図的に秘匿されているようだ。上級者の戦闘映像がヒントになるかもと思いYouTube内で検索してみると、戦闘シーンや下層への階段位置などの重要情報を含んだ映像にはロックが掛けられてるとわかる。それらを閲覧するためには冒険者ギルドチャンネルへの有料会員登録が必要だった。わずか5万円/毎月だったので即カード決済する。閲覧できるようになったけど最初に警告表示が出た。『以下の動画には過度に残酷・残虐なシーンが含まれます。閲覧の際にはご注意ください』だそうだ。再生する。有料なのもあたり前で、魔物惨殺シーンだけじゃなく冒険者メンバーが殺されるシーンすらボカシなしで再生された。グロテスクシーンは見慣れてるのでナムアミダーと唱えながら情報収集を続ける。ダンジョン攻略動画を低階層から観ていった。それにしても人死だらけだ。会員限定動画で茶飯事のように冒険者が死にまくるのでふと興味が湧き、階層ごとの死亡率を調べてみた。地下1階層での死亡率は年平均0.3%。1000人中3人が死んでる。地下2階層で1%。地下3階層で4%。25人に1人の割合に増えてる。地下4階層で12%。約8人に1人。急激に跳ねあがる。地下5階は全フロアが敵対生物が侵入せず罠もない東京ドーム10個分ほど広大なエリアになっていて、『セーフゾーン』と呼ばれていた。地下5階層の死亡率はほぼ0%。初期に収集物の分配による揉め事で死亡者が1名でただけ。


ダンジョンは5階層ごとにセーフゾーンがある構造になっている。セーフゾーンの中心部にはダンジョン地上部の物と同じ直径5.039mの黒体があった。この黒体は『ゲート』と呼ばれている。ダンジョン内でなにも制御せずにこのゲートに入ると、無条件で地上のダンジョンゲートに転移される。しかしセーフゾーンの直上階にある階層ボスを倒せば必ず手に入る通行証があればゲート間のショートカット移動が可能になる。通行証というのは石の印鑑みたいなものらしい。直径1センチほどの印鑑部分を自分の身体の好きな部分に押し当てて魔力を流すと、その部分に入れ墨したみたいな装飾数字のマークが打刻される。ゲートから5m離れればマークは見えなくなってしまうけど、ゲートの5m以内に接近すれば再び浮かびあがるらしい。日常生活で差し障りなく温泉に入れるわけだ。ダンジョンを攻略して複数のセーフゾーンを通過できたものは複数の入れ墨マークを身体に持つことができる。行きたいゲートのマークを指で抑えて軽く魔力を流しながらゲートに足を踏み入れると、行きたい階のセーフゾーンへ転送されるんだそうだ。これにより1度クリアした階層ならショートカット転移できるようになる。ボクが使う転移魔法の類か。ベッドに場所を移して寝転がって画面を観ているところへジュラからの緊急通信が入った。


『ミナト。なんだかわからないけどシオンが連れて行かれる』


ボクはベッドから飛び起きた。スマホとリュックを鷲掴みにしてホテルから飛び出し、病院へ向かう。平日の昼過ぎ、途中の道には疾走の邪魔になるほどの人出はない。靴底から煙が出るほど急制動で病院の地下エントランスへ滑り込む。ここからはさすがに全速力など出せない。悠長にエレベーターなど待たず、階段を駆け登った。6階に到着し病棟の入口を通ろうとしたときナースステーションから女性の抗議の声が聞こえる。


「転院ってどういうことですか。娘が転院する必要があるなんて聞いてません」


「長内さん。いえ。なにかの手違いみたいで。カルテでそうなってしまっていて。別の病棟の患者さんと取り違えた可能性があるんですけど。とにかく手違いです。いまスタッフが救急車を止めに行ってますので‥‥」


看護師長さんらしき年配の看護師さんの横で若い看護師さんが俯いてた。その様子を視界の隅に捉えながら病室までの数歩を歩く。開け放たれた病室のドアから無人のベッドが見えた。詩音がいない。


「ジュラ。ボクに戻って。ルキナ。病院の1階見取り図を拾えるかな?」


サムズアップの女神ちゃん画像が脳裏に閃き、続いて病院の1階見取り図がボンッと出現する。救急搬送口が見取り図の北側に表示されている。ボクが異形を倒したエレベーターホールの奥。救急外来からの通路を真っ直ぐ進まず北方向へ折れると救急搬送口だ。救急車を止めに行ったというから、この出入り口から救急車に積み込まれているだろう。今度は階段を駆けくだる。というか踊り場から踊り場へ飛び降りる。1階に着いてエレベーターホールに出たとき、難しい顔をした看護師さん2人とすれ違った。難しい顔をしている理由が想像できちゃう。ボクは人目も監視カメラも憚らず駆け出して、救急搬送口のガラス戸を押し開いた。目の前に道路が伸びていて、20mほど先で左に折れる。そこから緩く短い坂になっている。その坂を登り切ったあたりで、植栽に消える救急車の後部が垣間見えた。全力で走れば追いつけるかもしれない。けど追いついた後どうするのか。救急車の前に回り込んで通せんぼをするのか。後部のハッチバックを毟り取って中に乗り込み詩音を奪還するのか。どうするにしろ警察沙汰になりそうだ。ボクとしてはこれ以上有名人になりたくない。としたら付かず離れず追跡して転院先を確認して見守るのがベストだろう。追跡に最適な乗り物が右の視界の奥に見えていた。道を左じゃなく右に折れれば職員専用の駐車駐輪場が広がっている。そこの手前がバイク置き場になっていた。できれば法律は破りたくないんだけど、この状況では仕方ない。はいこれでボクは窃盗犯です。手近な1台に駆け寄る。ひと手間余計にかかることを想定していたけど、幸いタイヤチェーンはされていない。バイク置き場が監視カメラに映っているのはわかっていたから、せめてもの贖罪にボクはリュックから札束を取り出した。オーバーポーズでカメラに示し、シート下の収納スペースに押し込んだ。手の平をシャッターキーに押し当てる。簡単な磁力ロックだからボクでも磁力を操って開けられる。手の平に集中すると手の平の血管からフェムトマシンが流れ出し鍵穴へ入っていく。鍵の構造を検知して自動的に鍵が整形された。ハンドルロックを外してエンジンに点火。前のいくつもの宇宙でバイクに乗って旅した経験があるからアクセルターンで車体を振り回し急発進させた。救急車が病院の敷地から公道へ出たのだろう、サイレンが鳴り響いた。病院の敷地を回り込んで救急車が緊急走行していく。ボクが盗んだ‥‥もとい、一時拝借したバイクはスーパースポーツタイプで加速がいい。これなら追いつけるはず。


救急車の赤色灯が目視できた。緩いカーブを回り込むと救急車の進行方向に十字路の信号機が見える。信号は青だったけどほどなく黄色になった。救急車が速度を落とし『救急車が交差点に侵入します。注意してください』のアナウンスを流し始めた。信号が変わってボクは停止したとしても、バイクだからなんとか追いつけるだろう。対向車線に、すでに交差点に侵入していた巨大なタンクローリーが見えた。フロントに『高圧ガス』って表示。病院に液体酸素を運ぶタンクローリーかな。ボクの最初の人生で酸素さんにはずいぶんお世話になった。なんて感慨に耽っている暇はない。こうして詩音が移送されている最中に息を引き取ったら、フェムトマシンの修復と情報の転送が間に合わず脳と神経系のシステムに歪みが生じかねない。そうなったら不完全な転写しかできず、この宇宙でも再会失敗になってしまう。そうならないためにボクが取るべき手段は‥‥救急車が交差点に入るために徐行するから、そこで追いついて車体にタッチしジュラを救急車の中に送り込むこと。ネットに同化したルキナが救急隊員の持つスマホや救急車に装備されてる搬送先検索システムなど、ネットに繋がっているすべてのシステムを通して救急車の中を監視してくれてるので、ジュラさえ送り込めればとりあえず詩音の臨終に即応できる。その場合は情報刺激を転写して詩音の体内で1からフェムトマシンを醸成することになり、時間が掛かるけど緊急処置だからしかたない。ボクの中にある既成のフェムトマシンを直接送り込んだほうが、はるかに時間短縮になる。でもそうするには詩音が息を引き取った直後にボクが物理的な接触でフェムトマシンを注入しなくちゃいけない。


そのとき。ドンッと腹に響く衝突音が聞こえた。救急車の車体で遮られ、なにが起きたか目では確かめられなかった。けれどエコーロケーションの応用でスポーツタイプ乗用車が猛スピードでタンクローリーの運転席下に突っ込んだのがわかった。タンクローリーの前輪が衝突で押し曲げられ、強制的なジャックナイフ状態にされていく。右に急ハンドルを切ったみたいにタンクローリーの運転席が折れ曲がり、センターラインを乗り越えて救急車の目前に飛び出した。スピードの落ち切っていなかった救急車が対応する暇もなくタンクローリーの運転席側面に突っ込み、前部が圧壊して後部が跳ねあがった。半逆立ち状態の救急車に、液体酸素で満タンの重いタンク部分が横滑りしながら激突する。救急車は紙屑みたいに弾かれて跳ねあがり、空中で大回転した。衝撃で後部ハッチバックが開き、回転の遠心力で詩音を固定したストレッチャーが救急車内部から振り飛ばされる。ストレッチャーのフレームがほんの数cm見えた瞬間にボクはルキナを呼んでいた。


『ルキナ。演算機能を貸して!』


光の速さで携帯からボクの中にルキナが流れ込み、脳に量子演算機能を展開してくれる。世界が燦くほど多彩な方程式に変換される。まだニュートン力学レベルだから煩雑だけどシンプルだ。タンクローリーの動き、救急車の運動、ストレッチャーの軌道。ボクの乗るバイクの性能と挙動。路面の砂利や風向きなど。すべてを考慮して最適解を導き出す。同時に3台の車のガソリン発火の可能性も計算して、爆発が起きる可能性は最小限だと答えを得た。詩音のストレッチャーがこのまま落下すると、彼女は地面に落ちた衝撃で回転するストレッチャーに縛りつけられたまま何度も顔面からコンクリートに叩きつけられる結果となる。間違いなく即死だ。ボクはアクセルを吹かしてバイクを突進させ、最適なタイミングでブレーキターンを掛けた。車体を横向かせたまま10mを滑る。バイクの自重、アスファルトの摩擦係数、スピード。ストレッチャーの自重と慣性。放物線の軌道とスピードと回転。目で見てそれを空間認識で立体化した。脳内に完璧なシュミレーションが展開する。ルキナを通してストレッチャーの重さなんかの諸元をネットから拾い集めインプットしてもらう。腕力が32あって常人の4.77倍だとしても、吹き飛んでくるストレッチャーを安全にキャッチできる計算解が出てこない。ならば詩音の安全を優先し、ボクの肉体のダメージは覚悟した。フェムトマシンを腕肩背中に集中させ、わずか3秒で肉体の耐久性を高めておく。空中にあるストレッチャーが回転しながら地面に接触しようとした瞬間、ボクとバイクがその下を滑り抜けた。


通過する瞬間右腕を伸ばしストレッチャーのパイプを握る。バイクの質量とその回転モーメントがボクの上腕筋を引き千切ろうとする。筋繊維の千切れる音が内耳を揺るがせた。全身の筋肉を収縮させ破壊を抑え込む。ゴリラ並みの膂力とバイクと一体になった慣性エネルギーを利用して、ストレッチャーを強引に軌道変更させた。バチッと手首と肘の腱が半ば千切れ、腕と肩の筋肉繊維も無惨に引き千切られたけど骨と関節はなんとか持ちこたえた。無数の刃でナマスに切られたくらいの激痛だったけど、歯を食いしばって手を離さない。ストレッチャーは回転の方向を変えられ、詩音の顔面からじゃなくストレッチャーの頭側の角から地面に当たった。損傷で力の入らなくなった右腕を離し、バイクを押さえていた左手を離してストレッチャーの側面を掴む。詩音の身体ごとストレッチャーが上向になるまで回転させた後、伸びあがって肩を押し当て回転を止めた。計算通り。地面まで20センチ。バレリーナの羽のような着地とはいかなかったけど、ソフトランディングを成功させた。ストレッチャーの側面に肩を入れ、バイクを蹴って地面に足裏と膝を突いて制動を掛ける。ストレッチャーはかろうじて道路の縁石前で停まった。蹴り出したバイクは縁石に弾かれて空中を3回転し、電柱に突っ込む。あちゃあ。フレームが曲がってしまった。廃車コースだ。


バイクに向かってゴメンの意味で片手で拝み、視線をストレッチャーに戻す。詩音がどことなくぐったりして見えた。胸に耳を当てるも、心臓の鼓動が聞こえない。息も止まっている。心肺停止状態だった。衝突の衝撃がシオンの命の残り火を吹き消してしまったのだろうか。詩音は通常より1日早く臨終を迎えた。でもボクは間に合った。大量のフェムトマシンをシオンの胸から体内に浸透させる。十分な量を注入したところで身体を離し詩音の顔を見つめた。救急車が衝突してロックが外れ、ストレッチャーが車内で滅茶苦茶に振り回されたのだろう。そこで致命傷を受けてもおかしくない惨事だったはずだけど、運のいい彼女は頬の浅い擦過傷を受けただけだった。その傷がみるみる消えていく。よっしゃあ。修復が正しく始まってる。もう大丈夫だろう。ジュラに命じてシオンのデータを転写した。シオンの呼吸が戻る。心臓の拍動も再開した。身体に掛けられていた毛布を直してやる。ボク自身の腕や身体の損傷も修復が始まっていた。


「たこ焼き‥‥」


右手をだらんと垂らしたままシオンの横で立ちあがったとき、シオンが呟いた。この能天気娘はどんな夢を見ているのか。シオンはどんな宇宙へ行ってもシオンだな。シオンの安全は確保した。次は人道的支援ってやつか。ボクは救急車の後部から中に入った。救急車は空中で回転し横腹から地面に激突したけど、勢いでさらに回り最終的に正常な姿勢で擱座していた。後部に乗っていた救急隊員は運転席との仕切壁に貼りつくように倒れている。腹の上に乗った何かのモニターをどかし、自己増殖しない自殺型フェムトマシンを注入しながら左腕1本で車外に引っ張り出す。何ヶ所かの骨折と脳震盪とちょっとだけの内蔵損傷だから数十分で回復するだろう。運転席と助手席の救急隊員はもっと重症だった。運転していた機関員は潰れた前部に脚を挟まれ、左脚は大腿部で千切れかけていたけど大量のフェムトマシンを注入したので千切れた脚がくっつき始めた。助手席に座っていた隊員もかなり重症で、内臓損傷と脊椎骨折と眼球破裂があったけど、かろうじて生きていた。これもなんとか修復可能だろう。3人を救急車から引き出したときには、ボクは限度を超えた大量輸血したみたいにフェムトマシン欠乏でふらふらだった。


「おーい。お姉ちゃん。そっちは大丈夫か?」


声が掛かる。タンクローリーから降りてきた作業服のおじさんが様子を窺ってくれたのだ。


「こっちは大丈夫です。救急隊の人は全員車外に運びました」


返事をすると作業服のおじさんは手をあげて了解の合図をした。顔をしかめてかすかに足を引きずっている。折れ曲がったタンクローリーの運転席を回り込み、向こう側でタンクローリーに突っ込んだ車の様子を見に行ってしまった。遠くからウーウーという警察車両のサイレンとピーポーな救急車のサイレンが混ざって聞こえ始めた。バイクは電柱と永遠の愛を誓ったみたいに一体化してた。さっきシート下に入れたお金だけでは足りない気がしたので、リュックからもう200万円分の札束を取り出す。救急車の車内からばらまかれた何かの書類を拾いあげ、救急隊員の胸ポケットのボールペンを借りた。書類の裏に『緊急事態だったのでお借りしました。壊しちゃったので弁償します。あまった分は精神的慰謝料ということで』と書いて現金ごとシート下に押し込んだ。総額400万あれば新車買ってお釣りが来るだろう。現金の入ったリュックを持ってきて正解だったな。ボクはシオンのもとへ行き、ペシペシと頬を叩いた。たこ焼き世界から戻る様子はない。ホテルの名前とボクの携帯番号を書いた紙の切れ端をクシャクシャに丸めて、手にしっかり握らせた。


「たこ焼き奢るから、はよ復活しな。待ってるよ」


いい置いてフラフラしながら現場を離れる。失われたフェムトマシンを補充するため、途中コンビニに寄って大量の食事を買い占めた。コンビニのお兄ちゃん店員が驚きとあからさまな好奇好色の目で見つめてきたけど、愛想笑いする元気もない。マスクは吹っ飛んだので顔丸出しの若くてキュートな銀髪姉ちゃんが、ボロボロでドロドロな格好で30人前近いコンビニ弁当を買い込んだら誰だってそんな目で見るだろう。ジーンズの膝部分はビザ小僧がまるっと露出するくらい擦り切れてるし、白だったブラウスは油とドロに汚れて脇のかぎ裂きからブラの一部を覗かせている。本来ならこれに地面との摩擦で弾けた膝の肉片やら血やらがスプラッタ風味を加味してたはずだけど、血にも肉にも混ざってるフェムトマシンが全部回収してたので警察呼ばれることはなかった。大量のコンビニ袋を引きずってホテルに帰館したら、フロントのおじさんもかなり爛々とした視線を送ってきたけど、さすがはプロフェッショナル。必死で平常を装い、渋い声で通り過ぎようとしたボクを呼び止める。


「神代様、お荷物を預かっております」


Amazonが届いていた。やるじゃんAmazon。30人前のコンビニ弁当で手が塞がっていたのでAmazonのお届け分は部屋まで運んでもらった。部屋に戻ってまず10人前の弁当とペットボトル2本の水を飲み、髪と身体をピカピカに洗い、ゆったりとバスタブに浸かってリフレッシュする。使い捨てでフィット感がイマイチだった下着を捨て、新しい下着を身に着ける。どの世界線に転生しようとも一択。ボクの好みは装飾も模様も一切廃したグレーのスポーツブラとショーツと黒のタンクトップ。その上から米軍特殊部隊仕様と銘打った野戦服モチーフのフィールドパンツを履く。耐水・耐寒・耐熱・耐湿・耐摩耗・耐刃・難燃・耐酸・速乾の高機能保証。色はインディゴブルー。フィールドジャケットは肩に羽織るだけにしておき、コンバットブーツは履かずにベッド脇に揃えて置いた。携帯に充電器コードを繋ぎベッドに放り出す。お腹が鳴ったので温かいお茶を煎れ、腰を据えて残り弁当20人前を平らげた。はしたないけど小さくゲップしてフロントに電話し、Amazonの梱包の空き箱や弁当の容器を片付けに人を寄こしてもらう。部屋に来た女性スタッフにカタコトながら丁寧に礼をいってから渋沢栄一さんを手の平に押し付け、必死で固辞する女性スタッフに日本語がわからないふりをして押し通す。片付けが終わるまでニコニコ顔でソファに座って見守り、終わったと同時に歯を磨きベッドに倒れ込む。0秒で昏睡に近く眠りに落ちた。


「どやっほー。ミナト。シオンちゃん参上だぞー。おひさー。起きろー。あんたネットでとんでもないことになってるよー」


アホみたいに脳天気なシオンの声で目が覚める。とんでもないことになっていた。

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