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1.ありふれた「病室」と「フェムトマシン」と「いぎょう」

ボクの自発呼吸が止まった。心臓の拍動も消えた。ありふれた天井の石膏ボードと照明器具の蛍光管がボクの見た最期の情景。直接の死因は多臓器不全。原因となった事故で長時間の呼吸停止による酸素欠乏により大脳は大きなダメージを受けた。かろうじて蘇生されたものの、生き残ったのは小脳と脳幹のみ。つまり植物状態という状況に陥って10ヶ月が過ぎたらしい。残念ながら意識が回復することなくボクは死を迎えた。脱力した瞼が閉じ、一定のパルス音を発していたベッドサイドモニターが耳障りな警告音に変わる。脳幹がかろうじて灯し続けた命の火が消える瞬間、ジュラに転写されていたボクの情報魂が死にゆくボクの脳と全身の神経・血管・リンパ管ネットワークに転写された。同時に脳脊髄液の中の免疫グロブリンGが書き換えられてフェムトマシン化する。ナノテクノロジーとかナノマシンというけれど、ナノは小ささの単位で10のマイナス9乗。ボクとジュラが使っているのはさらに小さな原子核サイズ10のマイナス15乗のフェムト単位で働く中性子マシンだ。フェムトマシンが等比級数的に自己増殖し全身に散る。移植されたボクのデータに従って脳のネットワークが再構築され、余剰なフェムトマシンが血流の止まった血管やリンパ管内を自走して全身の細胞に散った。脳幹で行われていた生命活動が再始動され、呼吸と鼓動が戻る。ボクに繋がれていたベッドサイドモニタでは心電図波形も脈波形も呼吸曲線もフラットになったけど、1秒後には正常波形に戻った。でも愚直な器械は気のせいだとか勝手に解釈することもなく、ピピピピうるさい警告音を発し続けている。ボク大きく息を吸った。この世界での最初のひと息だ。喉に溜まった喀痰がかすかにゼロゼロいう。新鮮な酸素が脳と身体の全細胞に染み込んでくる。生き返った気分だ。いや、文字通り生き返ったんだけどね。


パタパタと駆け込んでくる足音が聞こえ、シャッとカーテンが開けられる音が響いた。身体に掛けられていたタオルケットが剥がされ、誰かの手がボクの身体に触れる。病衣の前がはだけられた。誰かの指がボクのはだけられた胸の上を滑る。貼りつけられた心電図測定用の電極をまさぐった。電極の剥がれなどでもアラームが鳴る。左手が持ちあげられ、指先に嵌め込まれた血中酸素濃度測定センサーも調べられる。ベッドに寝ててベッドサイドモニターに繋がれているシチュエーションは嫌っていうほど経験してる。今回の転生でも同じ。ってことはボクを弄くり倒しているこの人物は看護師さんで間違いないだろう。最初の人生から看護師さんに触られ慣れているボクは、その手つきだけでもキャリアがわかる。この看護師さんはまだ新米さんだな。看護師さんの指が胸に触れたとき、残念ながらこの世界でもボクの身体は女だったとわかった。今更慌てたりしないけど。看護師さんにチェックされているうちにフェムトマシンの全身展開が終わる。長期間のベッド生活で弱った筋骨がみるみる再建されていく。37兆個もある細胞が、見た目はあまり変わらないままスーパー細胞に置き換わった。全身に先駆けてまず脳の復元が終わったのでボクはゆっくり目を開ける。最期に見た天井の石膏ボードと照明器具の蛍光管が再び視界に入った。ベッドサイドに立った看護師さんの背中が視界の隅に見える。白衣の天使ならぬピンクのナース服だ。ベッドサイドモニターのスクリーンに触って設定画面を呼び出していた。アラームが止まる。顔をわずかに動かしたとき鼻に違和感が生じた。手をあげて探ると左の鼻の穴からチューブが突き出している。経鼻経管で栄養補給をされていたようだ。もう必要もないし不快なだけだから、鼻と頬に貼られたテープを剥がしつつズルズルと引き抜く。先端が抜けて鼻を啜った音で看護師さんが振り向いた。


「え。あ。神代さん。あ。意識が。えええ?」


なんか復活したゾンビでも見るような顔してる。ボクは人見知りが出て、悪いことをしたみたいな気分になり胸前で小さく手を振った。


「けほ。あ。あー。すいません。お水と、なにか食べ物もらえませんか。飢え死にしそうで。あと。いま西暦何年何月ですか?」


「え。あ。神代さん。待ってください。急に水とか飲めません。口を湿らせるくらいならできるからちょっと待っててくださいね」


看護師さんがアセアセと胸ポケットから引き出したPHSを操作した。


「あ。師長。602号室。神代さんが、神代湊さんが、目を覚ましました。ほんとうです。会話できてます」


それからのバタバタはコントにもならないので割愛。現在は西暦2028年9月。ボクは事故に遭い10ヶ月間昏睡状態にあったという。詳しい経緯いきさつはわからないんだけど、真冬の海に車ごと水没し溺れたんだそう。脳が酸欠となってダメージを負い植物状態になった。ボクはこの世界のボクから記憶を引き継いでいたけど、事故前後の記憶がすっぽり抜け落ちている。内科や外科や脳神経外科の先生たちが怒涛の勢いで押し寄せてきて徹底的な検査をされそうになったけど、全部突っぱねた。ベッドから降りて手近にいた看護師さんを抱きあげスクワットをして見せる。健康体アピールはとりあえず成功した。血液検査とМRIだけを受けることを了承する代わりに、大量の電解質飲料水と栄養補助ゼリーをゲットする。長々とした診察やわずらわしい神経心理学的検査なんかは強硬に拒否った。ボクには時間がないんだ。主治医はまだ若い先生で話にならないので上長を呼んでもらい、とにかく明日には自主退院することを告げる。市役所から福祉課の職員が飛んできて未成年後見制度がどうとかいろいろ喚いてたけど興味なし。スマホは床頭台の引き出しにしまわれていた。幸いにも引き落とし口座に約1年分の使用料に相当する残高があったおかげでまだ使える。前のボク、グッジョブ。確認するとその貯金も残高数千円となってて、来月には利用停止になるところだった。とりまギリギリネット環境が使える。ボクは脳内会話でジュラに依頼し、ルキナをネットに送り出してもらった。さすが日本が世界に先駆けて開発した大規模量子コンピュータの代理人格。ルキナは水を得た人魚のようにするりとネットの海へ流れ込み、1分25秒後にある方法でネットの海からお金を掻き集めてくる。違法なのか違法じゃないのかわからないけど、とりあえず全世界の悪い組織が悪いことして集めたお金からつまみ食いのように小額ずつ掠め取らせてもらった。電脳世界のことは電脳の申し子がいるのだから方法はルキナにお任せ。電子的2重帳簿の類もきっちり改竄してあるっていうからバレる心配もない。盗まれた組織の人は盗まれたことにも気づけないだろう。掠めたお金が塵も積もって4億7千万円。世界中でいかに悪いお金が溢れているかという証拠だ。そこからボクの入院治療費を全額一括で払い込み、翌朝には無理やり退院して都内の高級ホテルのセミスイートルームに移った。身体はまだ本調子じゃない。だから人の目から逃れて落ち着ける場所が必要だった。


朝から優雅にアロマ風呂に浸かり、湯あがりに素っ裸で部屋の姿見に身体を映す。以前のボクことミナトは銀髪のボブだったけど、この世界の神代湊は銀髪のセミロングだ。入院で伸びたんだろう。前髪も伸びてて鬱陶しい。顔つきがなんとなく前より丸く日本人ぽくなったような。体格的には身長も胸の大きさも前の身体と変わりない。ヒップ周りに少し張りがないような気がする。全体に圧倒的な栄養不足で少しやつれて見えるんだな。これは栄養補給すれば解消するから問題ない。この世界でのボクの記憶をたどると、ボクは私生児で父親は不明。亡くなった母は男性関係が多彩な人だったようで、どうもボクには北欧系かロシア系の血が混ざっているらしい。なのでこの銀髪ってことか。素っ裸のまま窓際に歩み寄り、デスクに置いておいた昨日買ったばかりのノートパソコンを開封する。Amazonで買って即日配送してもらった最新機種だ。スマホでも用は足りるんだけど、新しい世界を調べるためには大きな画面が便利だからね。持ち運びにはちょっと難があるけど、ボクはアクティブな性格じゃないから最大サイズの16インチモデル。トップカバーを開けて自動起動すると、囓られたリンゴマークのあとに各国語のご挨拶文字。先に送ってホテルの無料WiFiに繋ぐ。一連のセットアップを終わらせた頃にルームサービスが届いた。さすがに素っ裸で受け取るわけにも行かないのでガウンを羽織る。セッティングいたしますというホテリエの申し出を断り、朝食ワゴン2台を受け取る。アメリカンブレックファストに和定食にステーキサンドイッチなんていうとんでもなく大量の料理をひとりで食べる。なんて知られるのちょっと恥ずかしいからね。パソコンを置いたデスク周りにワゴンを配置し、手当たり次第に食べながら最初に行ったのが日付と時刻の表示。2028年9月の10日。時刻は朝の8時26分。ボクが最初の世界線においてルキナの世界線へ転生したのが2052年。そこから転生を繰り返し、この世界線においてボクは最初の世界線より24年も前の日本に転生していた。最初の世界線でボクはまだ生まれてもいない。


起動したノートパソコンを通して再度ネットにルミナを送り込むと、今度は3秒でシオンの居場所を突き止めてくれる。シオンの同位体であるこの世界の長内詩音は、多摩地区の総合病院の緩和ケア病棟に入院していた。世界から世界への転生を始めて、渡り歩いた宇宙の数はこの世界で億のオーダーを超えてる。大体どの世界でもボクとシオンの関係は近似していて、こっちの世界のボクが死んでから3日でシオンが死ぬパターンがダントツで多い。最初の転生でもシオンはボクの転生の3日後に転生してきた。量子力学的になんらかの相似関係があるらしい。なので明日の昼過ぎまでに、こっちの世界の詩音が亡くなる可能性が高い。ただ明日に亡くなる確率が最大とはいえ、それ以前に亡くなる確率もゼロじゃないのでボクは急いでいた。居場所は掴んだ。ボクはルキナに病院の監視カメラに侵入するように頼み、シオンの病棟の廊下を映すカメラ画像を記憶した。これで転移魔法が使える。ダイソンさんの掃除機並みに朝食を流し込み、オレンジジュースとピーチジュースを飲み干して立ちあがる。新しい身体だけど勝手知ったる自分の身体でもあるので魔素練りは息するようにできるはず。と思って魔素を循環させたんだけど、なんかおかしい。メチャクチャ『重い』。変速ギアも電動アシストもない自転車でスキー場の35度上級者コース斜面を登ろうとしているみたいだ。普通に踏ん張っても魔素がビクともしない。頭が割れて蒸気が噴き出しそうなほどりきんで踏ん張って、ようやくのそりと魔素が回転する。動き出したからといって惰性があるわけじゃなく、練るために体内を循環させるためには初動と同じ精神圧力が必要だった。魔法陣をイメージ構築してそこに魔素を流しても錆びて詰まった排水管に水を流そうとするみたいな感覚が生じる。病みあがりでまだ本調子でないボクの精神力では、現状無理と判断して中止する。


『ルキナ。悪いけどシオンに張りついてモニターしててほしい。ルキナの身体探しはちょっと後回しになる。ごめん』


ジュラを通して思念通信を送る。ルキナからサムズ・アップした2頭身の女神がウインクするキャラスタンプ画像が送られてきた。


『ジュラもルキナのそばで待機して、詩音が息を引き取ったらデータ移植してくれる?』


『アイアイ』


転生を繰り返す中でボクの身体と一体化したみたいになってるジュラが、『ふんぬ』って踏ん張るように分離した。ネットワークを辿って光の速さでルキナの元へ飛んでいく。ボクは高次元生物でもデジタル生命体でもないので自分の足で移動しなくちゃならない。ジュラとルキナに任せてもいいんだけど、やっぱシオンは直に迎えてやりたいから。4億6000万円以上持ってるけど、身に染み付いた貧乏人根性は健在なのでタクシーじゃなく電車とバスを乗り継いで病院まで行く。ノートパソコンは重くて嵩張ったけど、そのくらいの筋力は回復したので根性を見せた。昼前には到着して受付で面会用紙に記入し、面会者バッチをもらって院内に入る。ここまでくればいざという事態になっても十分対応できるので、まっすぐ売店に直行した。おにぎり10個とカツサンド5パックとコロッケパン4個と焼きそばウインナパン4個を買い占めて、イートイン的に開放されている休憩スペースに居座った。詩音の病室がある緩和ケア病棟は6階。詩音の容態が急変しても1分で駆けつけられる。ルキナからの報告では詩音の容態は安定しているようだ。ボクは休憩スペースの自販機で緑茶のペットボトルを買い、おにぎりを頬張りながらノートパソコンを開いた。病院内のフリーWiFiがあったので繋いでまずは2028年の重大事件一覧を検索する。新聞社のページを開きずらずらと表示される写真付き記事を一瞥して、真っ先にこの世界とボクの前いた世界との違いがわかった。なんとこの世界にはダンジョンがあるんだと。最新トップ記事はノルウエーとスウェーデンの合同18人レイドパーティが、3人もの犠牲を出しながら29階ボスのヒュドラを倒し30階到達したというもの。クリア報酬はシュートカットゲートの通行証18人分。さらに80カラットもの巨大魔石がグリーン2個、パープル4個、ブルー2個出たらしい。パープル魔石が4個出たおかげで犠牲になったメンバー3人が蘇生できたという。さらにドロップされた宝箱で遺物が発見されたようだ。遺物は現在調査鑑定中とのこと。どうやらこの世界のダンジョンにはゲートキーパー的なボスモンスターがいたり、モンスターがドロップする遺物があったり、ポーション的な効果を持つ魔石があるらしい。


過去の記事を遡っていく。いくつかの記事を読み合わせると‥‥2026年8月、全世界327カ所で一斉にダンジョンゲートが出現したってことがわかる。わずか2年前じゃん。地球の昼側でも衛星軌道から観測できるほどの発光と大量のニュートリノ放出が生じたと記されていた。光だけじゃなくEМP爆発のような電磁波の異常が生じ、重力異常も検知されたらしい。そのため早い段階で327カ所の出現ポイントが特定されたようだ。特に東京・京都・ニューヨーク・パリ・トルコのイスタンブール・ノルウエーのオスロー・中国の上海・台湾の高雄では、大都市の真ん中を破壊してダンジョンゲートが出現したためたくさんの記録映像が残されている。鮮明な画像なためYouTubeで16億再生を記録したのがニューヨーク、マンハッタン島、ダウンタウンのグリニッジビレジにおけるダンジョンゲート出現の様子だった。設置位置や向きの関係で強烈な出現光によって受光素子が焼け切れずに生き残った監視カメラ映像だ。まず空間に回転する黒い穴が生じた。それが発する重力波に似た吸引力で周囲に建っていた3ブロック分の高層ビル群が瓦礫に変えられ、塵ひとつ残さず吸収される。幸いなことに2日前から前兆として発生した群発地震や地鳴りのお陰で地域避難令が発令されていたため、犠牲者はゼロだった。その後穴の周囲が強烈な光を発し、30秒ほどで光の嵐が収まるとそこに巨大な石造りの構造物が出現していた。放射能の類は検知されず、駆けつけた消防隊や救急隊などが見たのは‥‥サグラダ・ファミリアの尖塔部分に似た異質な構造物だった。遠目には石造りの建物に見えるけど、現在ではその組成は石でないことがわかっている。蜂が巣の材料として分泌する蜜蝋のような、あるいはシロアリが蟻塚を造る際に使う排泄物のような生体材料らしい。未だ組成は分析できていない。石どころか鋼鉄より硬く熱にも強い。人が造った人工物のように見えるけど、寄って見ると意匠や構造は不揃いで人が造る建築物のような幾何学的完成度はない。


おにぎり10個とカツサンド5パックを平らげて、コロッケパンの包装を破りながら別の動画を見てみる。ダンジョンゲートの構築物に入っていく紹介動画だ。どのダンジョンゲートにも共通して、その基部南側に石のアーチ状構造に修飾された開口部があるのだという。そこから内部に入ると、中は巨大な吹き抜けのホールになっている。構造物の尖塔部外壁に開いた無数の空洞から光が差し込み、それが尖頭アーチ状の内部空間に浮かぶ薄青い鏡面体によって反射され真下に落ちる。海の底みたいな青い空間の神秘的な明るさに満ちたホールの中心にその黒体があった。直径は5.039m。不思議なことに測定的には球体であるはずなのにその周囲360度どこに立って黒体を見ても立体物には見えず、一直線に奥へ続く巨大な穴に見える。そして実際にその黒体に足を踏み入れれば、そこは直径5.039mの暗い洞窟だった。中に入っていった人を外から見ていると、中の人が進むに連れ渦巻き状に歪んでいき最後には白く細いリングとなって外周を超えて消える。中に入った人は漸近ぜんきん的にカーブして真下に落ち込む通路を下ることになるのだけど、重力も通路面に対して垂直に働くようで落ちることなく歩いていける。そんな動画をふむふむと2個目の焼きそばウインナパンを頬張りながら眺めていたら、ふと胃のあたりに重みを感じた。ようやく身体再構成のための素材吸収が終わり、食べた物が普通に胃に溜まる感覚が生じたってことだ。いままでは食べたそばからフェムトマシンによって分解され身体構成材料として食道を下るあたりで持ち去られてしまうから、胃に溜まらず空腹感が消えなかったわけ。残りの焼きそばウインナパンを平らげ、まだ物足りなかったので売店に出向こうとマスクを着けて立ちあがる。さっきから聞こえていた救急車のサイレンがふっと消え、しばらくして真っ直ぐな通路の奥に見える通用口を救急車の赤色回転灯がよぎった。さすが2次救急病院。ボクがイートインに陣取って貪っている間に、3台もの救急車が入ってきてた。なんかひっきりなしって感じ。売店で水とオレンジジュースと揚げたての唐揚げ3箱18個を買い足す。席に戻って唐揚げを流し込む作業にいそしんだ。最期の1個に爪楊枝をぶっ刺したとき、この世界で目覚めて初めて満腹の充足を感じる。


身体の再構成は終わったようだから、これでボクの身体的性能が固定されたはず。ステータスパネルを開いてみる。いや、これがまた重い。廃屋の錆びついた引違い窓を無理やり開けるような感触。ぬおおおと鼻息荒くなんとか開けた。見慣れたステータスウインドウ。銀髪セミロングの美女の上半身が枠に収まって微笑んでいる。


**************

名前:神代湊

年齢:17歳

性別:女


【獲得経験値:0】

【ステータス覚値:0/0】


筋力:0  敏捷:0

知力:0  精緻:0

生命:0  感覚:0

**************


最初の世界では項目としてあった『職業』がなくなっている。いまのボクは学校にもいっていない無職のプーだからなあ。予想通りステータス覚値ボーナスもなく6項目のメインステータスはどれもゼロ。基本の6項目の数値は係数みたいなものだから、ゼロの場合特別な補正はなく17歳女性の平均値まんまってことになる。このままだと健康ではあるけどかなりひ弱な乙女になってしまうのだけど、もう1回ぬおおおと踏ん張ってサブステータスウインドウを開くとそこにボクの宇宙遍歴の成果が表示されていた。後天的に修練や熟練によって培われたパーソナルアビリティボーナスという補正値がすべてのサブ項目に付加されている。ざっと見て低くても22、高いものは42もある。ステータスが1あがるごとに能力が5%あがる。増加分は複利計算になるためステータス22は2.93倍、ステータス42で7.76倍にもなる。これはありがたい。転生する世界によってはこの補正すらない場合があり、命に関わったりするからだ。


**************

筋力 0:握力+29【29】

     腕力+32【32】

     脚力+40【40】

     投擲+28【28】

     打撃+38【38】

     牽引+32【32】

     跳躍+35【35】


知力 0:魔力+35【35】

     思考+36【36】

     集中+28【28】

     空識+31【31】

     記憶+42【42】

     情報+32【32】

     観察+40【40】

     心象+41【41】


生命 0 耐久+28【28】

     免疫+28【28】

     持久+28【28】

     耐撃+20【20】

     抗毒+26【26】

     抗老+28【28】


敏捷 0:瞬発+38【38】

     神経+38【38】

     反射+31【31】


精緻 0:誤差+38【38】

     筋制+37【37】

     環応+40【40】


感覚 0:遠視+28【28】

     微視+26【26】

     動視+42【42】

     暗視+38【38】

     測視+27【27】

     微音+37【37】

     音析+31【31】

     音域+30【30】

     微臭+20【20】

     臭析+20【20】

     微感+34【34】

     振析+35【35】

     味析+28【28】

     毒感+22【22】

**************


食べるものも食べたし、身体はそこそこ使える身体に再構成されたし、詩音の容態はいまのところ安定してる。都心のホテルはチェックアウトしてきたので現状ボクは住所不定。さくっとネットで調べると病院から多摩センター駅方向に歩いて10分の場所にシティホテルがあった。ネット予約でそのホテルに部屋を取る。歩いて10分なら距離にして800m。17歳女子の平均800m走タイムが2分11秒。時速にして約22km。脚力ステータス40で女子高生平均の7.04倍だから、ボクなら時速155kmで走れる。つまりホテルから病院まで普通に走っても18.6秒。何かあっても充分間に合う。最後の1個の唐揚げを頬張り、ゴミをまとめて入口のゴミ箱へ押し込んだ。まだ口を切っていなかった水のペットボトルとノートパソコンをリュックに押し込み、背に担いでイートインを出る。詩音のいる6階病棟を下見しておくつもりでエレベーターホールに向かった。エレベーターは左右に2基ずつ4基。右が一般用で、左がベッド丸ごと入る搬送用大型エレベーター。大型エレベーター2基に並んでその奥に救急外来の入口が見えていた。エレベーターホールの先で壁に突き当たる。そこに掲示されている案内板によれば、左に行くと救急外来に入っていけて右に行くとレントゲンやМRI室が並ぶ放射線科になるようだ。さまざまな動線が交差するポイントで昼時も近いせいか、エレベーターホールは行き交う人々でごった返していた。エレベーター待ちの列の後ろにつき、何億年経っても治らないコミュ障癖で気配を消す。背中に背負ったリュックを前抱えにしようと肩から外したとき、ゾッとする苦鳴が響き渡る。角度があって見えないけど、救急外来と書かれた入口の奥からだった。何かがちぎれる音。エレベーターホールにいた全員が音のする方を見た。金属の構造物が倒れる音。ブチッと引きちぎられる音。


「うわっ」


「離れろ!」


「イギョウダ!」


最後の声は意味がわからなかった。誰かが偉業でも達成したのか。次の瞬間聞きたくない音が聞こえた。肉が鋭利なもので引き裂かれる音。と同時に、腹から太いロープをなびかせた救急隊員が、救急外来の入口から吹き飛ばされて宙を飛んだ。斜めに壁に激突し、廊下に崩折れる。腹に纏わりつくロープは、切り裂かれた腹から飛び出した大腸だとわかった。性能のよすぎる動体視力にも困ったものだ。一瞬にして清潔だったホールの壁が血まみれになる。そのときになって初めて人々の口から悲鳴があがった。雪崩を打って人々がボクの方へ押し寄せてくる。ボクは壁に貼りつくようにして人波を躱し、ノートパソコンを守った。誰ひとり大怪我をした救急隊員を救けに行こうとする者がいない。エレベーターホールから人が消え、唯一右奥のエレベーター前で床にうずくまる親子連れとボクと瀕死の救急隊員だけが残された。遠くで「警備を呼んで」とか「警察を」とか「ギルドに連絡」とか喚く声がしてる。何が起きたのか覗こうとして足を踏み出したのと同時に、救急外来の入口からのそっと異様な人が現れた。ズタボロになった衣服の残骸を垂らしていたから人とわかったけど、見た目は‥‥人のなり損ない。人体がブクブクと泡立ち膨れあがり、それが巨大な瘤になって右半身を覆い尽くそうとしてる。左半身はかろうじて人の形態を保っていたものの、肥大化する右半身に引っ張られて歪んでいた。元は人間。それが人以外の何かになろうとしている。見ているそばから瘤の上に瘤が生じ、ボクに向けた側が急膨張していく。髪の毛がごそっと抜け落ち、瘤に覆われた顔面から右の眼球がメロンほどにも拡大して突出した。頚椎がどうなっているのか想像もつかないけど、首が30cmも伸びている。腕は筋肉の束と巨大な瘤か混ざり合って膨張し、常人の腕の10倍に太くなっていた。その手指の先からは太く真っ黒な爪が10cmも伸び出し、救急隊員のものだろう血をしたたらせている。ゴツい革のブーツを履いていたけど、右脚のブーツが下半身の肥大化とともにはち切れて脱げた。こんな化け物相手に警備のおじさんが警棒で立ち向かってもあっさりミンチにされるな。警察より自衛隊のほうがよくないか。とか悠長なことを考えていたら、長く伸びた化け物の首がギギギと捩じ曲がってこっちを向いた。


向いたけど、ボクを見たんじゃない。エレベーター前で床にうずくまる親子連れの方を見てた。母親は押されて倒れたときに頭でも打って意識を失ったのか、子どもを守って抱いたまま動かない。意識のある3歳くらいの女の子が母親の腕の中でもがき、抱擁を逃れて四つん這いになろうとしていた。化け物はその動きを察知したようだ。あ。こりゃまずいな。そう思った刹那、女の子が化け物を目の当たりにした。一瞬硬直して、ヘタっと腰を落としつんざくような泣き声をあげる。化け物がおぼつかない足取りながら女の子の方へ踏み出した。メキメキと口が開き、人間が残った半分側の頬がビキッと裂ける。血と一緒にヨダレが溢れた。もう1歩踏み出し、巨大化した右腕を振りかぶる。こんなので一撃を食らったら、子どもなんてミンチになる。うわー嫌だなあ。こんなグチョグチョした化け物に触りたくないよ。でもここにはボクしかいないし、しかたない。縮地の移動で化け物と女の子の間に入り、振りおろされた腕の手首の内側と手の甲に手を添えた。化け物の腕の振りの勢いに逆らわず、手の甲を押して内側に巻き込むようにベクトルを変える。化け物の勢いも利用しているからゴツい手首が簡単に鋭角に折れ曲がった。手首関節の可動域を超えているから強烈な痛みが走っているはず。はずなんだけど‥‥手の平から伝わる化け物の筋肉の動きに怯みは感じられなかった。こいつ、痛みを感じてない。痛みのない相手に立ち関節技は効果が薄い。さっき化け物の手首を曲げる際に爪先がボクの着るブラウスの胸元をかすめてた。前身頃の生地が切り裂かれるとこだった。買い物してないから一張羅だし、その奥には未だになんか慣れない薄ピンクのブラを着けているんだ。他人に見られたら死ぬほど恥ずかしいじゃないか。こんにゃろめ。憤慨の気分で気味悪さを誤魔化しつつ、立ち関節から打撃に切り替える。ボクは右肩を突っ込むように半身になって身を沈め、化け物の腕を巻き込みつつ後ろの女の子から軌道を逸らす。沈む動作と一体になった挙動で右脚を前に伸ばした。化け物の踏み出そうとする左脚の足首を足裏で押さえる。踏み出す脚が踏み出せず、化け物がバランスを崩して膝を突こうとする。そこでさがった頭の顎先にボクの肘打ちが決まった。最小の動きで下から上に振り抜かれた肘が、脚を払われて倒れ込み上から下へ流れた顎先へのカウンターとなった。化け物の頭がホームランボールのようにかちあがる。化け物だろうが脳のある生物なら脳を揺らすアッパーは効果的なはず。これでだめなら最終手段で殺すしかないんだけど‥‥肘のかちあげは確実に効いた。ズズンと重い音を響かせて化け物が崩折れる。意識が絶たれたようだ。ピクリとも動かない。


「もう安全だから、誰か来てー!」


ボクは泣き喚く子どもを放置して、瀕死の救急隊員に駆け寄った。リュックから口を切っていない水のペットボトルを取り出し、救急隊員の腹から飛び出した腸をざっと洗いながら腹の中へ押し戻していく。腹の傷の中も洗った。腸を戻したら救急隊員の着ていた上着を引き裂き、折り畳んで傷の押さえにする。救急隊員のベルトを外し止血帯の上を通して思いっきり締めあげた。ボクの叫びに反応してくれたのは救急隊員だった。救急外来の入口から恐る恐る顔を覗かせた仲間だろう救急隊員に、ストレッチャーを指示する。いったん現場を離れ、売店に入ってさっき唐揚げを買ったときに視界の隅に入っていた雑貨コーナーの延長コードを3本手に取った。売店の店員さんも逃げ出していたから適当に千円札を3枚置いて化け物の元に戻る。化け物の両手を背中で縛り、両足首を縛り、さらに脚を折り曲げて手首と足首をひとまとめに縛る。腕力ステータス32で女子高生平均の4.8倍の力でギチギチに縛ったからゴリラでもいましめを解けないだろう。救急隊員がストレッチャーを押して戻ってきた。


「すいません。後はお願いします」


そう声を掛けて放射線科の方へ逃げる。通路の奥にあるトイレに入ってガシガシ手を洗い、廊下に設置してあるアルコールで消毒した。化け物化が伝染病だとしたらこれでも足りないだろうけど、マスクはしてたし免疫ステータス28で常人の3.9倍もある。なので後は免疫任せ。体内のマクロファージさんにエールを送りつつ、いったん病院から逃げ出した。化け物を倒したちゃったのは正当防衛になると思うけど大怪我させてたら面倒なことになるかもしれないし、そうじゃなくても詩音が息を引き取るまで余計なゴタゴタに巻き込まれるわけにはいかない。ホテルに籠もってネットに繋ぎ、そこで検索して『いぎょう』の意味を知った。『偉業』じゃなくて『異形』だったのね。ダンジョンが発生してから流行り始めた病気らしい。伝染性はないだろうとされていたけど、未だに病原体は特定されていないし、感染や発症の機序も謎のままだ。YouTubeで最初の『異形』発生時の映像があると書かれていたのでYouTubeへ跳んでみる。『異形』で検索しようとして、トップページの最上段にある速報ショート動画が目に入った。『【速報】異形と戦う銀髪の戦姫、多摩の病院に降臨』とかタイトルがついてる。サムネイルに映っているのは紛れもなくボクだった。なんで。あ、これ監視カメラの映像だ。監視カメラ映像が流出してるじゃん。マジか。一夜にして有名人になってしまった。



ありふれた冒険譚の第2部 現代編です。


更新スピードは遅めです。

すんません。

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