邂逅 ④
清志館大学の正門からのびる長い桜並木は、四月一日の入学式の日にはそれは見事な風景だった。今年の桜は開花が早すぎることもなく、ちょうど盛りは入学の日を待っていてくれていたかのようだ。新入生を待ち構える部活動やサークルの勧誘もその風景の邪魔をしないよう、正門からは離れた中庭で行われているらしい。そのようなルールがある訳ではないようで、ただ各々がこの桜並木をどこか神聖視しているのかもしれなかった。確かに記念撮影をしている新入生の親子がちらほら見られる。春の光を浴びたその無垢な笑顔がとても眩しくあたたかい。その様子を見ながら四月一日を「わたぬき」と呼ぶのは流石だと一人変なことを考えて僕は頷いていた。
四月一日。僕は今日一人だ。父は急な出張中で北海道、母は大事なプレゼンが入ってしまっていた。しかし、両親が来られないからといって寂しさを覚えるような年齢でもない。
今朝、生まれて初めてセミオーダーで仕立ててもらったスーツに袖を通して、洗面台の横にある姿見で背中に皺が寄っていないかぐるぐる回って確認していたところ、父に豪快に笑われた。
「なんか、犬が自分の尻尾を追いかけてぐるぐるしてるみたいだな」
ぴたりと動きを止めて応戦する。
「真面目に取り組んでる人の姿を笑うのは趣味が悪くない?」
「はは、確かに。言うとおりだ。でもさ、なんか可愛くってさ」
まだ顔に笑みを残したまま、父親が洗面台の鏡を覗いてネクタイを締める。その姿は様になっていて今日の僕は少しだけ憧れる。ただ可愛いと言われたことに多少なりとも不満を感じた僕はそれを決して言葉になどしない。
「あ、そうだ」
突然、ネクタイを整え終えた父が芝居がかった大声を出してこちらを見る。
僕が黙って首を傾げると顎でリビングの方角を指し示した。
「渡すものがある」
親子でリビングに戻ると母もパソコンと付属ケーブルの束を丁寧に四角いバッグに並べ入れてファスナーを閉めているところだった。僕の横で父が顔を上げた母に何やら目配せをする。
それに気付いた母がリビング端の藤でできた茶色い三段のタンスの引き出しへ向かった。このタンスは母が結婚前から愛用していたもので特別に大切なものを仕舞っていることが多かった。微かな音をたてて引き出しから平たい長方形の箱を取り出す。母はそのトラディショナルブルーの箱をリビングテーブルまで持ってくると
「渡したいものがあるから、ちょっと座って。お父さんと選んだの」
母の切れ長で意思の強さを宿した黒い目で促されてオーバル形のテーブルに向かい合って座る。隣の父も僕の背に手を置いて横に腰掛けた。
「そうだよ、凪沙。入学祝だ」
リビングの朝の清涼な空気に静謐さが混じり僕は背を伸ばして深呼吸をした。テーブルの上に置かれた箱になかなか手を伸ばさない僕に代わって父が恭しく僕の開いた手にその深い海の色の箱をのせてくれた。
この場を支配する緊張感に少しだけ頭痛を覚えながらゆっくりと蓋を開ける。中から現れたのはシルバーの四角いフレームが美しい腕時計だった。僕の割りと細い腕にも合うように主張しすぎない艶消しの施された銀色はこの部屋の透き通った空気に晒され微かに輝く。
言葉を無くしてただこの美しい時計を眺めていると斜め前に腰掛けていた母がうっとりとした眼差しで口を開いた。
「万年筆にするか、腕時計にするか、二人で悩んだの。万年筆も良かったんだけど、私がこの時計に一目惚れしちゃったから」
自分が発した“一目惚れ”という言葉に照れて、はにかみながら父の顔を窺い見る母はいつになく少女性を有していた。父も父とて、そのような母を前にして少しばかり落ち着きを失っているようで、先程から僕の手に腕時計のバンドをまわそうとするが留め金がうまく嵌まらない。僕は左の手首のあたりでカチャカチャと音を立てる父の太い指を右手で静かに制すると、そのままゆっくりと留め金を嵌めた。
パチンと小さく音が鳴って、隣で父が漸く深く息を吐く。僕はカーテンの向こうの朝日に左腕を掲げて暫く腕に時計が馴染むのを見守った。カーテンの隙間から差し込む春の光が今日は一段と眩しい。
きっと今、僕はさっきの母親そっくりの顔をしている筈だ。穴があれば入りたいほど気恥ずかしいが、未だ18歳の僕はそれを隠す術を知らなかった。




