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邂逅 ③

家に着くとお母さんは既に帰宅していた。玄関の三和土に春先から履いているお気に入りのスクエアトゥのパンプスが綺麗に揃えられている。

僕は左右の踵を使って器用にスニーカーを脱ぎ捨てると、一直線にリビングへ向かった。今はとにかく話を聞いてもらいたかった。

リビングへ続くドアを開けてお母さんを探すと、リビングと対面式になっているキッチンのシンクで何かを洗っているようだ。その丸く屈めた背中を見て

(お母さんってこんなに小さかったっけ)

と思い少し酸っぱいものが胸にこみ上げてきたが

(ああ、ただ僕が成長しただけなのかもしれない)

と脊髄反射的に納得してグレーのソファに乱暴にランドセルを置いた。

「ねぇ、ただいまってば」

お母さんに声をかけて自分もソファに浅く腰掛けながら青い靴下に指をかける。右足、左足と順に脱いでいると急に五月の空気が足の短い指の間をすり抜けていく。まだ幾ばくかの冷たさを含んだその風は踊るように僕のTシャツの裾を遊ばせる。

「……………ああ、帰ってたの気付かなかった」

お母さんが布巾で両手を拭きながら振り返った。対面式とはいえ、キッチンのコンロとシンク周りには窓がなく少し暗い。お母さんの表情はあまり見えなかったけれど、声の調子から推察するに、今日は機嫌が良さそうだ。

「玄関でも、ただいまって言ったよ」

口を尖らせて少しの不満を表しながら脱いだ靴下を持って洗面所へ向かう。洗面台の隣の白い洗濯カゴに放り込むと泡で出てくるハンドソープで丁寧に手を洗った。

「だって、フライパンの焦げつきを擦るのに夢中だったんだもんーーーっ」

お母さんが廊下を挟んだ彼方から大声で叫ぶ。年齢にそぐわない張りのある声でする言い訳が大人のくせに少し子どもっぽいなと思い、ふふふと声を出して一人笑った。


手を綺麗にしたついでに汗ばんだ顔も洗ってリビングに戻ると、お母さんもフライパンを白い布巾で拭いている。フライパンの表裏に水滴が付いていないことをしっかりと確認すると満足気に頷き、シンク下の引き出しをその細い指でゆるりと引くとフライパンをあるべき場所へきちんと収めた。

最後に布巾についたループをシンク脇のS字フックへ引っ掛けると、鼻歌を歌うように首を振りながらリビングへやって来る。

無言でソファに鎮座している僕のランドセルをテレビの横のラックに置くとランドセルで少し潰れたクッションの四隅を引っ張り形を整える。二つあるクッションを三人掛けソファの両端に立て掛けると、お母さんはこの空間での定位置である右端に腰掛けた。左端に座った僕は自分の小さな拳の分だけ右へ腰をスライドしテレビをつけるお母さんに話しかける。

「今日さ、陸斗にさ」

「うん?………あ、ちょっと待って」

すぐに遮られる。お母さんの目はテレビ画面の著名人のお部屋探訪コーナーに釘付けだ。リモコンの上でお母さんの親指が宙を彷徨う。集中している証拠だ。今は話しかけない方がいい。少しだけ開けた窓からやってきた青い風が大胆なリーフ柄が美しいカーテンを巻き上げる。

インテリアデザイン会社でデザイナーをしているお母さんは他人の家に強い興味を覚えるらしい。今日は社内ミーティングだけだったようで帰りが早かったが、半日で帰宅できる時でさえ時として帰りが夜になる。オープンしたばかりの店に寄ったり、知らない道を歩いて街並みを楽しんだり、彼女にとってそれは趣味でありながら仕事でもあるのだ。

テレビの中では南フランス風のリビングが印象的な料理研究家の部屋が紹介されている。シーリングファンがゆるやかに回転する画を観ているだけで僕の心にも涼風が吹く。僕はこれ以上右にずれることはせず、ただ目の前を流れる見知らぬ部屋を観ながら右目の端でお母さんの顔を窺い見た。お母さんは左腕を上に腕を組み、この部屋を気に入っているのかいないのか、誰にも読み取れない無の境地の表情で凝視している。


漸くコーナーが終わり、関東地方の天気図に画面が変わった。今なら話しかけられるはずだ。

「………………………あのね、陸斗に前世のことを話したらさ……」

その瞬間、ひときわ強い風が網戸の四角い穴を通り抜けてカーテンに大きな波をつくり、そのままテレビ横のゴムの木の葉を揺らした。少しの砂が左の柔らかい頬を叩いて、僕は反射的に目を瞑る。


だから、お母さんがその様子を顔を顰めて眺めていたことに気付くはずもなかった。


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