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プロローグ ④

今日が卒業式だとは思えないほどの雑多な話を藤本としていると、教室前方の引き戸からガタガタと音が立ち二人で振り向いた。

「…………うーん、最後の日までこんなんかぁー、今日ぐらいちゃんと開けよぉー」

誰に聞かせるでもなく、いや、薄汚れた白っぽい引き戸に言い聞かせるようにぽつぽつと言葉を零しながら教室に入ってきたのは担任の水原だ。長身の身体を幾分屈めて、再びガタガタ音のする引き戸を丁寧に閉める。屈めたままの姿勢で教壇まで進み、脇に抱えていたプリント類を静かに置くと黙って教室を見回した。

散らばっていた僕達はゆっくりと各々の席に戻る。

先生は教室が静まるまで何も言わず少し猫背気味の身体を身動ぎさせることもなく、ただ僕等を待っていた。彼は、時にこのような“理に適う”行動を取る時がある。大声で「静かにしろ」と叫ぶよりも黙り続けて時を待っていた方が実際には早く静かになる。つまり人々の猜疑心と幾ばくかの恐怖心をくすぐってやればいい。

水原先生がこの三年五組の担任になって間もない頃は、彼が醸す霧のように晴れない不透明感が彼の一挙手一投足を酷く不可解で難解なもののように思わせていて、何処となく不気味に感じていた。しかし、数学の授業の余った最後の5分で時折してくれる男三兄弟の末っ子特有の反秘密主義な身の上話や、幼い頃の武勇伝を語った後に右頬にできる年齢を十は押し下げる愛らしい笑窪が徐々に僕の心のバリケードを壊していった。一言で表すならば彼はとてもチャーミングなのだ。今では僕も皆と同様に彼を水原先生ではなく水原さんと呼んでいる。

そういえば、水原さんは今朝も「高校教師37歳限界説」を唱えていた。卒業式の式典前であるのに、とは思ったが、彼なりの照れ隠しであったのかもしれない。贅沢にも時間をめいっぱい使ってだらだらと長く力説してきたのだが、要は、37歳になると体力が高校生と本気で対峙するには限界で、何より世の中の流行を追わなくなってくる年齢だから決定的に高校生と話が合わない、そもそも授業内容も自分の高校時代と違うから何だか気分が乗らない、故に思い描く授業ができなくなってくる、ということらしい。はっきり言ってそれは水原さん個人の問題であって、世の中全ての37歳高校教師が限界を感じている訳ではないだろうと思うのだが、滔々と語る彼のどこか必死な眼差しを見ていれば、そういうものなのかな、とも思えてくる。いや、待て。そういえば、彼は六月にも「36歳が高校教師の限界だ」と言っていた。きっと来年の今頃には次の生徒達に「38歳はさすがに体力が……」とかしみじみ語っているに違いない。


水原さんの目論見通り、ものの数分で隣りの席のクラスメイトの呼吸すら分かるほど静まり返ると、漸く彼は口を開いた。

僕の左の薄く開けた窓から緑を混ぜた校庭の砂の匂いがすり抜けて鼻先をくすぐってくる。

(花粉症じゃなくて良かった)

と、どうでもよいことが頭に浮かんでぱちんと消えた。

水原さんの少し嗄れた声が小さい教室の壁紙まで沁み入る。

「あーー、今日で君たちはこの学び舎から旅立つ訳だが……………」

彼らしからぬ堅苦しい定型文から少しばかりの緊張が伝わってくる。37歳になっても送り出すことに慣れることはないのだろうか。僕は右手で頬杖をつきながらそんなことを思って彼を眺めていた。

水原さんが一度窓の外に目を向けて大きく息を吸う。静けさも相まって空気の流れが止まった気がした。

「……………………是非ね、君たちにはね、この社会の重力みたいなものには潰されずに軽やかに漂い続けてほしいと思ってる」

僕も彼と呼吸を合わせるように息を吸い、そして吐く。

「頑張れなんて言葉、俺は使いたくない。むしろ頑張らない方法を見つけてほしい。肩の力を抜いて話し合える場所や相手が見つかれば最高だけど、見つからなくても落ち込むことはない。俺だってそんな場所、まだ見つかってないし」

水原さんは何かを思い出したのか少しだけはにかんで言葉を止めた。そのまま軽く俯いて教壇に置いたプリントの一番上の紙の端を人差し指でなぞると再び顔を上げる。人差し指はA4プリントの角を丁寧に三角に折り曲げていた。

「……………ただね、考えることだけはやめないでほしいんだ。この世の中を大いに疑ってほしい。あのな、何でも言われたことを素直に受け取っていいのは3歳までだぞ。この世界を形作っているのは人々の悪意と欺瞞と底知れぬ欲の塊だ、と思うぐらいでちょうどいい。あーー、なんだか極端なことを言いやがって、どうしたんだ水原、ってみんな思ってんだろうが…………まあ要するに軽やかであれ、でも疑え、だな」

水原さんが珍しく語尾を強めに切って皆の顔を見回す。

その時、突如入り込んできた春の強風が僕の前髪を左右に揺らし、角を三角に折られた紙切れを教室の入り口まで飛ばす。水原さんが髪を押さえながら腰を折ってだるそうにプリントを拾い上げた。

新鮮な春の匂いは、幼い頃に憧れた砂糖細工のように甘くてぬるい。

「……………まあ、言いたいのは…………」

右手を腰に当てた水原さんとふと目が合う。彼の笑窪が深い影をつくった。

「みんな、卒業おめでとう」



そして僕は大学生になった。

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