プロローグ ③
今朝、卒業式が始まる前に見た黒板のチョークアートは文字通り誰の手垢もついておらず、もっと綺麗だった。今や全ての線描は曖昧模糊となり明朝体をアレンジしたらしき“卒業式”の文字はついに剥がれ始め、描かれた校舎の佇まいは非常に粉っぽく烟っている。
ああ、時が経つとはこういうことだ。たった三時間でこの世の景色は残酷なまでに風化する。
僕は、黒いスクエアタイプのリュックの内ポケットに、先ほど思いがけずに受け取った桜の花弁を、いや、正確にはそれを挟んだ小さな生徒手帳を入れ、ファスナーをゆっくり右から左へ引く。空いた左手を机の中へ差し入れて三月の未だ冷たく滑らかな金属の肌を撫でる。
(忘れ物、なし)
手のひらで最終日の確認をしながら、緑と青の境目が無くなってモザイクのようにお互いを侵食し始めた黒板上の虹を見ていると、背中と肩の、こちらも曖昧な境目をぽんと叩かれた。次いで声が飛んでくる。
「佐治ぃ、ついに最終日だな、俺達」
声だけで誰か分かってはいたが、念のため右肩を軽く回しながら振り返る。案の定そこに居た藤本は今日も今日とて満点の爽やかな笑顔だ。小学校から中学、高校と意図せず同じ道を辿った友人だ。小学生の時分から自慢のコミュニケーション能力で誰とでも日を置かず仲良くなってきた。きっと将来はどこか大きなメーカーの営業部のエースにでもなるのだろう、と勝手に想像していたが、四月からは意外にも医科大学に進むらしい。確かに見方によっては医者も大いにコミュ力が必要な仕事だから勿論無駄にはならないだろう。
腐れ縁とも言えた藤本との仲も今日までだ。僕とて来月になれば清志館大学の学生だ。割りとフラットな感情曲線を持ち得ている僕だが、流石に名門と名高い学び舎には少しばかり胸が高鳴る。
「なんか卓也達が帰りにカラオケ行こーって言ってんだけど、佐治も行くっしょ?」
まるでいつもの放課後の予定を訊くように、藤本は首に手を当てながら綿あめよりも軽いトーンで声を投げてくる。手の平を首に当てて少しだけ擦るポーズは彼が小学生の時分から抜けない癖だ。
「んーーー、今日はどこにも寄っちゃ駄目な日」
僕がファスナーを閉めたリュックを床に置きながら答える。少し屈めた腰を伸ばしながら一度窓の外の水彩画のような空を見る。身体に沿わせていた右手の人差し指を柔らかく折り曲げてみる。次いで中指、薬指、最後に小指、と、そういえばピアノを習っていたこともあったとトロイメライの運びをなぞる。
ふと我に返り、藤本に向き直って少しだけ笑みを見せると
「なに、急いでんの?」
と藤本の大きい二重の瞳が二つ、興味津々といった風に輝く。
ゆるく頭を振って彼の言葉を否定しながら
「そうだな……なんていうか………」
再びステンレス色の窓枠に囲われた淡い青空を仰ぎ見ると、その彼方に明滅する何かを見た気がして咄嗟に顔を背ける。
「なに、なに?」
藤本と再び目が合った。
「間違っても『コーラが飲みたい』とか思っちゃ駄目な日なんだよ」
僕は、先程の浅川さんの仕草を思い出して小首を傾げて答える。思いの外、真面目なトーンになってしまい、少しだけ焦りのために脈が速くなった気がした。
こんな突飛にも聞こえる僕の答えを藤本は訝しがるだろうか。右手で首を押さえてみれば、季節外れの汗が僕の掌の熱を阻んだ。
「なんじゃ、そりゃあ」
ただ藤本はいつも通りにこちらの機微などには全く気付かず、のんびりと声をあげる。僕は彼のこんな春の大きな陽だまりのような態度がいつだって大好きだった。
ありがとう。君の未来に、幸多からんことを。素直にそう思える友人がいて本当に良かった。




