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忌避 ⑤

荒れ狂っていた1時間前の光景が夢であったかのように、僕がマンションのエントランスまで降りてきた時、外はあたたかな霧雨に変わっていた。だからといって、傘なしでは到底濡れてしまう。僕は右の肩紐を外してぶらんと重みのあるリュックを大きく揺らすと左のサイドポケットから折り畳み傘を引き抜いた。傘をカバーから取り出すと、濡れているのか乾いているのかもよく分からない塩梅のナイロン地のカバーをもとのポケットへ押し込む。

ゆっくりと傘を開いて歩き出し、まずは大学方面へ向かうべく大通りへと出る。霧雨が四方八方に踊り、時折髪や頬を濡らす。一つ目の角を左折すると、曲がった先でここへ来た時に悟が片手をあげて挨拶をした青年が10メートル先をこちらに向かって歩いてきていて、僕は反射的に立ち止まった。驚いた傘の水滴が骨をつたって僕のスニーカーのつま先にぼたりと落ちる。やって来る彼は左手でビニール傘を持ち、右手では有名ディスカウントストアのビニール袋を左右に揺らしている。イヤホンでもしているのか振り子と化したビニール袋の動きは一定だ。

急ブレーキをかけた僕に気付いたのか、彼もリズムをとるように小さく振っていた頭を止めて顔を上げた。

「あ」

先に声を上げたのは彼だった。右手に提げていた袋を傘を持つ左手に一時的に避難させ、空いた右手で耳元に手をやると、案の定そこから白いイヤホンを外し柔らかく微笑んで

「山下君の友達……でしたよね」

と声を掛けてくれる。

「ああ、はい。今、帰るところで。って、見れば分かりますよね」

僕も鏡の中の彼のように口角を上げて返した。

「オレ、山下の隣の部屋なんです。あいつ、いいヤツですよね」

“山下君”が“山下”に変わった。

彼と悟の間の具体的なやり取りは皆目見当もつかないが、この短い期間で悟は僕以外の人との交友関係もしっかりと構築していることがうかがえる。一方で僕といえば、悟の社交性に存分に甘えて、その一歩後ろでただ薄く笑っているだけだ。

「確かに“いいヤツ”です。俺も大学で結構助けられてます」

同じ大学に通っていることを暗に匂わせて少し胸を張る。だが同時にこんなマウント取りめいたことを無意識にしてしまった自分にも幻滅した。

眼の前の彼は僕の意地悪な言葉をどう受け取っただろうか、と、そんな後悔がすぐに襲ってくる。

(…………だめだな)

心の底で反省しながらしばらく口をつぐんでいると

「ああ、同じ清志館なんすね。オレも受けたんだけど落ちちゃって。今、上陽大学の一年なんです」

と彼は眉尻を大袈裟に下げてみせた。

途端に、なんだか自分のいやらしい発言で微塵も悪くない彼にこんな台詞を無理矢理言わせてしまったような気にもなり、とんでもなく申し訳ない気持ちになる。

フォローすべき次の言葉を、あれでもない、これでもないと頭を巡らせて懸命に探してみるが、こんな時に僕の頭は働いてくれない。黙ってしまった僕を見兼ねてか、彼は小さく笑うと助け舟を出してくれた。

「………じゃ、また」

フリーズしたまま相変わらずただ微笑むだけの僕に、彼は悟がしたような軽く片手をあげる仕草を見せると、小首を傾げて再びイヤホンをする。

僕は急いで傘を傾げて彼の通り道を作ると、すれ違う背中に声をかけた。

「悟のこと、これからもよろしくお願いします」

名前も知らないただの友人の隣人に、その友人のこれから託す。今、この言葉を発することが、なけなしの僕のプライドだった。

イヤホン越しでも力を込めた声は届いたようで、彼は半身で振り返ると一瞬目を白黒させた後でまだ来ぬ夏空のように笑う。

「りょーかいっ」

爽やかなシトラスのような笑顔に、僕もまた遠慮がちに笑顔を見せて見送った。

いつの間にか霧雨が止んでいる。

深く息を吐き、歩きながら傘の骨を一つずつ折って、その都度都度少しだけ先を振って雨露を落とす。空を見上げれば雲に虹の環が見えてその向こうにしばらく忘れていた太陽の存在を感じた。

その一方で僕の気は晴れない。

大学生になってから自分の嫌なところが日に日に目につくようになってきた。


そういえば、この前もそうだった。


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